夜のドライブは、外の闇に加えて夜のしじまという視覚と聴覚の相乗効果により、眠気が一気に増す。加えて、安室さんのドライブテクニックはぐうの音も出ないほど素晴らしかった。あの、走行中の車を自家用車をぶつけて止めるような奇天烈な行動をとった人物と同じとは思えないほど、ゆったりと心地よいドライブだった。
瞼が重くなる。一度瞳を閉じて、心内で一、二、三と数を数えてまた目を開く。この繰り返しをもう何度やったろうか。思考が船を漕いで、覚醒と睡眠を行ったり来たりを繰り返す。
寝たらダメだ。自分を律して、拳を握り締めて、どうにか寝まいと意識を強制的に浮上させた。

「眠っていても良いですよ。宿まで送り届けます」

そもそもなんで宿を知っているんだ。もはや突っ込む気力もない。

「眠りたく、ないんです」
「気を使わなくても良いですよ」
「そうじゃなくて、嫌なんです」

弱々しく、でもきっぱりと言い放つ。

眠りたくなかった。眠ったら、また焦がれるあの景色が眼前に広がるんじゃないか、そう思ったからだ。
懐古の念に胸が締め付けられて、何かを口走ってしまう可能性もあった。さっきから、ポロポロと心情が零れ落ちていて、これ以上、何かを話したくはない。

眠気を殺すために手の甲を、きゅう、と抓る。一日中歩き通した脚は疲労困憊、身体は疲弊しきっていて、もうあとは意識を手放すだけという状況なのに、脳から発せられる信号が無理矢理私を覚醒させる。寝たい、いやだめだ。
グッと歯を噛み締めて、身体を強張らせる。

そんな私に、隣の席の彼から唐突な話題が振られた。

「あの話、僕は結構好きなんですよ」

うつらうつらと意識が舟を漕いでいた私に安室さんが呟いた言葉。それだけで、深淵に飲まれかけていた意識が僅かながら浮上して、ぱちりと瞳を瞬かせる。「え」と返したら、「マトリックスです」と安室さんは前方を見つめながら応えた。

「見ている現実が仮想世界で、本体の自分は別の場所にいる。脳の電気信号によって外部の情報を人間が認識しているのなら、外界の情報と脳が送る情報が一致していると誰が証明できるのか。僕も幼い頃に観ましたが、実に前衛的な内容だったと記憶しています」

淀みなく喋る安室さんに二、三度、瞼を開けて閉じて、今度はたっぷり三秒ほど沈黙して、最終的に首を傾げた。

え、この人何が言いたいんだ。

クリアになった思考が彼の言葉の意味を探ろうと必死に回り出す。ふざけんな、眠いんじゃなかったのか、とあくせくと働く脳内細胞に合掌した。
マトリックスの話が出たのは偶然だ。私が夢心地だと言ったせいだけれど、そこから話が広がるのは何故?記憶喪失のくせに映画だけ覚えていることに不信感を与えてしまったからそこから探ろうとしているんだろうか。
忙しなく思案する頭はキャパオーバーなのか、そろそろ休ませろと時折眠気の波が押し寄せたり、それを跳ね除けて考えを巡らせようとしたりと、ごちゃごちゃになってしまって。

「……そうですか」

何がだ、と自分でも突っ込みたくなる感嘆文が口から溢れた。ヒートした頭は思考することを放棄したらしい。

「刀海さんは、どう思いましたか?」
「へ」
「マトリックス。観られた記憶があるんでしょう?」

それでも、安室さんの方は会話を終わらせようとはしていない。問いかけと共に向けられた瞳には先を促す視線があって、それを受けた私は返す言を思案する。「そうですね」と顎先を指で撫でて、うん、と小さく唸った。
子どもの頃観たあの映画の細部までは残念なことに思い出せないけど、あの子供心に感じた印象は忘れてはいない。

現実と夢。
どちらが本当でどちらが偽物?

