どくんどくんと血潮が体内を巡る感覚が指先まで伝わる。人生でこれほど緊張したことなんてない。緊迫感が漂う空気のせいでうまく息ができなくて、呼吸が早く、浅くなる。動揺を悟られたくなくて、虚勢を振り絞って男の双眼を睨みつけた。
どれだけ時間が経ったか分からない。パーク内の喧騒は耳朶を打っているけれど、不思議とその音は鼓膜を僅かに揺らすだけだった。
ふと、男が身体を揺らした。右足が一歩私に近づいて、どきりと心臓が大きく跳ねる。咄嗟にバッグへと一瞬だけ視線を走らせた。
ICレコーダーはカバンの外ポケットに入っている。手にしているスマートフォンは録音機能付きの謂わばダミーだ。万が一、これを取られたら背を向けて全力で来た道を走って、雑踏へ逃げ込み、係員に助けを求める。
頭の中で行動を瞬時にシミュレーションしながら、男を睨め付ける視線は忘れない。
しかし、じり、と後方に下がって、臨戦態勢を取ろうとした矢先、男が私の後方に鋭い視線を向けた。
いったいなんだと眉を潜めた私の耳に入って来たのは、微かな靴音。おそらく人が走って来ている音。男の視線はこの音へ向けられていたのかと合点がいったところで意識を彼に戻すと、一気に目の前に影が落ちた。
(ち、かっい)
あまりの近さに心臓が止まる勢いだった。
異常に早い間の詰め方に思わず仰け反ったけれど、私が後方に身体を引く前に無骨な掌が、スマートフォンを持っていない私の左手首を掴んだ。「は?」と間抜けな声が漏れて、次いで目を白黒させて男の相貌を見遣る。
「行くぞ」
「は、え、…は?」
ぽかんと呆けた私の身体はぐんと引き寄せられて、そのまま走り出した男に引きずられる形になった。行くぞ、て勝手すぎるだろと突っ込みながら、男に無理やり連れていかれる。
「ちょ、となに、を」
「立ち入り禁止の場所にいるところを見られても面倒だ」
男は、非常用の出口らしき扉を開けて私を先に押し込んだ。こんな扉あったのか、ならなんで逃げなかったんだ、そんな疑問を浮かべる前に「急げ!」と急かす男の声に我に返ってひたすら走る。迷路のようなアトラクション内に方向感覚が鈍って行って、どこに行けばいいんだと冷や汗を流せば再び無骨な掌が私の手首を掴んだ。
あ、思ったよりあったかい手だ。
前を向いて誘導する男の指示に従って、私は足を回した。
「……も、無理」
アイス食べたい。戯言を口にする程度には心は健康だけれど身体は疲労困憊である。ちらりと目の前の男に視線を遣ると、涼しい顔で周りに警戒を張っているから、大した運動ではなかったんだろう。さすが現役警察官、身体の作りが同年代のそれと違う。
呼吸を整えて、ようやくゆっくりと辺りを見渡す。ここどこだろう。真っ先に浮かんだのはそんな疑問。第一、私はこのパークの地理に疎い。なのに、皆と離れてこの男を追ってしまった。今ごろ、迷子か!どこ行った!、と騒がれているかもしれないけれどご容赦頂きたい。目の前に現れたのが彼でなければこんなことにはならなかった。
汗が服にへばりついて気持ち悪い。熱が体内にこもって気怠さが増す中、一等熱く思えるのは自分の左手首だ。じんじんと伝わる人の熱。握り締められているため、離れることもできずにじっとその箇所を見つめていると、視線に気づいた彼がバツが悪そうに無言で手を離した。
「あの、」
「貴女は」
沈黙を破ったのは今度は同時で、はっと二人で目を合わせる。気まずそうに視線を下げた彼に遠慮なく、私は自分の疑問を口にした。
「あの出口から出てたら、私をまけたんじゃないんですか」
それは彼が私を押し込んだあの扉。一瞥すると、ただの外壁にしか見えないそこは隠し扉のようになっていて、取っ手部分が見えづらくなってきた。
前、《観た時には》そんな扉があるなんて分からなかった。あそこに逃げた彼らは、最終的に溶岩流に見立てた流水に飛び込んだ。
