どうしてこのタイミングで、とか、なぜこの場所が、とか気になることは沢山あった。沢山あったのだけれど、思考を巡らせる余裕がないほど私はこみ上げた情動に突き動かされた。

「洸さん!」と、後方から安室さんの焦った声が届いたけれど、構うことなく駆けていく。見失ったらいけない。警鐘が鳴り響く頭が唯一絶対の指令を出していた。
雑踏を抜けて、消えた彼はどこかと目を凝らしたら噴水広場を通り抜けようとしていて、視界から消してはいけないとまた足を動かす。待って、と音のない言葉を紡いで走る。体力なんて人並みにしかないから息が上がって、夕刻になっても居座る暑さが体に絡みつくけれど、それでも必死に後ろ姿を追った。
追いながら、ちらりと時計に視線を走らせる。長針と短針が、やけにスローモーションに見えて、同時に、脳裏に噴水広場の詳細が蘇る。午後四時五十九分を長針が指したのを確認して、再度前を向いた。
階段を数段飛びで降りて、足を回して、一点だけを見つめて走る。見失ってたまるかと、勝気な自分が唇を噛んだ。

「洸さん!」
「っ、!」

噴水の真ん中を抜けて、外周から体が出た刹那、後ろから聞こえた声に思わず振り向く。かちりと私を追いかけるアイスブルーの瞳と視線が交錯した。「洸さんっ、」と、自分を見つめる瞳が、何かを訴える。
けれど、彼の唇が何かを紡ぐ前に、カチリカチリと動いていた秒針のカウントが、ゼロになった。長針はくるりと円を描いて、真上を指す。
刹那、水しぶきが一斉に円環状に湧きあがった。水のショーが繰り広げられ、待ちわびていた人々の歓声が響きわたり、辺り一帯に細かな水が飛んだ。
この場所では二時間に一度、円を描いて水が噴き出る。それを知っていたからこそ、ここを走ったのだ。
噴水のせいで、安室さんの顔が揺らめく。幾重にも重なる水の壁に阻まれた安室さんは中心で身動きがとれなくなっていた。水の中で屈折するその相貌が、朧げに見える。
自分を呼ぶ声が聞こえる。それでも、その声を背にして私は前を向いた。
後ろ姿を見せていたそいつと目が合う。それだけで、ここにそいつがいる動機を問い質す理由になった。
視線が交錯したと分かった瞬間、そいつはまた私の前から姿を消した。
安室さんの声が聞こえる。焦りと静止の色が含まれる声は私の色を染めず、胸に湧き上がる情動に突き動かされる。
追わないといけない。漠然とした強迫観念にとらわれて、私は再び走り出した。



野生と太古の島、たしか作中ではそう呼ばれていた。多種多様な恐竜が出現して、溶岩流に見立てた川を下るアトラクション。
列をなしている客を尻目に、私は、立ち入り禁止のロープが張ってある区画へと足を踏み入れた。立ち入り禁止とあってひと気が少ない。従業員用の出入り口か、通用口なのか。それでも、その道は分岐していない、一本道だ。
心臓の鼓動を落ち着けて、でも早足で通路を歩く。洞窟のようになっている道を数百メートル、抜け道のないそこを歩いた先にあったのは、島の一番上、パークを一望できる開けた場所だった。
従業員しかいないはずのその場所に近づけば、眼下に広がる彩溢れた園内の様子を見下ろす、男がいた。視界にそいつを収めた私は生つばを*み下す。口を開こうとして、でも少しの惑いが喉から言葉を出すことをためらう。初めにかける言葉は何が相応しいかを思案して、でも妙案なんて思いつかない。
言葉をかけなければいけないのに、いざ目の前にそいつが居る状況に怖気ついてしまった。

「……これを、貴女に言うのは違うかもしれないが」

佇立している私より先に沈黙を破ったのは、男の方だった。若い、私と同じかそれか下くらいの声音。平坦な音は思考を読ませないためか。声に加えて、瞳にも揺らぎは見られない。
ゆらりと身体が揺れて、緩慢な動作でこちらを見やった相貌をしっかりと見据える。拳を握り締めて、引いてやるもんか、と強い意志を込めた視線を向けた。

「初めまして、刀海洸さん」

いや、一度会っているか、と小さく呟いた彼に、詰めていた息を微かに漏らす。

「……こんな場所で、まさか一人で遊びに来たわけじゃないですよね」

眇めた視線で不信感を語る。詰問したい衝動を堪えて、努めて平静を保った。本心は、詰め寄って胸に積み重ねてきた憤りをぶちまけたかったけれど、それをしてしまったらこの淡白な相貌を保つ男に負けるような気がして、激情を包んで胸の奥底にしまう。

この男とは、初対面なんかじゃなかった。

初めて私が尾行されていたあの日、私はこの男の腕を捕えたのに、安室さんが登場したことによって、問い質す機会は絶たれた。店長の動向を探り廃工場に赴いた時には、風見さんの横にこの男が居た。
この男は、私を取り巻く疑惑の目のうちのひとつの筈なのだ。

