身分証明書、なし。戸籍、なし。仕事、なし。
詰みゲーかな?
いえいえ、現実です。
「難易度マックスなニューゲーム…」
嘘でしょ、とベッドに寝転がって天を仰いだ。
あの後、公園から取り敢えずはGPSを駆使して新宿のホテルまで帰った。山手線ならぬ東都環状線を利用して新宿まで着いた私を待っていたのはあまり変わらない風景。もしかしたら違いがあるのかもしれないけれど、あいにく私には土地勘がない。幸い、ホテルの場所は変わっていなかった。
帰る最中、取り敢えず現状を認識した。
ここは、あの小さな名探偵君が活躍する漫画の世界だ。その前提を認識しないとまず前に進めない。ありえないと何回か呟きつつも、この小1時間で経験したありえない出来事が現実を証明しているのだから仕方ない。これが精巧な作りのバーチャルワールドで、某映画のコクーンのように脳が見せている擬似世界だとしても、私がこの世界を認識している以上、現実はここにしかないのだ。
ホテルまでの道すがら、そんなことを咀嚼して飲み込んだ。会社の上司によく、「そつなくこなすのだけは上手いよな」と言われていたように、私には秀でた何かはないけれど兎に角、現状になんとなく対処するのは得意だ。ありえない、で止まっていたらたぶん、この先いろいろと困る。
「とりあえずは、お金かな」
ゴロンと転がってベッドでぽつりと呟いた。
この現実がいつ覚めるか分からないけれど、目下優先すべきはお金だ。ホテルの代金は前払いで支払い済みだけれどそれ以降はこの持ってきた金額だけで過ごさないといけない。
しかしながら、極貧生活をしたところで底が尽きることは目に見えている。幸いなことに、長期滞在の旅行グッズがあるため着替えや化粧品の類はストックがあったから、今やるべきことは。
「身分証明書なしで住み込みで働けるとこ見つけあとに、戸籍…せめて住民票を発行してもらえたらだけど」
300日問題などで無戸籍の子どもが日本にも数百人単位で存在していることは知っているけれど、戸籍がないというのは思った以上に厄介だ。選挙権は今のところ必要はないし、病気も軽度のものなら薬局で事足りる。でも、住むところの確保にどうしても必要になってくる。
昨今は、無戸籍の子どもに行政サービスを受けさせるために戸籍の発行より先に住民票を発行するケースもあるらしいけれど、残念ながら私の場合そうはいかない。
両親の顔も親戚も知らない。東京に来た時点で記憶喪失となり、行くあてもない。仕事だけはしたい。
さぁ、どうする。
「……就籍許可審判?」
ネット環境があって本当に良かった、ありがとうスマホ、ありがとう文明の利器。
就籍という言葉を恥ずかしながら初めて知った。というか、戸籍がない方がイレギュラーなこの国においては就籍の申し立てをすることはほとんどない事例だそうだ、
就籍。文字の通り、戸籍を持つこと。
中国残留孤児や記憶喪失の無戸籍状態の人が実際にこの手法で戸籍を取得したケースがあるらしい。家庭裁判所へ申し立てを行い、そこでの審理を経て法務局へ申立書を持参し、就籍するそうだ。
この情報も物語用に書き換えられたものかもしれないけれど、一先ずはやり方だけは分かった。
「あとは、経歴だよね」
うーんと、頭を捻らせる。
どこかの地方都市に住んでいたのは記憶しているが、何故東京に来たのかは分からない。身元を証明するものが何もないが、住む場所がないのは困るので住み込みのバイトをしていたが、就労意欲はあるため就籍許可が欲しい。
(く、くるっしい言い訳)
こんなことで就籍許可が下りてれば国籍目当てに悪いことする奴らは嬉々として日本にやってくるだろけれど、割と当たっていると思う。
法律を破ることは心苦しいし、虚言を吐くのは申し訳ないが、背に腹は変えられない。記憶喪失一辺倒で通さないと、あとでボロが出た時に困るのは私だ。
それに、警察や役所がいくら調べようと何も出て来はしない。何せ、この世界には私の親も友人もいない。私自身の存在を証明するものは何もないのだ。海外からの密入国者なんて線になったら厄介だけど、そもそも空港にも港にも立ち寄っていないからそこを探しても私は出てこない。
調べても調べても虚偽いう証拠が出てこないなら仕方がないんじゃないんだろうか。就労しなければ生活できないのだ。ならば、就籍許可を出すしかない、はず…
「どうなるかなぁ」
何かしらの補正が働きますように、なんているかわからない神様にお願いをしてみる。空に向かって合掌した後に、スマートフォンの画面に目を向けた。
兎にも角にも、今は住み込みバイト先を探すことだ。
就籍許可のページを閉じて、検索ワードは、東京、住み込み、アルバイト。ヒット数は田舎の比じゃない。
「頑張りますか」
状況に慣れるのが、私の強みだ。
今はただ、そのバイタリティだけが支えだった。
*
炊きたてのご飯の香り、あご出汁(トビウオ)の味噌汁に、季節の野菜の天ぷらや漬物。お腹の空くラインナップは残念ながらまだお預けで。