爛々と瞳を輝かせた幼い私が脳裏で問いかけてきて、その姿に一瞬思考が止まる。ぴたりと身体も緊縮し、無垢な自分を見据えた。

「現実が夢で、夢が現実だなんてそんなの、夢物語ですよ。ありえないお伽話です」

幼かった自分に現実を言い渡すように、吐かれた言葉はひどく自嘲にまみれていた。

マトリックスなんて存在しない。此処はコンピューターに支配された世界ではない。AIが発達して、技術革新が進もうと、人の手を介して現在と未来が構築されていくことに変わりはない。領域外の世界なんてものは空想で、現実から逃げたい人間の避難場所だ。
自分の現実は、今自分が見ている世界だけ。そんな周知の事実の中で、それでも避難場所を探して皆、走り続けて、いつだって、逃避したがっている。現実、事実、真実、何かしらから逃避したくてもがいて生まれた妄想の中に引きずり込まれる。

「しかし、認識外の出来事が知覚できないのなら、それが夢物語だと証明すらできないのでは?」
「証明の必要がないですよ。たとえ、本当に現実が夢だとしても起きる術がありませんから」
「なら、起きてしまったらどうしますか?」

なんだこの言葉遊び。会話の意図が理解できずに首を捻る。怪訝な顔付きの私に安室さんは透き通る双眼を向けてきて、朗らかな表層は崩されない。
揶揄っているのか。何がしたいのか。不明瞭な目的にため息が漏れて、それでも、答えを待つ彼に自ずと口は開いた。

「何処かに別の自分が眠っていて、起きたら現実に戻るだなんてそんなの…ただの現実逃避でしかないですよ」

重ねる自嘲も飽きてくる。似たような答えしかできないため、また、うつらうつらと眠気が戻ってきた。
眠って起きたら夢から覚めて現実に帰れるなら、今、私はこんなに苦労していない。今を生きて、帰ろうともがいて、この数ヶ月の間の気持ちの振れ幅は随分と大きかったけれど、最終的に全部諦める方向に落ち着いた。

(落ち着いたのに…)

じくりと胸に広がった鈍痛。それを持ち込んだこの会話の相手を苦々しく感じてしまう。鬱屈とした面持ちを隠すために、顔を下に向けた。
涙と一緒に置き去った郷里への切望に、また、ちくりと胸は痛んで。
じわじわと苛む痛みを振り払うように、今度は視線を満天の夜空へ這わせた。
「でも、」と一呼吸置いて、ぽつりと呟く。

「起きることができたら、て……っ、わ!」

虚空に吐かれた言の葉が締められる前に、唐突に、車が止まった。あんまりにも突然な出来事にシートベルトに身体は食い込み、思わず喉からひしゃげた声が出た。うっと声が詰まって思わず咳き込む。目を白黒させながら、運転下手くそか、と叫びたい心内を落ち着けて、じとりと視線を隣の安室さんに向けて抗議を示そうとしたけれど、彼の顔貌に文句は出てこなかった。

妙に神妙な顔つきで、アイスブルーの瞳をこちらに向けて、かちりと私と視線が交錯しても安室さんはそれを逸らさない。私を見据えて、まるでこちらの真意を見透かそうとする眼(まなこ)に気を呑まれる。どくんと心臓が鳴って、全身の感覚が過敏になる。彼の視線がやけに恐ろしく思えて、掠れた声で「何ですか」とやや不遜に言い放ったけど、内心ビクビクだった。

「安室さん…?」
「……貴女は、本当に不器用な人ですね」
「ぶき、……え?」
「以前、言ったでしょう。思っていることをもっと言葉にした方が良いと」

安室さんの言葉に脳裏に蘇ったのはあの、私が誰かに尾けられた日、雨が激しく降っていて、家まで送ってくれた安室さんがあの、冷笑とも形容できる笑みで私に言った言葉だ。覚えていないわけない。衝撃的すぎて忘れようとしても忘れられない。
でも、それを何で今更言うんだろう。
首を傾げて言葉の真意を問いかければ、安室さんはふと瞼を伏せた。何かを言い淀むように視線が僅かに彷徨って、その姿が見慣れず思わず目が瞬く。「安室さん?」と今度は音を発して彼に尋ねると、彼の瞳がまた私に向けられた。

