緩慢に見上げた空に広がっているのは薄闇と朧月。その闇を照らす刺激的な光が四方から伸びていて、一等強い光が照らされているのは、くるくると円を描くあの大観覧車だった。
観覧車をぼんやりと見つめ、脳裏に浮かんだ光景はまた私の胸を締め上げる。嫌だな、湿っぽいのは嫌いなんだ。心内でそう呟いた自分は、早々に憂いの心を振り払った。
視線を逸らして地面に落とす。昼間の暑さは早々に眠りについたのか、今は生暖かいそよ風が肌を優しく撫ぜた。
ひとつ、瞼を閉じて裏側の暗闇にあの相貌を映し出す。自分の手首を握って、引いて、そしてこの存在に向き合った一人の男の相貌だ。思考の読めない顔は、公安、と書かれているかと思うほどに怜悧で、しかしどこか人情味がある、そんな不思議な男だった。
ふふ、と笑みが溢れる。何故だか分からないし、分からなくていい。ただ、笑みが溢れた。
ふと耳に自分の名前が届いた。鼓膜を揺らした高い声に視線は自ずと吸い寄せられる。
走ってくる見知った顔が見える。瞳の中に彼らを収めて、私は目尻を下げて笑いかけた。「どこに行ってたんですか」「心配したんですよ」沢山の案じる言葉は陽だまりのように暖かで、その陽の気に晒されたこの身が少しだけ痛い。ずきん、と痛んだ胸は見ないフリをして、ごめんね、と眉尻を下げて謝り続ける私に、二つの鋭い視線が突き刺さった。
暖かな気遣いをする女性陣、身を案じてくれた子供たち、彼らの背後で神妙な視線を向ける二人の人物の相貌は決して笑っていなかった。
*
全ての物事には意味がある、とよく祖母は言っていた。友達と喧嘩した時、両親にひどく罵られた時。日常の端々にある嫌な出来事を憎々しい念を込めて吐露しまくっていれば、祖母は、うんうん、と聞きながら最後には私を窘めた。
何にだって意味がある。理由のない事象なんて何ひとつない。理不尽に見えることにも意味は必ずある。
そんなわけあるかと当時は不貞腐れたものだ。己の尺度でしか物事を見ることができなかった時期に祖母の言葉はあまりにも大人過ぎた。言葉の真意を図ることができたのは、残念ながら随分と時間が経ってからだった。
凡ゆる事象には意味があって、点と点にしか見えない物事は繋がりがあり、線でつながり合いながら世界が回っている。連続性のある世界の事柄を理解できたのは大学生の頃に学んだ凡ゆる講義のおかげだった。悲劇的な事件、事故、戦争やテロイズム、ジェノサイドなどの人間の負の蓄積から、和平や社会の安寧、技術開発などの人類進歩の歴史と軌跡まで。人類史に刻まれた凡ゆる正と負の路はそれ単体で起こったものではなく、すべてに理由がある。大なり小なり、確かな理由、目的があって事象は紡がれて行く。
そんな当たり前で、けれど複雑な世界構造は、はたしてこの世界に当てはまってくれるだろうか。
少なくとも、今、私に起こっている事象の意味を私は説明できない。
「あの、これはいったい」
「見ての通りですね」
「はあ」
ズズッと音を立ててラーメンが口の中に吸い込まれていく。昼下がり、繁忙時間のピークを過ぎたラーメン店には閑古鳥が鳴いている。後期高齢者の店長は食べ終わったら呼んだくれと言って店の奥に引っ込んだ。今時の働き方過ぎて全力でその姿勢を応援します、店長。
「伸びる前にどうぞ」と勧める彼、風見さんに逡巡する。えっと、と状況に全く慣れない私を他所に風見さんはつけ麺をずるりと口に含んでいく。嗚呼、香辛料の良い香りが鼻腔を擽る。きっとこれは絶品だ間違いない。けれど、私が選んだのは一番安い味噌ラーメン。いいんだよ、上手いんだから。
違う、そうじゃない。
現実逃避の会話の応酬を切り上げて我に帰る。