「何のために、私を尾けているんですか」

抑揚のない声音を彼に向ける。

「貴方は、いったい何なんですか」

けれど、語尾が僅かに震えてしまって、その事実に、遣る瀬無さがこみ上げた。感情をコントロールするプロでない素人の私は、心の昂りがそのまま声に乗せられてしまう。淡々と彼を詰問したいのに、湧き上がった情動はただ私の心情を吐露した。
拳を握り締めて、燻る想いを呑み込んで、逸らしたい視線をまっすぐ伸ばして、私は問うた。お前は何だ。風見さんの隣にいたことを見ると同類であることは明白だ。けれど、私がそれを見ていたことを彼は知らない。だからこそ、彼の素性を問い質すことは出来なかった。
かわされるか、それともしらを切られるか。どちらの可能性もあり得る。しかしそのどちらでも、私はこの男を逃す気はない。
私を取り巻く事件の煙を晴らす手伝いを、この男がしてくれるかもしれないのだ。何が起きているのか、何の思惑があるのか。謎を解くためには、裏側の事情を知る人間がどうしても必要だ。
これ以上、振り回されて、掻き乱されるのはごめんだった。

沈黙を保っていた男は、じっと私を見つめる。思考の読めないその瞳に気圧されそうになりながらも視線を外さない私に、男はぽつりとひとつ言葉を漏らした。

「……さすがに、此処まで来るとは思っていなかった」

男の唇から僅かに漏れた嘆息。能面の面立ちに諦念が滲み、その顔が俯く。ひとつ瞬いた男は鋭い視線を宿す私の瞳に臆することなく、一歩二歩とこちらに近付いた。思わず半身を下げてしまったけれど、なけなしの勝気さが足の裏をその場に縫い付ける。
ぐっ、と堪えてすごむ私の視線を受け流して、男はジーンズのサイドポケットから何かを取り出した。その何かを確かめる前に、男はそれを私の前に差し出した。

「警視庁公安部、結城亮」

発せられた単語と名前はそれに書いてあって、目で文字を追った後、文字と男の双眸を交互に見遣る。一音も発しない私に、結城と名乗った彼は肩を竦めた。

「不審者じゃない、ただの警察官だ。信じられないなら確認してもらってもいい」

自分が警察官なのか私が疑っていると思っているのか。あいにくと、こっちは風見さんの隣にいた男を見ているため、警察官なことも所属が公安なことも知っている。
愛想笑いひとつすら浮かべない男が差し出した警察手帳を、数歩近付いて確認する。確かに、所属と名前は彼の言葉と一致していることを確認する、動作、を見せて私はひとつ息を吐いた。

「確かに、確認しました」

それで、と続けて、能面を睨みつける。

「公安警察の方が私に何の用ですか?尾行までして」

尾行、を強調すれば結城と名乗った男は表層に影を落とした。真一文字に結んだ唇を震わせる。

「捜査中の案件なので話すことはできない」
「尾行された側の気持ちを考えて下さいよ」

吐き捨てるようにそう言ってやれば、男は微かに唇を結んだ。瞳に滲んだ苦悶の色に、しかし追求の手を緩めるつもりはない。

「捜査の一環で貴女に不快感を与えたことは謝罪する」

結ばれた唇が開かれて、紡がれた陳謝の言に、心中でぐっと拳を握る。だめだ、此処で《気を緩めてはいけない》。
弧を描きかけた唇を引き締めた。

「何の捜査をされているんですか」
「……答えかねる」
「何かの事件の捜査線上で私の存在が浮かび上がったから尾行したんですよね。例えば、一千万円の強盗事件とか、密入国者のグループの摘発事件とか、ですか」

矢継ぎ早の質問と確信を持った声音で詰め寄る。答えなければ返さないと圧力を込めた視線を送った。
男は、私がその二つの事件を例に挙げると僅かに目を見開いた。

「……自分でその発言をすることの意味を貴女は分かっているのか」
「さあ、私はただ、あの時期に紙面を賑わせた事件を思い出しただけです」

平坦な声音で返す。視線を逸らさず、平静を保ち、秘密捜査のプロに対峙する。正直、内心はびくびくだ。でも、それをおくびに出してもいけない。
自分の置かれた状況を理解するには、この男が必要なのだ。
これまでの約二ヶ月間。この世界に来て、いつのまにか公安にマークされて、身に覚えのない疑惑をかけられた。信じていた人の裏を知り、拠り所を求めて彷徨った。全部、事が起きてから自分が置かれた状況を理解したため、行動も後手に回り心の整理だってまともにできなかった。
自分のことは自分が把握しなきゃいけない。自分の身を守るのは自分だ。

