「刀海さん」と、名前を呼ばれ、思惟に浸っていた思考がクリアになって浮上する。視線を目の前の彼に合わせれば、怪訝な様子でこちらを見ていた。「なんでしょうか」と返せば、その視線が私の碗にいく。あぁ、せっかくの麺が伸びてしまっていた。どれだけ物思いに耽ってたんだ、私。
「すみません」と苦笑して、もったいないから麺を啜る。一気に最後まで食べて、ごちそうさま、と手を合わせて彼を見ると、相変わらず怪訝な表層を崩していない。顔が緩んだり引き締まったりと忙しい人だな、なんて心内でくすりと笑いつつ、表面は卒のない笑みで取り繕う。ほつれを出さないように、口角を常に上げた。
《基本的に、その曖昧な笑顔でいろ》
ありがたい教えその一、だ。状況に合わせて仮面を被ることは勿論だけれど、刀海洸という人間が常に浮かべる表情を相手にイメージさせる。私の場合、ふやけた曖昧な笑いだ。取り繕う笑顔は常に浮かべ続ければ自分のものになる。
(常にその笑顔、ね)
曖昧な笑顔、と彼は称した。けれど、これは元の世界でも常日頃から私が使っている、顔、だった。
幼少期から、か。物心ついた頃からこの笑顔を様々な方面に向けていた。主には両親。できの悪い子どもだった私は、せめて円滑なコミュニケーションを家族内で取ろうと常日頃からへらりと笑って過ごした。
怒りも悲しみも憎しみも寂しさも侘しさも、凡ゆるマイナスの思考や感情さえ笑顔に沈めて。ただ笑っていればその場を凌ぐことは容易いと教えてくれた家庭は、幸いなことに将来で役に立った。卒なくこなすことは上手くなったのだ、仕事面でもコミュニケーション面でも。貼り付けた笑みと無難な働き、突出した能力なんて無くても世の中は回る。歯車は歯車なりの役割を持ち、壊れたら交換すればいい。そうやってみんな、無難に生きていく。
ある意味、これは私の最大の武器か。
その武器を掲げても、視線を外さず見つめる風見さんに、今度はその笑顔を少しずつ引っ込める。敵に合わせた武器選びは、彼から教えてもらったことだ。
眉尻を下げ、愁色に顔を染めて、視線を下げた私は風見さんに尋ねた。
「あの、風見さん」
躊躇いを感じさせるように、緩慢に視線を合わせる。
「就籍許可は、まだ降りないんでしょうか」
視線が合ったら、すぐには離さない。震える声で尋ねて、そして梅雨時の空気を払うように、また取り繕った笑顔を見せる。
「いい加減、ふわふわしている現状を落ち着かせたいというか、店長に負んぶに抱っこも嫌だなぁと」
尻すぼみになる言葉に合わせてまた視線を下げていく。
記憶を無くした民間人、現状に負い目を感じていて、不安も抱えている。多分、これが一般的に感じる感覚だと思うけれど、違っていたらチクチクとまた探りを入れられそうだ。
戦々恐々な心内を悟られまいと、顔貌に暗い影を落としておく。
「……いずれは降ります。あまり気を病まれない方がいい」
ふと視線をずらした風見さんが、外していた眼鏡を掛けた。左手に持った眼鏡を掛ける、視線は下向き、口元は結ばれている。彼を見つめても、正直何を考えているのかなんて分からない。能面の風見裕也になってしまった彼は、ぬるま湯になったお茶を一口飲んだ。
(相手の顔色を伺えって言われても)
匙を投げたくなる教えを伝授してくれた彼の相貌を思い浮かべる。ひやっとするような冷然とした佇まいに、心臓がきゅっとなる。できないじゃない、やるんだ、と奴なら言いかねない。こちとら民間人だと嘆きたくなる。
自分に向けられる疑いの目は何となくわかる。主に、安室さん、コナン君、から向けられるものだから、そもそもこちらも構えている。だから、それを乾笑で受け流すことはできるけれど、こちらから探る方法というのは慣れないものだ。
相手の顔色に合わせて言葉や声音、醸し出す雰囲気まで変えるなんて早々できることではないけれど、それに慣れろと彼は言った。
無茶言うな、そう脳裏の彼に毒付いていると、ふと視線をあげた風見さんと目があった。途端に、どきりと心臓が跳ねる。緊張で身体を強張らせてもいけないけれど、気の緩みも禁物だ。自然体を作ることを求められているのに、今は気を緩め過ぎた。
