トロピカルランドの一件以来、私は結城と定期的に連絡を取る仲になっていた。友人というほど気心の知れた間柄でもないけれど、少なくとも敵ではない。
その証明と言えるのか、結城は私の部屋に来て何度目かの時、座卓に茶を置いた私をじっと見つめた後、徐に立ち上がると真っ直ぐ部屋の片隅に移動した。何事かと怪訝に顔を歪めた私に一瞥もくれず、かちゃかちゃと何かを動かし、気づけばその手に握られていたのは、アルファベットのAが記してあるコンセント。
まじか、と目を瞬かせた私を結城はじっと見つめた。あ、と声を上げてしまい、咄嗟に口を噤めば険しい目色が更に濃くなる。眇められた瞳に苦笑いしか出なかった。「分かってたんだな」と、ため息を吐いた結城に何も言えずに代わりに肯首する。
聞けば、盗聴器を仕掛けたのは別の公安警察官だとのことだった。それが誰なのかは結城も把握しておらず、風見さんからその話を聞き、結城が盗聴を引き継いでいたとのこと。元々、風見さんの指示で私を尾行していた結城に仕事がシフトしたのだろう。結城も盗聴を引き継ぐことに異論はなかったそうで、結果的にはそれが良い方向に転がったというわけだ。
かくして、我が家から盗聴器は消え去った。盗聴するより直接口を割らせて方が早いとの結城からのありがたい言葉を聞いて背筋がゾワっとしたけれど、何はともあれ、変な寝言やうっかり口を滑らせて向こうの世界の仔細を聞かれることはなくなった。


「で、今日は何の用?」

座卓に置いたコップの中の氷がカランと鳴る。水滴がしっとりと縁を濡らすそれを、結城が無造作に取って一気に口に含んだ。汗ばんだ額、首筋がここまで来るのに外がどれだけの温度だったのかを物語っている。私の問いかけにしばし間を置いて、ぼう、と視線を一点に集約した結城は短くため息を吐いた。あちぃ、と答えになってない答えが返って来る。

「この部屋、暑い」
「クーラーは節約、まだ耐えられる暑さ」
「客人を蒸し風呂に呼ぶ女はモテないぞ」
「客人なんていないから問題ない」

会話が不毛。荒れ野で会話のドッジボールをしている虚しさ。加えて炎天下である。嗚呼、不毛。
それでも、この不毛さが嫌いじゃない自分がいるのだから救いようがない。

初めてだった。初めて、私が《知らない》、キャラクターとして認識していない、ただの一個人として腹を割って話せる知り合いができた。友達というほどの仲ではまだないけれど、それでも私の嘘を嘘と認識して、それを指摘し、裏表なく接してくれる結城の存在は、存外私を落ち着かせてくれた。

不遜な態度の結城に同じような態度で接する。結城が飲み干したコップに冷蔵庫でキンキンに冷えた新しい麦茶を注ぐと、再度、で?、と問い質した。

「登庁前の貴重な時間を割いてまで来た理由はなんなわけ?」

スーツ姿の結城は珍しい。他の捜査員に身バレしない為にも私服で来ることが多い結城がスーツ姿で現れた時は少々面食らった。
ゆっくりする時間もあまりないだろうに、一体どうしたんだと小首を傾げる。私自身、今から店に行くので長居してもらっても困るけど。

結城は麦茶をもう一杯口に流し込むと、黒地のザックに手を突っ込んだ。ガサガサと中を漁る結城を怪訝に見つめれば、彼は無言で中から取り出した物を私に突き出す。その黒光りする物と結城を交互に見て、私はさらに首を傾げた。

「なに、これ」
「時計」
「見ればわかる」
「通信機能付きの時計だ。お前のスマホじゃ、Wi-Fiがないと使い物にならないだろ」

女性が付けるには少しばかり不恰好だけれど、デザイン的には私の好みな時計。唐突にそれを渡されたものだから何かの賄賂かと勘ぐってしまったけど、どうやら時計以上の代物ならしかった。へえ、と感嘆の声を漏らした私はそれをさすさすと摩る。なるほど、通話ボタンが目立たない位置についている。これを押すと、特定の通話相手と話ができるのか。

「女性に渡すプレゼントにしてはセンスないけど、ありがとう」

憎まれ口を叩いてしまうのはもはや癖になった。ニヤリと笑った私に結城は肩を竦める。「センスないは余計だ」と小さく吐き捨てた。

結城との連絡はこれまでスマートフォンの通話アプリ頼りだった。けれど、Wi-Fi環境下じゃないと私のスマホは役に立たない。フリーWi-Fiがそこら中に飛んでくれている場所が東京には多いからまだ助かっているけれど、あの日、地元へ帰省した時にはかなり困った。連絡という連絡を誰かと取り合っているわけではないけれど、いざという時に困ることがよく理解できた。