「洸ちゃん、これ1番さんにお願い」
「分かりました」
「終わったら、3番さんの注文な」
「はい」
「そのあと、洗い物も」
「了解です!」
ランチタイムの定食屋の混み具合、侮れない。厨房で料理担当じゃないのに、配膳して持って行って、注文とって更に人手が足りないから空いた時間に皿洗い。無茶苦茶だ、と思いつつなんやかんやでこなして、はや三週間が経過していた。
住民票なしの住み込みバイトなんて危ないお仕事くらいしかないかと思っていたけれど、くまなく探した結果見つけたのが、この定食屋だった。七十代の夫婦、溝口夫妻が切り盛りしていたが、体力の衰えなどもありバイト募集していたところ私が引っかかったらしい。住み込みバイトをなぜ雇ったかと言うと、夫の溝口明彦さんの実家は不動産業を営んでいたそうで、あるアパートの一室が空き部屋となっていたことから部屋の管理も含めて雇える人がいないかと探していたということだ。数年前から入れ替わり立ち替わりでさまざまな人が入っては出ていっているらしい。今回も、出稼ぎに来た外国人労働者でも雇おうかと思っていたそうだが、応募して来たのは私くらいだったそうだ。
「最近は、時給いいバイトも多いからねぇ」とおっとりした口調で苦笑した妻、溝口秋穂さんに私は何度お礼を言ったか分からない。何せ、こちらは戸籍なし、住民票なしの不審者だ。偽の事情を説明した時も、正直疑われて雇ってもらえないかと思ったけれど、存外、快く受け入れてもらえた。なんでも、昔は訳ありの人なんてゴロゴロいた、とのこと。ワケありだとは思われているわけだ、複雑。
それでも、働かせてもらっているので仕事はきっちりしている。そのおかげが、とてもよくしてもらっていた。まかないは出るし、なんなら夕飯もまかないを持ち帰らせてもらっている。
基本的に仕事は午前中が買い出しと仕込み、昼のランチタイムは厨房や店内を走り回り、午後は一休みした後、また買い出しや仕込みの手伝い。夕方から夜7時くらいまでの短い間も営業をするからだ。昔ながらのカツレツ定食や季節の定食、最近始めたオムライスも人気だとか。確かに絶品なので足繁く通う客が多いのも頷けた。
というわけで、私は午前中から昼にかけては基本的に忙しくしている。嬢ちゃん頑張りなよ、と老年のおっさん連中に言われるけれど残念嬢ちゃんと言われる年齢ではないんだ、悪いなオッチャン。かけられる言葉をさらりさらりとかわしながらあっという間に時間は過ぎていった。
「洸ちゃん、今日は上がりでいいよ」
一息ついてエプロンを脱いだ私に、秋穂さんが声をかけた。
「あれ?夜はなしですか?まさか、また腰を痛めて…?」
「いやいや、今日はあの人が地区の寄り合いに行かなきゃだからね。早めに閉めるんだ」
都会は無縁社会とよく言うが、コミュニティがきちんと機能しているところもある。寄り合いなんて地元の田舎くらいしかないかと思っていたからこれは意外だった。
「洸ちゃん、役所やらなんやらに行かないといけないでしょ?きちんとしないと最近は窮屈だからねえ」
「あ、はは」
昔はどれだけ奔放な社会だったんだ。
軽く笑って流して秋穂さんと厨房にいる明彦さんにお礼を言って、お言葉に甘えさせてもらった。
時間を見れば、午後二時半。時間は十分にある。今日の天気は、青空に八雲が広がる、快晴。
「さて、行こっか」
家庭裁判所への就籍許可申請は先週には済ませたけど、だいぶ、だいーぶ怪しまれた。当然といえば当然だけれど、私が嘘をついている証拠なんてものはこの世に存在しないと思うと思った以上にするすると虚言は出て来た。記憶喪失ではない場合、戸籍がなくても住民票はあるケースもなくはないらしいけれど、私の場合は住民票もない。審判に時間はかかりそうだけれど、探しても何も出ないなら向こうもどうしようもないと踏んでおこう。
なにより、これはあり得ない世界だ。あり得ない世界で、あり得ない行為を働いても、イレギュラーにはならないだろう。
というわけで、ただいまは裁判所からの通知待ちとなっている。書類の住所は住み込みのアパートにしているため間違いはない。
やることはすでにやっている私が向かったのは、近所の図書館だった。
身分証明書がないと図書カードの発行はできないため、本は館内で読んでいる。
「新聞、新聞、と」
掻き集めたのは、タイムスリップ、タイムリープなどのSFに関する参考書に加えてここ最近の時事ネタが分かる新聞。
帰るにせよ、情報が欲しかった。アパートには小さなテレビはあるが、新聞はお金がもったいないため取ってない。日々のニュースだけではなく、活字での情報を取得したかった。
(殺人事件、毛利小五郎…)
新聞、ではなく、週刊誌に掲載されていたのはマンションでの殺人事件について。米花町に事務所を構える毛利小五郎、またもやお手柄。この手の文調は新聞にはない軽快さだ。
(またもや、てことはコナンが小さくなって結構経ってる…?)