冷や汗がたらりと背筋を流れる。次の表情を思案しながら、とりあえず視線を外して口をまごつかせた。
「その、あの」
「大丈夫ですから」
「え」
「何かあれば相談に乗ります。就籍のこと以外にも不安なことがあればいつでも連絡を下さい」
能面から口にされる言葉は、顔に似合わず暖かい。硬質な表情なのに、どこか相手を気遣う声音に調子が狂う。一から十まで全てを疑ってくれる相手ならいっそ清々しい気分で狸にもなれるかもしれないのに、この人は多分、どこか甘い。映画の中で、キュラソー相手に高慢な態度を取っていたかと思いきや、救急車を呼んでやろうとした時はこの人大丈夫かな?と視聴者の一人として動揺したものだ。
彼が何を企図しているのかは分からない。けれど、彼の彼たる部分は、安室さんとはまた種類の違う毒のようだった。
食べ終わり、お会計をしようとした私を制して風見さんが二人分の料金を払ってくれた。スマートな会計にワタワタと所在なさげに動く私を風見さんは呆れ目で見てきた。ため息を吐いて、「誘ったのはこちらですから」と僅かに強められた口調で言われてしまえば、それ以上の断りは無粋というものであり難く風見さんにお礼を言う。風見裕也にラーメンを奢ってもらうシチュエーションはこの先もうないだろうから、しっかりとこの光景を目に焼き付けておこうと心のシャッターを押しておいた。
暖簾をくぐり、さてこの後はどうしようと思案する。図書館に行って本や新聞を見てもいいか。働き始めてから毎日は行けなくなったから、こまめに情報は仕入れたい。
一千万円相当の商品が奪われた強盗事件、密入国者を囲うグループの摘発事件。警察からの情報は結城から手に入れることができるから、あとはマスコミが出す情報だ。オープンソースインテリジェンス、所謂オシントで得る情報は意外と有益なものが多い。盗聴、監視、ハッキング、などの違法行為を以って情報を入手することも多いお隣の公安刑事さんと違い、私は素人の民間人なので地道に努力するしかない。
「風見さんはこの後、仕事ですか?」
大通りへと足を進めていた私は、歩きがてら風見さんに尋ねた。汗ばむ陽気なのにスーツ姿の風見さんは、「ええ」と言葉短く答える。照りつける太陽に既にこめかみからは光る汗が滲み、顔の輪郭を伝ってぽとりと落ちる。はあ、と僅かにため息を漏らした風見さんに思わず口元が緩んで、視線を空へと向けた。
月日が経つのは早いもので、もう夏の足音が直ぐそばまで来ていた。純度の高い青が何処までも伸びて行く景色が印象的な夏空が迫っていることを、日差しは告げている。
「……早いなぁ」
ぽつりと呟いた言葉にさして意味はなくて、でも吐露してしまったのはあっという間に過ぎ去ったこの数ヶ月の出来事を思い返したからだ。
ここに来て、キャラクターと出会って、疑われて盗聴までされて、嘘を吐かれてそれでも暖かな眼差しも感じて、くるくると回る日の中で一歩だって立ち止まってなんかいられなかった。迷路のような道をひたすら走って、出口を見つけるために走り続けたけれど、結局世界から抜け出す出口は存在せず、引き返した私はまたこの世界で歩き出した。
凡庸人間にしてはまあまあ頑張った日々だったからこそ、時の移ろいを早く感じられたのかもしれない。
「何がですか」
「へ」
「早い、とは何のことかと」
薄ぼんやりと物思いに耽っていると風見さんからまた質問が飛んできた。感情の読めない瞳に見つめられて少しだけ気圧されたけれど、涼しげな声で応える。
「まあ…ここに住んでから、もう数ヶ月も過ぎたんだな、と思って」
「……そうですか」
風見さんは多くを語らない。質問して相手が答えれば、そこに自分の考えは挟まずに黙ってしまう。
私の答えに、彼はやっぱり相槌を打つと無言で進行方向を見つめてしまった。その横顔をまじまじと見るわけにも行かずに、視界の端に捉えつつ私も前を見る。
出会った時からそうだけれど、質問するだけして答えない、誘うだけ誘う、とかちょっとずるいんじゃないか。いや、公安刑事だから探るのが仕事なんだけれど。
「風見さん」
だから、ちょっとだけこちらから聞いて見てもいいんじゃないかと思った。
呼ばれた風見さんは、何ですか、とこちらを見やる。切れ長の双眼をじっと見つめて私は尋ねた。