《少し、話をしても良いですか》
家裁で何度目かの面談となった数時間前に風見さんに言われた言葉に、私はギギギ、と首を曲げた。なに言ってるんだこの人、と思いながらも口角をひくりとあげて表情でその真意を聞き返したら、彼は眉ひとつ動かさず、真顔のまま続けた「ラーメン、お好きですか」と。
考えてみてほしい。家裁で、聞き取り調査中に、風見さんから、ラーメン、誘われる。何言っているんだと瞬時に聞き返した脳から幸いなことに口の外へと言葉は発せられなかった。危ない、真顔で声に出すところだった。しかしこの問い、単語の羅列だけで私の理解力を超えている。なんだこれ、なんだこの状況、である。
取り敢えず、ずるっと私も風見さんに習って黙々と麺を啜った。濃すぎない味噌味が口いっぱいに広がる。味覚音痴の私でも、程よい味付けのラーメンだと感じて、思わず口元が緩んだ。ちょうど、朝ごはんを食べていなかったからお腹が減っていたのもあって、風見さんには目もむけずにひたすら麺を啜る。腹が満たされる感覚が脳を麻痺させる。人間、三大欲求を満たしている時が一番無防備だと誰かから聞いたことがあるけど本当だと思う。
ご飯に勤しんでいたけれど、メンマをはくりと口に入れたところで視線を感じて、一旦箸を止めた。
「あの、…なにか」
上げた視線は彼とかちりと合って、無表情でこちらを見つめていた風見さんにバツが悪くなりつつもそう問えば「いえ」と彼は視線を落とす。
「随分と、美味しそうに食べられると思って」
そう言って、口の端を僅かに上げた風見さん。表層が揺らいで、ほんの少しだけ見えた穏やかな様相に面食らってしまう。仏頂面だった彼の顔に浮かんだ微笑みは、存外破壊力があった。目元は硬いままだけれど、口角だけが緩んだ表情。渋面がほぐれて柔らかな一面が顔を出したことに、ぽかんと目を丸くしていたら、風見さんが逆に此方をじっと見つめてきた。「どうかしましたか」と尋ねる彼に「いえ」と、視線をずらす。
そもそも、この人なんで私をここに連れてきたんだ。少し話をするならどこかの喫茶店かカフェ、ファミレスで事足りるだろう。何故ラーメンなんだ。閑散とした店内に響く麺を啜る音がやけに耳につく。
「あの、話って何ですか」
言葉が交わされない空間に痺れを切らしてしまって思わず風見さんに問い掛ける。本当に、いったい何なんだと視線で訴えれば風見さんは、ずる、と最後の麺を口に含んで咀嚼して、一呼吸置いた。
「……最近、何か変わったことがありましたか?」
「変わったこと?」
「例えば、交友関係、とか」
例えてないだろ、直球だろそれ。思わず脳内でまた突っ込んだけれど取り繕った笑顔が表情に出かけた不信感をカバーしてくれる。
交友関係、と聞いてきた風見さん。真っ先に思い当たったのは、この風見さんの部下であろうひとりの公安刑事だ。
あの日以来、彼の私には奇妙な繋がりができた。互いが互いを監視し合う関係、だけれどもそこに緊張感が孕むことはあまりない。利用し、される間柄、ビジネスパートナーとでもいうべきか。そんな人間との繋がりができたことがここ最近で変わったことの一つだった。
探る瞳が私を見つめる。ぎらりと瞳の奥底が光り、私を捉えたけれど、存外その目にも慣れて来た。伊達に、小さな名探偵から公安警察のエースまで、人間離れした超人達からの疑惑の目を受け流して来たわけではない。
風見さんの言葉に、きょとんと目を丸くする。そのまま、一拍呼吸を置いてから「交友関係?」とそっくりそのまま返した。その間、パチリパチリと瞳を瞬かせることも忘れない。視線に声音に、疑問の色を滲ませて風見さんへと向ける。