正直、時間軸が今ひとつ分からない。サザエさん現象で季節が巡ることもあるけれど、確かアニメの400話の時が半年というのは公式から出ていたはず。
そもそも、降谷零が喫茶ポアロで働き始めているということはやっぱりそれなりの時間が経っているというわけで、うーん時間のミステリー。
一通りの時事情報を調べた後は、米花町へと足を進めた。暇ができたらとりあえず寄ることにしている。東都環状線に乗ってふた駅分。降り立ったのは米花駅。改札を抜けて外に出た私は記憶に新しい道を歩いた。
もしかしたら、何か起こるかもしれない。そんな確証のない期待を抱いたためだ。
地図を片手に歩いていた最中、あの妙な現象は起きた。時空、次元を超えたあの現象がどうしてここで起こったのかと考えた時、思い当たるのは、ここが主人公である江戸川コナンが深く関わっている町、という事実だった。
特異点、というものなのか。現実と非現実が結びついた原因が、物語の根幹に位置する人間がいる場所だとしたら。
そう思って、ここ最近は米花町の中を歩き回っている。お陰でここの地理に詳しくなった。行き止まりやら路地やらも歩いて歩いて、でも、あの妙な感覚に襲われることはない。
(どうすればいいんだろう)
そもそも、なぜ私だったのか。考えても考えても答えなんて見つからない。考えるだけ無駄だ。
けれども、考えないと不安になる。
今はただ、現実を生きることに集中しているけれどこの集中が途切れたら、私はー
「お姉さん」
心臓が大きく跳ねた。思わず息をのんでしまった。肩が震えて、呼吸が一瞬止まる。浅く息を吐きながら、ゆっくり慎重に振り返った。もちろん、柔和な笑みをセットで、だ。
振り返った先、目に映ったのは紛れもなくあの小さな名探偵君。そして、心配そうに見上げてくるのは彼の小さな友人達とちょっとばかし大人びている幼い女の子。
江戸川コナン、少年探偵団、灰原哀。頭に過った単語は決して口に出してはいけない。呑み込んだ生唾に気づかれないように笑顔を取り繕って、しゃがんで視線を合わせた。
「なにかな、ボク」
「お姉さん、何か探し物をしているの?」
つぶらな大きな瞳で見つめられれば普通の大人は微笑ましさに頬を緩ませるのだろうが、あいにく、この小さな体に宿っているのは恐ろしいほど頭脳明晰な高校生ということを知っているため、笑顔を見せながらも内心は心臓がひどく波打っていた。
にこりと邪気のない笑みを向けて、紡ぎだす言葉は慎重に。
「ちょっとね、落とし物をしちゃっているの。でもすごいね、ボク、どうしてわかったの?」
「だってお姉さん、気難しそうな顔してキョロキョロしていたから、道に迷っているか何かを探しているかと思ったんだ。でも、道に迷っているならスマホで場所を確認するものなのにお姉さんはスマホを見る素振りは見せていなかったでしょ」
だから探し物ってわかったの、と満面の笑みを向けてきた小さな探偵達にひやりと嫌な汗が流れた。本当に、良く人を見ている。ひとつ何か間違えれば一気にいろいろと疑われてしまうだろう。赤井秀一の偽装工作をやってのけたあのFBI、CIA顔負けの頭脳が目の前にあると思うと、とにかくここから離れたい気持ちでいっぱいになった。
「そっかあ、ボク達はすごいね。まるで探偵さんみたい」
「そうなの!私達ね、少年探偵団なの!」
「姉ちゃんが困っているなら力になってやってもいいぜ!」
「困っている人を見過ごせませんから!」
ま、待って待って。純粋無垢な瞳がこちらを見つめてくれているけれど、君たちに関わると必然的にお隣にいる勘の鋭い彼も関わることになるからやめてほしい、切実にやめてほしい。ひとえに人助けをしたいという想いだけで行動している子どもたちには申し訳ないけれど、何かしらの事件に巻き込まれるのはごめんだ。
「お気遣いありがとう、でも、大丈夫だよ。自分でなんとかできるから」
とびきり優しい声音で彼らにお礼を言う。こそばゆい嬉しい気持ちは確かにあるけれど、でもやっぱりだめだから。
聖地巡礼、原作の世界を味わいたくて確かに旅行をしたというのに、その行き先がまさかその世界そのものだなんて思いもしないじゃない。手が届かない世界だから羨望して想像を働かせて楽しんでいたというのに、いざそれが目の前に来るとどうだ。反転した現実になった途端、憧憬するのは元いた現実で、でも今はそれが手が届かない世界となってしまった。
これは、私しか知らない、私でないと探し出せない探し物だ。
「本当に?大丈夫ですか?」
「うん、ありがとうね小さな探偵さんたち」
「ちなみに、お姉さんさ、何を落としたの?」
キラリとあの眼鏡が光った気がした。子どもらしからぬ瞳が向けられて、けど、そんな瞳に私は眉尻を下げた。
「……とっても、とてもね、大きなものなの」
言葉とともに吐露したやるせなさを、どうか悟らないでと願った。
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