「風見さんは、どうして警察官になったんですか」
「………は?」
面食らった顔の風見さんに内心大笑いした。怪訝そうに歪んだ顔、眉は顰められ、目が細められる。今の質問の意図は何だと思案する顔だ。残念ながら大した意味はありません。
いや、意味ならあるか。
「警察官って、貧乏くじ引くこと多いじゃないですか。感謝されるより恨まれることの方が多い、不祥事は殊更に取り沙汰されて功績は当たり前のものとされる。市民を守るという理想を胸に抱いていても、いざなってみると、理想と現実のギャップに戸惑う人も多い。そんな職業だと思うんです」
同じ、守る、職業の消防士や救命士、救急隊員は感謝されることが多いけれど、警察は違う。人の死がそこにあれば、救命士は一秒でも早く遺体を引き上げるのに対して、警察官はそこで現場検証を行わないといけない。根本的に立ち位置が違う。命を救うために人を疑う。故に、不信感を持たれやすく、また世のバッシングを受けやすい。
「正義感だけじゃ、やってられないんじゃないかと思って」
少なくとも私なら嫌だと感じる。守らなきゃいけない相手から恨まれて、批判を浴びて。現代では、テレビや新聞、週刊誌などのマスメディアからの批判だけではなく、インターネットを通じて個人からの攻撃まで来る。匿名性を利用して、反論できない相手を踏み潰して悦に浸る人間は年々増えているように感じる。
正義感を持って公と人を守る彼らは、確かに権力の頂に近い位置にいるからこそ批判の目は必要だ。けれど、斜に構えて彼らを値踏みするような世間の目を見た時、ふと思ったのだ。
何のために、この人達は人を守るんだろう。
私の問いに、風見さんは顎に手を当てて思案顔を浮かべた。黙考する彼をじっと見つめれば、徐に彼は口を開いた。
「憧れ、ですかね」
「憧れ?」とおうむ返しに聞けば、彼は頷く。
「初めは確かに単純なものでした。小さい頃に見た警察官の姿が目に焼き付いたんです。一心不乱に職務に励み、危険を顧みずに犯人に立ち向かい、市民を守る…ヒーローのように感じていたんでしょうね」
「…確かに、戦隊モノのヒーローみたいですよね、警察って」
子ども心に確かに警察官はかっこいい。悪い奴をやっつける、正義の心を持ったヒーロー。一度は憧れたことのある人も多いのでは無いだろうか。
「そんな子どもの時の理想を、捨てきれなかったから今こうして此処にいるんでしょうけど、それでも、私はあの時の憧れをまだ捨てることはできていないんですよ」
「……風見さん、今おいくつですっけ?」
「三十です。……何を考えられているか想像はつきますが、戦隊モノのヒーローに憧れているわけではありませんよ」
バレてた。「ですよね」と苦笑した私に鈍い視線を向けた彼は、ひとつ咳払いをすると眼鏡をくい、とあげる。
「追いつきたい人が、いるんです」
真のこもった声音と、眩しいほど真っ直ぐな瞳に目を奪われる。その姿に、息を呑んだ。
彼の視線は空に向けられて、でも、彼方を見るその瞳に映るのはきっとこの抜けるような青空じゃない。視線に込められた憧憬の先にいるのは、おそらく彼の上司たる人だ。その人は年の割に若く見えて、華奢とも取れる体躯に他に比肩できないほどの力強さを湛える。その身体に、そして心にも傷を負いながら、しかし前を見据えて走り続ける男の背中を、彼は今、見ているのだろうか。
決してその目は何かを悲観していない。ただ、追いつきたい背中を見据えて、そして自分の力量を俯瞰して、己がなすべきことを理解している目だ。一点の曇りもないまなこは、敬服する彼の姿を捉えているのだろうか。
「……風見さんは、その人のことを尊敬されているんですね」
何も知らない体でふわりと笑う。自然と口元が緩んだのは、少しだけ、彼の素顔を垣間見ることができたからかもしれない。
降谷零は心服に足る存在だと彼の目は饒舌に語っている。いかなる命令が下されても、彼の元でなら己の身を粉にしてもやり遂げる覚悟と気概が感じられる瞳だった。
尊敬、などという言葉では生ぬるいほどの絶対の信頼を、私はそこに感じた。
「尊敬…そうですね、尊敬はしています。しかし、」