一挙手一投足、全てを観察されるのなら、その全てを使って役者になりきる。自分は一般人、記憶をなくした、哀れな民間人。それを脳に身体に染み込ませて、イメージする。
小首を傾げた私を風見さんはじっと見つめたけど、その瞳はやがて横へと逸らされた。戸惑いが含まれている視線が伸び始めたラーメンへと向かい、やがて沈默が私達の間に流れる。「風見さん?」と問えば、彼はぴくりと肩を震わせてこちらを見ると、いえ、と歯切れ悪く返した。伸び切った麺を啜る彼に、「はぁ」とこちらから惑いの色を見せる。私自身もラーメンに箸を伸ばし、ずるりずるりと啜りながら、視線は風見さんへと向ける。
(疑惑が晴れていない、か)
風見さんを視界に収めながら、私の脳裏に浮かんだのは、先日の彼との会話だった。
*
「話すのには条件がある」
薄八雲が広がる昼下がり、連日の晴天はひどく肌には害だけれど気分的には上々になる天気だ。もっとも、トロピカルランドでの一件はそもそも私の心に暗雲を呼び込んではいないけれど。ちょこまかと私の周りを嗅ぎ回るネズミを捕まえることができたのだから、上々だ。あ、これ悪役の台詞か。
そんな悪役に捕えられたネズミは今、私の前で胡座をかいている。場所は私のアパート。畳張りの九畳の部屋で、彼は私と対面している。見下すような態度は捕えられたとは思えないほど不遜なので甚だ遺憾である。
不遜なネズミに、私はふんと鼻を鳴らして、それで?、と先を促す。
「俺がアンタに情報を喋ったことが他の奴らにバレるのは避けたい。だが、アンタは完全なる素人だ」
もはやアンタ呼ばわり。多分、これが彼の素なのだろう。私に最初見つかった時の狼狽ぶりはどこに行った、まだ可愛かった。
座卓に置いた麦茶で乾く口を潤す。喉がカラカラに乾いていて、唇もカサカサだ。ペロリと舌で潤いを補充して、ひとつ息を吐く。
「素人さんは引っ込んでろ、てことですか?」
不遜な態度に対して、気持ち悪いほど慇懃になってやろうか。平静を保って真顔でそう問えば、彼は、そうじゃない、と首を振った。
彼の伝えたいことがわからず、私は僅かに眉を顰める。不審感に染まった私の顔色に、彼は大きく溜息を吐いた。
「素人でも、素人なりにかわす術を覚えれば多少はマシになる」
「……かわす術?」
首を傾げた私に、「そうだ」と彼は頷く。
「アンタ、今風見さんから調査されているだろ。尻尾が掴めなくてあの人も苦戦しているようだけど、アンタは素人だ。いつボロが出るかわかったもんじゃない」
「喧嘩売るの好きですよね、貴方」
「尾行の振り切り方、相手の嘘を見抜く洞察力、上手い嘘のつき方。全部、一応教えておく」
「話聞いてます?」
会話のキャッチボールをしてくれ、これじゃあドッヂボールだ。一方的に投げつけられる豪速球が私の頭をガンガン殴ってくれる。当の本人は、はあ、と盛大に溜息を吐いて睨め付ける私の視線など気にしていないようで、淡々と言葉を連ねる。
「真実を掴みたいなら欺く術も覚えておかないと、不利になるのはアンタだ」
その言葉が全くもって正論なので、殴られ損にならないのが救いか。
男の正論に、睨め付けていた視線を緩めて私はもう一度麦茶を口に含んだ。落とした視線をコップの中に向ける。ゆらゆらと揺れる麦茶の表面に映る自分の顔を見つめて、薄っすらと目を細めた。
私は素人。それは、最もな言葉だった。いくらこの世界の概要を知っていて、自分が気をつけるべき人物を理解していても、その情報を活用する術も分からないしそもそもそんな技術すらない。私に嫌疑がかけられている今、仮に私自身の存在を暴こうとキャラクターが本気で動けば、何の訓練も受けていない私はたちまち丸裸にされてしまうだろう。