今、この男は私に情報を渡したくない。尾行がバレて、ここまで追いかけられて追い詰められたため、必要な情報、即ち私が一番欲する情報だけ置いて帰ろうとしている。しかし、そうはさせるかと、こちらだって既知の事実をカードにこの男を引きつける。何も分からない小娘ではなく、ある程度の情報を持つカモとでも思ってくれればそれでいい。
情報は武器だ。時にそれは暴力となって人を殺す。その価値は、情報を転がすプロの彼、ないし彼らなら嫌というほど分かっている筈だ。

それに、

(奥の手は、ある)

大丈夫、と自分に言い聞かせた。

男はじっと私を見つめた。黒鹿毛色の瞳の中に震える自分を見ることができて、しっかりしろと己を律する。心中を探るような視線に心臓はばくばく、いや、びくびくと脈打っていて、ただなけなしの理性が、それでも、と言い続けた。

「……捜査中の案件を、一般市民に話すわけにはいかない」

ひどく低く、重い声音が男から漏れた。重々しい音から察するに、悩んだ上での発言だということは理解できた。

以前、地方紙でサツ担当、所謂警察担当をしていた記者の友人が、アニメを見て漏らした言葉を覚えている。

《コナン君になれば、楽だなぁ》

刑事は、夜討ち朝駆けをしようと簡単に口を滑らせない。捜査情報の開示は基本的にトップの人間が記者会見の場で明らかにするものだ。いくら情報を得ようとしても、口は固く、更に紙面に載せるとなれば、情報は課長クラス以上に限られる。信ぴょう性のある情報というものは、一捜査員が漏らす小言程度では駄目なのだ。もちろん、そこから課長クラス以上の人間に接触することはあるものの、そこからの収穫はほぼゼロに等しい。
刑事が小学生に情報を漏らし、警部が一民間人を事件現場に入れる。そんな、あり得ない世界がこの名探偵コナンの世界だった。

しかしながら、私自身はそんな主人公補正が働かないただの一民間人だ。

「そうですか」

ふと、視線を落とす。

しかしながら、だ。しかしながら、一民間人といえど、民間人なりの処世術があり、世渡りの術を学んできたのだ。この名探偵コナンの世界において、現実世界と同じ平和でのほほんとした穏やかな生活が続く保証は残念ながらない。

落とした視線をバッグにスライドさせる。外側のポケットに手を入れて、かちり、とでっぱりを押す。微かに目の前の男の目が見開かれたため、数歩後方に身体を下げた。「まさか」と漏らされた言葉に、視線をゆっくりと上げた。

「先ほどまでの会話は録音しています。貴女が一民間人を尾行していたことはきちんと証拠に残させてもらいました」

私の発言に、男は顔を歪めた。
バッグからそのまま手を引く。ICレコーダーは出さずに、代わりに、スマートフォンを片手に持ってさらに続けた。

「もし、私の質問に答えてもらえないなら、これを、」
「警察に渡すのか?」
「……いいえ」

首を横に振る。
警察に渡したところで大した意味はない。そもそも、彼は公安だ。公安は、その手の証拠も握り潰すことが可能だ。少なくとも、私の知っている名探偵コナンの世界の公安は、べらぼうに自由のきく恐ろしい部署である。違法作業?ああ、いつものね。そんな顔してされても困るけれど。
だからこそ、このICレコーダーを渡すとしたら、もっと別の、《食いつきのいい》機関だ。

ゆっくりと息を吐いて、状況をひっくり返す奥の手を紡ぐ。


「これを、報道各社に音声データとしてばらまきます」


あ、今怖いくらい顔が歪んだ。
報道各社、という単語を出した途端に、男の相貌にはヒビが入った。先ほどの顔面の歪みが可愛いほどだ。能面に走った亀裂の隙間から般若が見え隠れする。
それでも、臆さずに私は続けた。

「新聞、テレビだけじゃないですよ。週刊誌にだって送ります。どこだって、警察の不祥事とか、公的機関の不始末は嬉々として放送しますから、警察のイメージダウンは避けられませんよね」

警察組織は不正、不祥事を嫌う。立場上、不正不祥事を取り締まる側だからこそ逆の立場となる案件に関しては神経を尖らせる。
特に、それを情報取得のプロであるマスコミに嗅ぎ付けられることを何よりも嫌う。不正の一端でも見せれば、芋づる式に情報を辿り掴んでいく手腕を毛嫌いする人間は少なくない。
公安警察官の不当な監視、尾行。加えて被害者の証言でもあれば御の字か。涙ながらに訴えれば、最高の演出になるだろう。反吐が出そうな案だけれど。

「あの一千万円の強盗事件の犯人達ってまだ捕まってませんよね。密入国者を囲っていたグループの残党だって捕まえられてない。捜査に進展が見られない中、一民間人を不当に監視していたなんて事実を、マスコミにばら撒かれるのは得策じゃないんじゃないですか」

引けない、引きたくない、なら、なんでも使ってやる。
戻れないと分かったあの日、あの満点の星空の下で落涙した時、此処で生きなければいけないと悟った。
でも、そうするなら向けられる懐疑の瞳と向き合わなければいけない。

どれだけ嫌がられても、いやらしくても。


(逃すもんか)


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