人生に、出会いと別れは付き物だ。それはワンセットで各個人に提供される。家族、友人、知人、同僚、同期。カテゴライズされた凡ゆる他者との関係は出会いと別れを伴う。郷里を離れる友人、残る家族、生活の場が違うことになり離別を選択することもあれば、永遠の別れが訪れることもある。
この世界に来てから、私は出会いを重ねている。溝口夫妻、安室さん、風見さん、コナン君、少年探偵団、哀ちゃん、阿笠博士。連なる出会いが私という個人の輪郭を明確にしていって、存在を際立たせてくれている。既知のキャラクター以外の人との出会いと交流も重ねられて、私は生活をしている。
だから、こんな出会いもあるものなのか。
「初めまして、刀海洸さん」
不遜な態度でそう言い放った彼との出会いは、少々衝撃的なものだった。
*
ジメッとした空気が肌をいやに撫ぜて、ぴとりと貼りつく下着が気持ち悪い。かといって、冷風が直接来る位置にいるとお腹を冷やすので、丁度いい位置に座ろうとするとテーブル席はいっぱい。必然的に足を運ぶのはカウンター席になった。
「洸さん、何にしますか」
「コーヒーと……何にしようかな」
うん、とメニューとにらめっこするのは恒例で、梓さんもにこにこと華を浮かべながら私を待つ。この間はレアチーズケーキ、四日前はガトーショコラ、殆どのメニューは食べ尽くしているからやっぱり迷ってしまう。
「……あ、今週から新作ケーキ出てましたよね」
そういえば、と顔を上げた私に梓さんが、そうですよ、と待っていましたと言わんばかりの相好を崩した。その表情からして、今回も頬が落ちるほどの絶品であることが伺える。いや、いつもそうであることは重々承知しているけれど。
ルンルン気分になった梓さんを見てこちらも同じように破顔して尋ねる。
「今回は何のケーキなんですか」
「紅茶のシフォンケーキ、バニラアイス添え。トッピングはベリージャムですよ」
梓さんの返答の前に朗らかな声がカウンターの奥からやって来て、同時に顔を出したのは、安室さんだった。ついでに、手には口にしたメニューを持っての登場。できたてのシフォンケーキにバニラアイス。ベリージャムは多分、手作りなんだろう。ベリーの香りが際立っていて、その甘い匂いに思わず皿を凝視する。あ、これ食べたい。
「じゃあ、新作ケーキお願いします」
「ふふ、了解しました。安室さん、お願いしますね」
「分かりました」
肯首した安室さんからケーキを手渡された梓さんは、テーブル席へとそれを運んでいった。よく見ると多くのお客さんが新作ケーキに舌鼓を打っているようで、彼方此方で満悦そうな顔が見受けられる。さすが、パーフェクトアルバイター。顔も良ければ腕も良い。
早く食べたいな、と心をぴょこぴょこ踊らせていると、戻ってきた梓さんが「そういえば」と何かを思い出したのか、パンッと両手を合わせた。
「洸さん、これに興味ありませんか?」
「ん?」
「ペアチケットのなんと三枚綴り!お客さんに貰ったんです」
満面の笑みで、ずいっと私の目の前に差し出されたのは三枚の紙切れ。んん、と焦点を合わせて文字を追って行くと、記載してあったのは、トロピカルランド。トロピカルランドってあのトロピカルランドか。
「トロピカルランドのペアチケット、三枚も貰えたんですか?」
どんな太っ腹なお客さんだ。梓さんに聞けば、なんでも、時折店に来る年若い男性だそうで、職場の歓迎会のビンゴゲームで当たった景品ならしい。三枚分ということは、家族を抱える人間が当てることを狙った景品だったのでは、と男性は考えて受け取りを辞退したらしいが、せっかくだから彼女や友人に配れ、と無理やり渡されてしまったという。彼女もいなければ、近しい友人は皆地方にいるとのことで、時折訪れる店の看板娘、梓さんに渡したとのことだった。なんたる偶然、なんたる幸運。女神に幸運はつきものだと感嘆の色を隠さずに私は目を輝かせた。
「いいですね、一度行ってみたかったんです、トロピカルランド」