画面の外側、現実と言えばいいか。そんな世界が広がっていることは、今目の前の視界いっぱいに広がる現実が告げていることは理解していたはずなのに、失念していた。
「ああ、そうだな」
男は平坦な声音で答える。声音に合った端正な相貌が息を乱している私を見下ろしてきて、それが、ひどく私を気鬱にさせる。むっとする心の靄を晴らすように、ひとつ息を吐いて唾を嚥下すると、すくりと立って彼に向かい合った。
「なら、なんで」
「貴女が、」
この人、言葉を被せるのが趣味なのか、癖なんだろうか。重なった言の葉に、先を詰まらせてしまった私より先に続きを紡いだのは今度は彼で、しかし紡いだ台詞に思わず眉根が寄った。
「意外としぶとくて、しつこいと思った」
「喧嘩売ってんですか」
「なら、一度素性を明かせば引いてくれるかと思ったが、とんだじゃじゃ馬だった」
やっぱり喧嘩を売っているのか。褒めてるのか貶しているのかといえば、寸分違わず貶しているだろう。能面を貼り付けて淡々と宣う男に苦い思いを抱きつつ、評された名の通りの勝気な口調で言い返す。
「で、とんだじゃじゃ馬な女は、このまま引くつもりはありませんよ」
先ほどまでの生まれたての子鹿宜しくビクビクしていた私はどこにいると苦笑したくなるほどの図々しさだ。相変わらず血潮は勢いよく身体を巡っているし心臓の鼓動は早鐘を打っているけれど、何をされるか分からない、その恐怖だけは静まっていた。
「分かっている。こちらとしても、貴女が自分の立場を理解している前提で話をしよう」
肩を竦めた彼は、視線を私から外すと道脇に構えていた屋台へと足を進めた。そのまま、スタッフに何か話している。何かを買って話でもするつもりなんだろうか。
彼を尻目に、私は人の群れが出来ている案内板まで足を進めた。現在地くらい把握しておかないと後で連絡が来ても分からない。ひょこりと人垣から顔を出して案内板を覗くと、どうやらあの太古と野生の島からはほとんど離れていない場所のようだった。屋内アトラクション用の施設が密集している地域のようで、屋外のそれよりは幾分か人が外に溢れていない。
これならすぐに合流もできる。ひとまず安堵した矢先、私のスマートフォンがピコンと振動した。
(うげ)
知らないうちにけっこうな通知が来ている。主に安室さん。《どこにいますか、大丈夫ですか》《みんな心配しています》《連絡を下さい》やだ、また通知来た。
たぶん、私への心配というより監視対象が姿を消したことへの焦りの方が強い気がするけれど、取り敢えずそっとスマートフォンから視線を逸らしてカバンへと押し込んだ。
「良いのか」
掛けられた声に振り返る。両手にジュースカップを持った彼が尋ねてきたから、きょとんと首を傾げると、「ツレからだろう」とその瞳がカバンへと向く。
「大丈夫です。子ども達には大人が付いてますし」
「いや、そうじゃない」
「……と、いうと?」
そうじゃないならなんだ。他のメンツにも連絡しとけという気遣いか何かか。眉根を寄せた私に男は何か言いたげに口をまごつかせたけど、言の葉を紡ぐことなく閉口する。「何ですか」
と若干の苛立ちを込めてそう詰めれば、彼は言い淀んでいた口を開いた。
「恋人のことはいいのか」
「こ、…は?、え、こ、…恋人?!!」
思わぬ単語に一瞬、言葉が出てこなかった。
素っ頓狂な声が木霊して、通行人が、空を裂くような絶叫に近い叫びに、怪訝な様子でこちらを見やった。ハッと気付いた時には手遅れで、身を縮こまらせつつ羞恥に顔が熱くなる。
恋人ってなんだ。何がどうなってあの人が恋人になるんだ。意味がわからない。というかお前の上司じゃないのか。風見さんと一緒にいる公安のくせに。
「違います!だいたい、貴方はっ……」
思わず口に出し掛けた言葉を、私はすんでのところで飲み込んだ。
──部下じゃ…ない?