「本来なら、これを言うべきではないんでしょうね」
「……何を」
「ただ、貴女はあまりにも頑ななんですよ」
「頑なって、」

なんですか、それ、と半笑いになった私の頬の筋肉は、しかし、安室さんの言葉に緊縮した。


「決して思いを口にしないのは、自分を知られるのが怖いから」


違いますか、なんて言われたら、固まるしかないじゃない。

喉を伝って空気が漏れる。息を呑んでゴクリと鳴る喉奥が恨めしい。なんで、と疑問が頭を巡る、けれど、その思考は無意味だった。
逃げられない密室で、逸らされない視線が語る私を探る意思。明確に、言葉にしては初めてだ。初めて安室さんは私への疑念を態度に出した。
のらりくらりとかわしてきたと思っていた彼、或いは彼らからの懐疑の眼差しは、実は泳がされていただけだったのかもしれない。

咄嗟に何か口走れば、ボロが出るかもと思ったため口を噤む。
けれど、それは悪手だった。

「知られたくない事柄に対して、僅かに瞳孔が開き口を閉ざすのは、不必要に情報を吐くことを防ぐため」

伊達に彼は公安警察をやっているわけじゃないだなんて分かっていたのに、改めて指摘されると身体が自然と硬直した。
観察眼に優れていることは十二分に分かっていた筈だ。彼は、彼らは、情報を得るための獲得工作一つでさえ、対象の選定から身辺調査、接触と長期間にわたり相手の隅々まで調べて一挙手一投足まで注視する。さらにそれを、外部の工作機関にまでやってのけるのだ。
一般人の私が何かを隠したところで、彼らにとっては赤子の手を捻るも同然だ。

安室さんの言葉と自然に、ひゅっと息を呑んだ。冷や汗が流れて全身が一気に冷え込む。心臓はばくばく鳴っていて、鼓動が鼓膜に反響して煩いのに、車内に広がるのはしんとした無音だ。夜のしじまが逆に今の状況を際立たせていて、私はなすすべも無く俯いた。
口を開いても、閉じても、どちらにしても現状が好転することはない気がして、でも、どうすれば良いか分からないため結局は安室さんの言葉を待つしかなかった。弁解なんてしたところで、今更意味がない。

「私立探偵という仕事柄、僕は警察の方と話をすることや捜査協力をお願いされる機会があるんですが、そこで貴女のことを少々調べさせていただきました」

安室さんは鋭く光る瞳をひとつ瞬かせて、情報を整理する様子を見せると、ハンドルを一度しっかりと握り、トントンと指先で叩いた。

「貴女は、ある刑事と出会った当初、どこで記憶が戻ったかを聞かれた時に彼に答えた。三週間前に、新宿で記憶喪失の現状に気付いた、と。しかしおかしいんですよ、その一週間前に貴女と僕は出会っていた筈です」
「……そう、でしたか。記憶が曖昧で」

必死に取り繕った不恰好な笑顔が痛々しい。内心、泣きたいくらいの動揺が全身に広がっていた。
その通りだ。私は風見さんに記憶喪失の状態をどこで把握したかと聞かれて、新宿、と答えた。しかも、三週間前、というのは丁度私がホテルをチェックアウトして新宿近辺でスマホを見ながらネカフェを探していた時期。探られないようにするためにも、米花町の名前は出さずにわざわざ防犯カメラに私の姿が映るように行動したというのに全部筒抜けになっていた。ある刑事、は間違いなく風見さんで、安室さんが降谷零として私を探っている以上、情報が共有されているのはおかしいことでもなんでもない。むしろ、遅すぎたくらいだ。