彼の言う通り、ある程度身を守る術は覚えておくべきだ。こちら側に首を突っ込むことを決意したのなら、私は私自身を上手く扱う為に彼に習う必要がある。彼の発言は正しい。言い方は非常に腹に据えかねるものがあるけれど。
それでも、少しだけ胸を掠める罪悪感が私を苛む。
「……これから、沢山嘘を吐くことになるんだ」
ちりちりと胸の奥が騒めく。脳裏に浮かんだ、私を案ずる沢山の顔貌に心がきゅっと締め付けられた。
選び取った選択が最善であると願いたい。そう思いながら、逡巡してしまうのは私が弱いからだろう。
世界に踊らされても、人形なりの矜持を持って自分の選択を後悔しないように生きたいと、そう願うなら、彼の提案は確かに正しい。人間、選び取るにはそれなりのスキル、術、力が必要だ。そのスキルなどが、彼の提案するものだということは分かっている。
今現在ですら、私は嘘を吐き続けている。けれど、今度はそれに、慣れない、といけない。息をするように言葉を虚言に差し替えて舌に乗せていき、人を見る純粋な瞳は曇りまなこに変えていかないといけない。人を欺き、己を欺き、まるでスパイの真似事みたいな行為に身体を慣れさせる。
「……それでも、知りたいのならやってもらう。でないと、俺もアンタも共倒れだ」
「共倒れ…」
「運命共同体みたいなものだろ」
同意を求めた声音にぱちりと瞳を瞬かせる。運命共同体、と私達の関係を表現した彼は「なんだよ」と怪訝に眉を潜めた。「運命共同体」と舌に乗せて言葉を転がして、乗せたそれに思わず苦笑してしまう。
共有する何かがある人間がいるのは羨ましい、と安室さんは言った。
その言葉に、私は同意した。
「……何それ、ロマンチック…」
くくく、と喉を鳴らす。益々、顔を歪ませる彼に構わず私はくすくすと笑みを溢し続けた。
私の知らないキャラクター、互いの存在がまっさらな状態で出会った相手と秘密を共有するなんておかしな話だけれど、そんなおかしな状況を、運命共同体、なんてなんともポジティブな表現に置き換えた彼に、笑いが止まらなかった。
「…ふふ、ごめんなさい。貴方のこと何も知らないのに、運命共同体、ておかしくって」
ひとしきり笑ったところで、渋面に顔を染めた彼に軽く謝罪すると、彼は僅かに目を見開いた後、視線を横へとずらして、バツが悪そうに後頭部をかいた。
「実際そうだろう。おそらく、素のアンタを知るのは俺だけになる」
「ふふ、私の本当を知るのは、貴方だけ、か」
やっぱりロマンチックだ。また、口の端からくつりと笑いが溢れる。状況的にはそんな楽観的で情緒的な言葉は全く似合わないからこそ腹の底から湧き上がる笑いが止まらない。
これは自嘲か、と気付いた時、ふと彼がぽつりと漏らした。
「結城」
「え」と思わず腹の奥に笑みが引っ込む。首を傾げた私に、彼が硬質な声音で続けた。
「貴方じゃない、結城だ」
真っ直ぐな視線が向けられて、まるで、自身を曝け出すかのような瞳に心臓がひとつ大きく跳ねた。ただ、自分の名前を告げて、そしてその名を呼ぶことを強請る発言なのに、妙に彼の目が私を捉えるから、視線を逸らすことも茶化すことも叶わない。
ひとつ目を緩慢に閉じて、瞼の裏に暗闇を映し出す。跳ねた心臓を落ち着けて、鼓動を安定させてから、ゆっくりと瞼を上げた。
「私だってアンタじゃない、刀海だよ」
敬語を取り払い、慇懃さは彼方へと投げ捨てて、にこりと綺麗に口元に弧を描く。
「これからよろしくね、結城」
運命を共にする彼の名を、初めて呼んだ。
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