警察庁警備局警備企画課内に設置されている秘密機関、ゼロ。ゼロに所属する捜査官からの指令を受け取れるのは公安内部でも限られた捜査官だけ。
限られた捜査官、というところを思いっきり失念していた。そうだ、風見さんは優秀だから降谷さんの右腕として動いているけれど、この男もそうであるとは限らない。大体、私に尾行がバレてしまっているから、公安捜査官としてはまだ駆け出しなのかもしれない、失礼だけど年だって私と同じか若いくらいだろう。なら、安室透という私立探偵の存在は分かっていても、それが公安警察の降谷零とわかっていない可能性がある。
もしそうならば、やはり店長は安室さんを私立探偵として認識しているのか。公安警察の降谷零として接触しているのなら、彼も安室さんが風見さんの上司ということを分かっているはずだ。
彼の立場、安室さんとの関係を自分の中で整理をして紡ぎ掛けた言葉を引っ込める。代わりに、怪訝な視線を向ければ、彼の顔も僅かに歪んだ。
だいたい、恋人、てなんだ。何をどう見たら恋人に見えるんだ。そもそも、あんな大所帯で遊園地に来るカップルがあるか。
それに、私には──
はあ、と息を吐いた私に、一体なんだ、と不審な目を向ける男。行き場のない感情をぶつけることもできず、空虚な思いを込めて口を開く。
「恋人なんて、できるわけないでしょう」
──身元の分からない自分に。
そう、遣る瀬無さを一緒に吐き出した私に、男は何も言わなかった。
*
「やる」とぶっきらぼうに渡されたジュースを遠慮することなく頂く。「どうも」と僅かに不満を匂わせつつ、近場のベンチに座った私はタシタシと左手で隣の席を叩く。男はひとつため息を吐くと、大人しく私の隣に腰を下ろした。
「事の発端は、二ヶ月前だ」
茜色が藍と混じり合う空の彼方を見上げながら、ひとつ前置きをして、男は語り始めた。
「二ヶ月前、都内のブランド品を扱う店舗で一千万円相当の品物が盗まれる強盗被害があった。そして同時期に、密入国者を国内へ引き入れる手引きをしていた組織が摘発された。ここまでは、貴女も理解している」
手にしたジュースの中身はオレンジ。ストローに口を付けてズズッと飲みながら、私はこくりと頷く。
「貴女を尾行していたのは、他でもないその事件の関係者の線を疑われたからだ。事件の数週間前に現れた記憶喪失の女性。身辺調査でも、女性の経歴は何一つ掴めず、戸籍も住民票も発見できない。しかしながら、一定の教養はある。これで不審に思わない方がどうかしている」
「それは、そうですね」
「更に先日、女性は記憶を頼りにある県へと赴いた。しかしながら、身元を証明する記憶は何一つとして戻っていない」
あ、やっぱりその情報知ってるのか。どんなルートで情報が行ってるんだ。
苦い色が沁みた顔が分かったのか、彼はひとつ大きく息を吐いた。
「いくらなんでも、あり得ないだろう」
呆れた瞳が私に向けられる。あ、はいですよね。そう言いたいのは山々だけれど、あいにくと私は苦笑しかできない。笑うしかしない私に、彼は訝しげな視線を向けたけど、結局、「言いたくないならいい」とそっぽ向いてしまった。視線が離れてしまい、迷子になったそれは膝小僧に落ちた。
思えば、これがごく普通の反応なのかもしれない。
真正面から否定の言葉を言われたのは初めだった。だって、どれだけわけのわからない嘘を並べても、あり得ない身の上を連ねても、真実は闇の中に溺れてしまうからそれで通せると思っていた。事実、どれだけあり得ないと言われても、矛盾を孕んでしまってもシラを切り通す必要はあるのだけれど、それでもこの世界の人達は、それをあり得ないと分かっていても、絶対に踏み込んではこない。
そこに罪の意識を感じて、煩悶していた私にとって、踏み込んでくるその行為はある意味新鮮だった。
むず痒い感情が身の内に広がって、でもその感情につける適切な名前がわからなくて戸惑う。ずずっとオレンジジュースを呑み込んで、口いっぱいに甘味を広げた。
「一ついいですか」
パッと口を離して、落としていた視線を再び彼に向ける。
「その二つの事件、なんで公安が担当しているんですか。強盗事件なら刑事一課、密入国とかの事件は、組織犯罪対策課とかがやるものじゃないのかな、て」
「こちらの問いには答えないのに、質問はするのか。随分と度胸のあるじゃじゃ馬だ」