「ポアロの前で貴女は僕に、落し物をしたみたい、と言いました。その会話は貴女が記憶を無くしたことを把握した更に前にされている会話です」

つらつらと事実を淡々と述べる安室さんにもはや恐怖を感じてしまう。畏怖の念も禁じ得ないけれど、感服するのは安室透ではなく降谷零としての顔、或いは探り屋バーボンとしての洞察力か。
閉口して、気まずさと居たたまれなさから一貫して俯き続ける私に、安室さんは更に情報を乗せていく。

「では、僕と出会ってから貴女が新宿に出没するまでの一週間どこに滞在していたのか。街中の防犯カメラだけではなく、宿泊施設のカメラも調べました」

宿泊施設のカメラ、という単語に思わず肩が震えた。ぞわりぞわりと全身が粟立つ。
盲点だった。街中の監視カメラを調べられることは予想していたけれど、数多ある宿泊施設のそれを調べるだなんて想定の範囲外だった。
監視カメラを調べて、私の姿を見つけたら、勿論、次に調べるのは、

(宿泊記録…)

思い当たった可能性に、冷や汗が流れる。
通常、ホテルに泊まる際に書く顧客情報には、自身の名前の他に、緊急時のための連絡先、そして住所を記載する。まさか、それを調べたのか。

どくどくと鼓動が煩い。血潮の巡りが早くなり、呼吸が乱れる。目眩がするほど、気は動転しているけれど、それをおくびにも出してはいけないとなんとか震える体躯を抑え込んだ。

「新宿にあるビジネスホテルで貴方の姿は確認できました。フロントの監視カメラにはたしかに貴女の姿が映っていた。ただ、同時に奇妙なことも分かったんです」
「……奇妙?」

怪訝な声音になった安室さんに、思わず声が漏れた。奇妙、てなんだ。
そろりと視線を動かして、それは自然と緩慢に彼へと向けられた。


「宿泊記録のどの箇所にも、貴方の情報は見当たらなかったんですよ」


丁度、視線が合わさった瞬間に告げられた情報に今度こそ顔面が蒼白になった。サッと血の気が引いて、取り繕う笑みすら出てこない。「は…?」と、ただ告げられた事実を拒絶する一音が漏れた。思考は纏まらず、茫然と安室さんを見つめながら、脳裏では彼の言葉を反芻する。
私の宿泊記録が見当たらなかった。なんで、どうして。確かにチェックインもチェックアウトもして、宿泊者記録に記載もした。それがなくなっていたということは、つまり、

──嗚呼、そうだ。

(……あの時も、そうだった)

はた、と気付いた。思い当たった同じ事象に瞳を見開いて、頭を少し抑えて記憶を辿る。ぐるぐると巻き戻して行って、あの日、初めてこの世界に立ったあの日のテープを再生した。
消えた身分証明書、スマートフォンのデータ。元の世界の私という存在を消して、新しい刀海洸にリセットするかのようなあの現象。それに、似ている。いや、同じだ。元の世界で作り上げられた私という存在の痕跡が一切なくなる。即ち、元の世界で私が記載した情報は全てこの世界では、なかったことにされる。

放心状態な私に、安室さんは淡々と情報を重ねた。

「更に言えば、フロントの監視カメラに映っていたのはチェックアウトする際の貴女で、どの記録にも、チェックインする際の貴女の姿は確認されなかった。ホテルの従業員も記憶が抜け落ちたかのように貴女がチェックインした事実を誰も《知らなかった》んですよ」

「何故でしょうね」と、目を細めた彼にいつもの曖昧に笑う無難な表情すら出てこなくて、それどころか何一つ言葉が思いつかなかった。

元の世界でのチェックイン、この世界でのチェックアウト。不可思議な現象を説明行くものにするために、なかったことにされている私の行動。矛盾を消すために行われた世界の修正が逆に彼に不信感を与えることになったなんて笑えない。私をここに連れてきた何者かはこんな事態を予想しなかったんだろうか。