頬を上気させて答えた私に梓さんは、やったあ!、と歓声を上げる。
トロピカルランド。それは名探偵コナンの始まりの地。工藤新一がジェットコースターでの事件を解決して、黒づくめの組織の怪しげな取引現場を目撃し、組織の幹部、ジンにアポトキシン4869を飲まされることからスタートした物語の先頭地点。さらに言えば、此処は映画の舞台にもなっていた。コナン世界では重要度の高い地域だ。
気分転換がてら、騒ぐのも良いかもしれない。記憶の中のアニメのワンシーンを辿ってみたくないわけではないし、何より…
(気を使ってくれてるよなぁ)
スケジュールを手帳で確認する梓さんを目端に捉えて、出された珈琲に口を付ける。
帰省して以降、梓さんは目に見えて私に話しかける時のトーンが一つ上がった。いつも爛漫な笑顔を見せて話しかけてくれるけれど、加えて声音も変えているというのは、やっぱり思うところがあったのだろう。梓さんは人の心の機微に敏感だ。そんな梓さんの笑顔に私は少なからず救われている。ありがたくて、同時に申し訳なさに目線が下がる。
安室さんが奥からまた現れて梓さんにケーキを渡す。一つは私の前に出てきて、もう一つはまた別のお客さんの元へと運ばれていった。
「……梓さん、心配していたんですよ」
「え」
「時折、不安そうに何処かを見つめてた洸さんを見て何かできないかと相談されたんです。彼女は優しい人ですから」
目色に暖色を交えながら梓さんに視線を寄せた安室さんにつられて、私も彼女の横顔を見つめる。お客さんにいつも通りの可憐な笑顔を向ける彼女に余計な不安を与えてしまっていたのかと改めて自省した。
状況が好転したわけではないから、確かに晴れやかな気分であの場所から帰ってきたわけではなかった。安室さんとの邂逅で少しだけ彼の不器用な優しさに触れたけれど、それでもどちらかといえば捨てたものの方が大きい。帰郷という切望を彼の地に置いてきたというのは、存外堪えていた。
胸に秘めている自身の情報という凶器は危殆を孕んでいるため、身の振り方ひとつでも最新の注意は必要となる。その細やかな緊迫感は常日頃から持ち合わせなければいけないため、安室さんが差し出してくれた手は諸手を挙げて喜ぶべきものではなかった。
それでも、それを表面に出しちゃいけない。
「なんだか、心配ばかりかけてますね、私」
しっかりしろ。いい大人が、感傷に浸ってどうする。
はぁ、と嘆息して自身を奮い立たせるために、もう一度コーヒーを飲む。ほの苦い口当たりで、どこか身が引き締まる思いがした。
「なら、思う存分楽しんできてください。洸さんが楽しくしていれば、梓さんも安心しますから」
きゅっと表情を固くしていた私に安室さんが目尻を下げて微笑む。朗らかなベビーフェイスは温色を湛えて私を見つめて、その柔和さに困ったように眉尻を下げる。安室さんのベビーフェイスは目に毒だ。爽やかな風が吹く心地がする。
あの日以来、安室さんは私を下の名前で呼ぶようになった。何の心境の変化かは分からないけれど、あの日以来だ。
あの日、宿に送ってもらった私は眠りまなこを擦りながら安室さんに抱えられて部屋へと戻った。お風呂はとうに時間が過ぎていたため、気絶するようにそのまま布団にダイブし、朝起きて風呂に入った後、チェックアウトをして外に出れば国産のスポーツカーが目の前に停まっていたからとりあえず回れ右をしてもう一度民宿の扉をくぐった。何事だと目を丸くした女将さんとたっぷり三秒は見つめあってからまた外に出れば、紛れもなく目の前にはRX-7。純白の国産車はそのフォルムも含めて優美で洗練された一級品なのだけれど、運転席で待ち構えているのがこれまた美麗な優男だと腰が引けるのは否めないと思う。「空港まで送りますよ、洸さん」と穏やかな笑みを湛えられたら逃げ道なんてなくて、名前呼びになった、と頭の隅で思いながら暫しのドライブを共にした。