咎める視線に窮して、うっ、と言葉を詰まらせる。確かに1ミリたりとフェアじゃない。言いたくないならいい、という好意に甘えて情報を開示しない人間にしては随分な図々しさだ。はは、とから笑いして、「言えないならいいです」と返せば、彼はまたため息を吐いた。
「……組対も動きがないわけでない。が、あくまで縄張りを主張しているのはこちらだ」
あ、答えてくれた。意外な反応に目を丸くしつつ、次いで湧いた疑問を口にする。
「えっと、組対?が動いているなら、どうして公安まで動くんですか」
大きな事件では、いくつかの課が動くことは知っている。約二十年前に起きたあの信仰宗教絡みの一連の事件でも、公安部、捜査一課、地方警察などさまざまな部署が入り乱れて捜査をしていた。しかし、縦割り組織の弊害で情報の共有が適切になされていなかったこと、部署ごとの縄張り争いがあったこと、など警察組織が抱える脆い部分が結局は自らの捜査を妨げ、結果、事件を防ぐことはできなかった。
特に公安は機密性の高い部署だ。さらに言えば、優秀な人材が集まる部署だ。エリート思考が強いと言えば嫌味になるけど、事実、公安は他の部署との仲が良好とは言えない筈だ。
他部署との連携を嫌い、かつ、大規模な事件を未然に防ぐことを主目的とする公安が、なぜ、一密入国グループの摘発事件を追うのか。
「……すまない。今の段階で、それを貴女に言える立場に俺はない」
彼は重い声音でそれ以上の言を避けた。暗い影が落ちる相貌に私も追及の糸を伸ばすことはしなかった。
これ以上言えないということは、一般人が知るべきではない理由があるか、捜査の進展が思うようにいっていないから、のどちらか、あるいはどちらもだろう。言うべきではない、言えるような情報もない。それならば、これ以上の質問は無意味だ。
最後の一口のジュースを飲みほして、「分かりました」と答えると同時に、よっと立ち上がる。近くに設置してあったゴミ箱にカップを投げ込んで、くるりと彼へと向き直った。
「ひとつ、提案です」
外光を背にした私は、座る彼の前に立ってその黒鹿色の瞳を見下ろす。互いの相貌に影ができて、伸びた私の影と彼のそれが繋がった。
「一時休戦といきませんか?」
「……休戦?」
「といっても、一方的に私が詰め寄っただけですけど」
とりあえず休戦です、と頬を掻いて苦笑する。
はは、と乾いた笑いを零した私はすぐに口の端を軽く結んで、彼を見据えた。
「私のことは調べてもらって構いません。疑わしいなら、どうぞ、尾行でも盗聴でもして下さい」
きっぱりとした口調で言い放った私に、一拍、間をおいて、彼が「は?」と間の抜けた声を上げた。訝しげに寄せられた眉もセットになって、私に怪訝な表層を向ける。何を言っているんだこいつは、と言わんばかりの相貌は、私に疑いの眼差しを投げかけた。
探るような瞳を受けて、私はひとつ瞬く。瞼をゆっくり上げて、彼に薄く笑みを浮かべた。
「──私だって、嫌疑がかけられているのならその内容を知りたいんです」
これは、私の覚悟だ。
私の周りでいったい何が起こっているのか。どのような思惑が働いていて、何に巻き込まれているのか。それを知ることは、自分自身が今後どのように思考し、行動すればいいかを決める材料になる。
事件に首を突っ込んでしまう可能性があるかもしれない、厄介ごとに巻き込まれる可能性だってある。下手したら、
(……ない、とも言いきれないのは嫌だけど)
脳裏に蘇った、あの凄惨な事件に嫌な緊張が心臓を締め上げる。奇しくも、それが行われた場所で、こんなことになるなんて夢にも思っていなかった。
でも、これはチャンスだ。
此処で生きろと世界が強要するなら、たとえ私自身の存在が世界の操り人形であったとしても、私は踊るために世界を知る必要がある。
どこまでここで生かされるのか分からないこの身が、せめて自分の意思であるようにと願うために、私は私自身の手で未来を掴みたい。
息を深く吸って紡いだ言の葉が、どうか最善でありますように。
「だから…私の協力者になって下さい」
手にしたスマートフォンを軽く振って、口元に弧を描けば、端麗な相貌がひくりと歪んだ。
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