じっとこちらを見つめる安室さんの双眸から逃げるように膝へと視線を落とす。行儀よく膝小僧に置いた拳をぎゅっと握った。
そこまで調べられていて、不可解な事象が浮上して、それで、その先に彼はいったい何を画策しているんだろう。怪しい身の上、重ねられた嘘、説明不可能な現象、調査結果を当の本人に提示したことで何を得ようとしているのだろう。
アイスブルーの瞳から放たれる視線が痛くて、ちくちくと肌を刺す空気に、息が詰まりそうだった。

静寂が訪れて、時間だけが無為に過ぎていく。すると安室さんは、俯き、無言を貫いていた私からふと視線を外したかと思うと、ため息混じりの声を漏らした。

「……本来これは貴女に言うべきではなかった」

妙に柔らかな声にぱちりと瞳が瞬く。棘が取れた感触のする声音に、緊縮していた体躯が弛緩して、思わず安室さんに視線が行った。
当の彼は私ではなくフロントガラスの向こう、闇に伸びる一本道に視線を遣っている。

「けれど、貴女は頑なだ。他人を警戒して、一切をこちらに見せない。だから、僕が調べた事実を敢えて貴女に伝えました」

滔々と思いを綴る安室さんに何も言えなくて、ただ黙って彼の横顔を見つめる。私の視線を受けながら、彼はただ紡いだ。

「誰にも秘密のひとつやふたつはあります。僕にも、店長さんにも、そして、……刀海さん、貴女にも」

間をおいて、ひとつ瞬いた瞳は私を捉えた。一瞬、ぴくりと肩が震えてしまったけれど、アイスブルーの瞳の中にあるのは、探り屋、公安としての色とはまた別の色に見えて、その変化にふと思案する。

これは、誰の色だろう。

そう薄ぼんやりと思った時、あっと思い当たるシーンが蘇った。
脳裏に思い浮かべたのは、彼が時折コナン君達に見せていたあの抜けたような笑み。バーボン、安室透ではない、寧ろそれは、

(降谷さん)

公安警察ではなく、降谷零個人の色。警察官として対峙する時の緊迫感と一線を画すあの色ではない。ただの一個人として相対したあの姿ではないか。
そう錯覚する程度には、鋭い目色を纏っていない相貌だった。

安室さんの表情を見つめる私に、彼はふと口の端を僅かに結んだ後、諦観を込めた声音で呟いた。

「僕は、探偵です。暴く要請があれば、貴女を疑わなければいけない」

苦しげに伏せられた瞳に、胸の奥にゆらりと暖かい焔が灯る心地がした。とくんとくんと緩やかに鼓動が脈打って、心地良い感覚が全身を和らげる。
染み渡るその温度に、薄っすらと目を細めた。

優しい人だと思った。

本来なら伝えるべきではない。不審な行動、現象を掴んだのなら、泳がせて相手が尻尾を出したところを詰め寄ればいい。相手の退路を断って、詰めていくことが最善策だからだ。
けれど、安室さんは、敢えて私への不信と調査結果を口にした。伝えるべきではない、という言葉からして決して最良の策ではなかったはずだ。

「疑われるのは気分が良いものではありません。探られるのも嫌でしょう。重々承知しています。それでも、」
「ふ、ふふ、はは」

堪えきれずに声が漏れて、掌を口に当てる。肩を震わせて、くすくすと笑い声を上げる私に、安室さんは目を丸くした。
そんな安室さんに構うことなく私は笑いを零し続ける。頭でもおかしくなったのか、と安室さんは怪訝に顔を染めたけれど、だって、仕方ないじゃないか。
嬉しかったのだ。彼の思惑や、計算とか、諸々の事情は全部外に置いて、とにかく私は嬉しかった。
ひとつだけでもいい。ただ、私を取り巻く状況が今どうなっているのか、その現状を彼が伝えてくれた事実に、堪らなくほっとした。怖くて、辛くて、帰りたくて、諦めて。感じていた戸惑いは不安に変わり、諦念が支配していた私にとって、謎に包まれた彼からの言葉は胸をなで下ろすには十分な効果があった。
追い詰められていたからかもしれない。これも獲得工作の一環かもしれない。それでも、嬉しいことに変わりはなかった。