私の言葉に風見さんは何かを言い淀むように瞳を伏せた。固く結ばれた唇が言葉を紡ぐことを拒むように一の字に歪み、煩悶するように瞳が細められ、揺れる。「風見さん?」と、案じれば、結ばれた彼の唇が遠慮がちに解けた。
「時折、その人をひどく恐ろしく思う自分がいるんです」
歪んだ口元は自嘲の表れだろうか。低く吐露された声に滲む苦悩は、きっと、彼が部下として長らく抱えて来たものだろう。万感の思いが込められた声音に、言葉が迷子になった。
恐ろしく優秀で、この国のためなら如何なる犠牲、例えそれが己自身であっても、厭わない男。躊躇なく切り捨て、最善の未来を選び取る手腕に畏怖の念を覚えているのは何も読者だけではない。いやむしろ、一番近くで見てきた彼だからこその、言葉だと思った。
積年の懊悩が、彼が私にこの言葉を漏らすほどのものだとは思っていなくて、思わず言葉に詰まった。
「……あ、ああ、すみません。こんな話をするべきではなかったですね」
閉口してしまった私に風見さんが取り繕うような笑みを向ける。不恰好な口元に適切な言葉が見つからなくて、いえ、と顔をそらしてしまう。
脳裏に浮かんだのは、ひどく冷徹な面持ちの男だった。
降谷零は、孤独な男だ。級友達を失くして、初恋の人を失くして、そして、
(自分自身すら)
己が己であることを失くして、顔を付け替えながら生きるのは、ひとえに、この国のためということは理解している。
あまりにストイックで、それでいてひどく、哀しい存在。自分すら使って、巨悪に立ち向かう心情を推察することすら叶わない。
そんな人間の部下となった彼の心内もまた、推し量ることができないほどの不安や悩みが渦巻いていることが、彼の表情、声音、全てから滲み出ていた。
凡庸人間の私が理解できる範囲をゆうに超えてくる現実。体感できない事実に対して、私が伝えられる言葉なんてものは存在しない。
(掛けられる言葉なんて、あるわけ……)
ない、と言い切ってしまえば楽かもしれないのに。
ピタリと歩みを止める。立ち止まった私に風見さんが怪訝に眉を顰めた。
それでも、だ。それを、ない、と断定してしまうほど強くない私は、ぐっと拳を握りしめて、前を向く。
「刀海さん?」と声をかけてきた風見さんを尻目に、数歩だけ真っ直ぐ走って、くるりと彼に向き合う。駆け上がった情動が、胸に火を点けていて、鎮火したくても強情な私はそれをしようとしなかった。
視線が真っ直ぐかち合って、その瞳に焦点を合わせる。
「風見さん」
彼の名を舌に乗せる。
紡ぐ言葉が届くかは関係ない、私の自己満足的行為だけれど、とにかく、言葉にしたかった。
「私、風見さんのこと凄く尊敬しています。それに、感謝しています」
面食らったように目を瞬かせる彼を見据えて、言葉を紡ぐ。
きっと、卒なく彼の言葉を受け流して、よく分かりません、と取り繕った笑みを向けるのが強かな返し方だった。それが、最善の選択だったと思うけれど、私はそんなに、強い人間じゃない。
何を言えばいいのか、何を伝えたいのか、直感で動いたから深くは考えていなくて。ただ、そう。
「私のことを気遣ってくれる言葉がとても嬉しくて、不安や孤独を感じていても、見てくれる人がいるってだけで、凄く…救われるんです。だから、その、ですね」
淀みなく紡がれた言葉を一旦区切って、思考をまとめる。深く息を吸って、綴る想いは稚拙だけれど
それでも、ただ─
「いつも、ありがとうございます」
ただ、伝えたかった。
彼の懊悩を消せるとも、和らげることができるとも考えていない。安易な慰めは侮辱になる。彼に心の底から救われるほどの密な関係にもなっていない。彼との関係性を考えたら、何かを言うキャラクターは私ではないことは明々白々であるのだけれど、紡ぎたいという私の欲求は私の口を語らせる。
ありがとう。感謝の言葉くらいしか私には紡げないけれど、ただ、知っていて欲しい。
私が狸になりきれないほどには、彼は甘いけれど、それでも、決して彼の存在はあの人にとって無ではない。
人は、どれだけ優秀でも、独りでは生きていけない。
ただ、それを知って欲しいと願った。
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