勿論、東京に戻ってからも名前呼びは変わりなく、ポアロで梓さんにご当地のキーホルダーや銘菓を渡していた時だった。調理がひと段落した安室さんに梓さんが銘菓を差し入れすると、彼は私に向き直って満面の笑顔で、「ありがとうございます、洸さん」と言い放ったのだ。一瞬にしてその場の時間は止まり、硬直した私や梓さんに背を向けて奥へと姿を消した安室さんに文句の一つでも言いたかったけれど、その前に梓さんからの怒涛の質問攻めにあった。
(何があった、て言えないよね)
何かあったんですか!と詰め寄られて、何もありませんでした、としか言えない。事の仔細なんて話せるわけもない。安室さんが旅行先についてきましたと言えば、仲睦まじい関係になったのか、はたまた安室さんはストーカーを働いていたのかと言われるだろうし、逆に、私の身の上の不振な点を話せば怪訝な瞳が私を射抜くだろう。曖昧な笑みでかわすことしか出来ない私に梓さんは何か言いたげにしたけれど、結局「分かりました、深くは聞きません」と諦めてくれたのだ。
隠し事が増えたことで、更に嘘を重ねる割合が増していくのが心苦しい。それでも、こちらを生きるのならそれも呑み込んで、身の振り方をきちんと考えないといけない。
いつまでも、帰れない場所を求めていたって始まらないのだから。
「そうですね。きちんと、楽しまないと」
善意、好意を真正面から受け取ることはまだ難しくても、せめて、梓さんを、そして─
(秋穂さんも)
不安にさせない程度には、取り繕えるようになりたい。
卒なくこなすことはうまい。それは人並み以上にできる自信がある。取捨選択の早さは取り柄で、今切り捨てるべきものは何かを脳内で弾き出してそれを切り捨てたり選び取ると言う行為は昔から得意だった。
気の持ちようだって、要は取捨選択の一環に過ぎない。心配をかけないように不要な感情には蓋をして、ギリギリ分からない程度のラインで過去を回顧する。
そのためには、適度な休息が必要だ。対面する現実に晒されているだけでは神経が摩耗してしまうなら、時々、羽目を外してひたすら何かに没頭したほうがいい。社会生活と同じ。会社での陰口、上司からの小言、という不条理に晒されてゴリゴリに削られる精神は何処かでMPを回復させないと潰れてしまう。
上手く自分の心を転がして、操って、現在を生き抜く。望郷の念を胸にしまって、ここで生活することを今一度胸に刻むことを私は選んだ。
楽しめる時に楽しんで、好意と善意も糧にして、図太く生きろ。
よし、と気持ちを新たにする決意をフォークに込めて、シフォンケーキを口に含む。甘く、でもしつこくない口溶けの良い生地が舌を悦ばせる。絶品だ。添えてあるバニラアイスは業務用のものだろうけど、この生地は間違いなく安室さんお手製。ベリージャムも砂糖をあまり使っていないのか、素材の味を生かした仄かな甘味が特徴的だ。
脳に糖分が行き渡る感覚がして、思わず目を強く瞑って全身で旨味を甘受する。「そこまで反応を頂けて嬉しいです」と、目に見えて喜色を見せる私に安室さんが苦笑した。
「あらら。仲良しですね、お二人とも」
給仕を終えた梓さんが頬を緩めて戻ってくる。何かを勘違いしているのは明白なのだけれど、無理に否定しても逆効果だろうから、「悪くはないですからね」と二人して顔を見合わせた。
すると、梓さんはぱちりと瞳を瞬かせた後、頬を上気させ、口角を上げると「そうだ!」と手を叩いた。満面のの笑みに首を傾げた私達に、彼女は高揚を露わにする。
あれ、これもしかして結構突飛なことを考えてないか。
まさかまさかと思いつつ、冷や汗がたらりと垂れた私。目端に安室さんを捉えたら、ニコニコと人の良い笑みを浮かべてるだけで心情までは推し量れない。
そうして、梓さんの口から放たれた提案に、やっぱり私は笑顔のまま顔面を硬直させた。
「安室さんも、一緒にいきましょう!トロピカルランド!」
ベビーフェイスの顔貌に、亀裂が走った気がした。
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