ひとしきり笑った私は、すみません、と謝罪して安室さんに向き直った。

「少しだけ、すっきりしたんです。何も分からなくて、どうしたらいいかも分からない中で、そうやってハッキリ言ってもらえるのはありがたかったです」
「怒らないんですね。てっきり、罵倒されるものかと」
「まさか。だって、私自身が知りたいくらい、怪しいところがいっぱいですから」
「自覚はあるんですか…」
「ない方がおかしいでしょう。でも、本当に分からないことの方が多いんです」

眉尻を下げてそう伝えれば、安室さんは肩を竦めた。

「刀海さんがなぜ嘘を吐いたかは、今は聞きません。何か理由があるんでしょうけど、秘密のひとつやふたつは誰にでもありますから」

そうして、悪戯っぽく笑みを浮かべた彼はやっぱりイケメンだった。サマになる表情と仕草に見惚れていたら、こてんと首を傾げられたため慌てて膝小僧に視線を集中させる。
今は聞かない。それだけで、ありがたかった。

私の知る事実、この身の上、それは伝えてしまえば楽になるかもしれないけれど同時に扱い辛く、そして危険なものだ。
情報は何よりの武器であり、身体的な痛みを伴わない暴力措置と化す。理解しているからこそ安易に他人へ洗いざらいに喋ることは憚られる。たとえ、どれだけ親しくなろうと、いや、近しい人にこそきっと話してはいけない。
今はまだ、留めておかないといけない。
それは、この世界に残されて、それを受け入れた私なりのケジメだった。

安室さんの言葉を反芻して、咀嚼して、自分自身の気持ちをなだめて。言葉を整理して何かを伝えたかったけど、出てきたのは月並みな言葉だった。

「ありがとうございます、安室さん。ちゃんと話してくれて」

謝意を述べると、安室さんは一瞬表情を固まらせたけど、直ぐに破顔して「いえ」と首を振った。


ドライブを再開したRX-7に揺られて、夜のしじまを駆ける。閑寂が辺りに漂う空気の中、私の思考はまた霞がかってきていた。
肩の力が抜けたことで、緊張して張っていた身体にどっと疲れが押し寄せてきて、飛んでいたはずの眠気が帰ってくる。眠ったらいけないと思っていたのに、なんだかそれも、どうでもよくなって。

「ごめんなさい、安室さん…ちょっと、ねむ、くて」

早朝から深夜近くになる今まで歩き通していた身体はもう限界らしい。体力だって人並み程度にしかない私にとって、この度の遠征はひどく疲れた。疲労はピークだ、寝かせろ、と脳内信号が伝達してきていてそれに逆らうことなく瞼は落ちてくる。加えて、「どうぞ、寝てて下さい」なんて穏やかな声音で言われたら、そんなの思考を停止させるしかないじゃないか。

「Free your mind.」

夢現となっていた思考で、隣の安室さんがぽつりと呟いた。一文だけれど流暢な英語。やっぱりこの人英語もペラペラなんだと思う前に、その一文に思いを馳せる。
嗚呼、それはあの映画の台詞だ。


(心を解き放て、か)


「良い夢を」


──洸さん。


呼ばれた名前に反応する気力もなくて。揺蕩う思考の中、私はおもむろに口を開いた。

「あむ、ろさん、」


──いつか、ちゃんと。


胸に湧き上がった思いを伝え切れたか分からないまま、視界が黒く塗りつぶされて、私の意識は沈んでいった。



23
Act.1 了


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