無骨な時計をくるくると回してみる。これいくらくらいしたんだろうとじっくり眺めていると、ふと、結城の視線を感じた。視線を時計から外して横へスライドさせれば、じっと感情の読めない瞳が向けられる。「どうかした?」と問えば、別に、と顔を背けられてしまう。けれど、口をまごつかせて何か言いたげにする結城に募った不振感に私は再度問うた。

「なに?」
「……あのさ」
「うん」
「お前、風見さんに何か言ったろ」
「……うん?」

何か、とはなんだ。その曖昧で不明瞭な単語を持ってこないでほしい。
何か、てなんだと眉を顰めたら、結城は肩を竦める。

「お前への心象が最近良くなっているのが気になったんだよ」
「心象…?」
「あんだけ疑ってたのに、丸くなった。彼女の可能性は低いって上に報告するとか……、」

そう言いながら、尻すぼみになった言葉に結城の目が見開かれる。薄っすらと目を細めた私に彼は、ハッと口を手で覆った。しまったという風に、いや、その、と明快な言葉を紡がない彼はたいそう珍しく、思わず目尻を緩めて苦笑してしまう。くすりくすりと笑む私に、結城はバツが悪そうに視線を逸らした。

角が取れたように私への嫌疑の目が緩んだという風見さん。あの時の会話が契機となったのかは定かではないけれど、私にとっては僥倖かもしれない。
彼女の可能性は低い、という単語の意味は何かしらの嫌疑がかけられていた表れだ。だから、私をラーメン店へと誘った。間違いなくそれは、あの日結城が私に話した案件、強盗事件と摘発事件の二つに関連している。
交友関係を探ろうとしていたようだけれど、私は事件に関係がないので無駄骨だ。逆に、私との接触で対象に絆されてしまったのか。

私の朗らかな笑みに、うっかり口を滑らせた結城は観念したようにひとつため息を吐いた。

「言っとくが、風見さんは好き好んでお前を疑っているわけじゃないからな」
「分かってるよ。それより、何の可能性が低いのか興味あるかな。私が犯人の可能性?それ以外の何か?」
「………さあな」
「意地悪」
「お前だって、肝心なことは言わないだろ」

それもそうか。ぶっきらぼうな結城の言い草に、まあね、と同意する。言えるわけない私の真実。でも、言わない選択をしているのは私なのだから、情報を秘匿することに関して結城を責め立てる立場に私はない。
それに何も、結城から情報を貰う必要性だってないのだ。

口を滑らせてくれそうな人は、他にもいる。

悪魔のような考えを、否定するほど私は優しい人間じゃない。
ちらりと時計を見やったら、家を出る時間まであと少ししかなかった。いかんいかん、遅刻してしまう。そう思って、急いで準備する。化粧は施してあるから、諸々の準備をして、最後に時計を左腕に装着する。
これ以上、私に追求する意思がないと判断したのか、結城はいつもの能面に戻った。胸ポケットから手帳を取り出し、スケジュールを確認しだす。背後から少しくらい見えないかな、と思って何気なく後ろを通ったら絶妙なタイミングでパタンと閉じられた。鋭い。

「お前さ、風見さんと何話したの」

手帳を閉じたタイミングで結城がこちらを振り返った。上目遣いに見てくる双眼に目を瞬かせる。「何って?」と返せば、「そのままの意味」と更に返された。
何を話したのか、それを結城が気にすることに若干の違和感を覚えたけれど、無機質な顔貌からは露ほども心内が読み取れないため、仕方なく彼の問いに答える。

「特に何も、世間話だよ。どうして警察官になろうと思ったんですか、とかそんな話」
「へえ。あの人そんな話に付き合うのか」

結城は僅かに感嘆の色を見せた。
おそらく結城と風見さんの仲は悪くはないんだろうけど、特別親しくもない。普段から二人は事務的な言葉しか交わしていないことがその反応からは窺える。
警察手帳を胸ポケットに戻した結城に、私はふと尋ねてみた。

「結城はなんで警察官になったの?」

それは何気ない問いだった。風見さんにもした質問。
正義感だけではやってられない。そう感じる警察という職に何故ついたのか。風見さんは、憧れ、と言った。幼き頃の情景を胸に抱え、今尚それは昇華されることなく胸の奥に秘めている。
では結城はどうだろう。私がみてきた、この男は良くも悪くもひどく淡白だ。直情的とは無縁の人間。ヒロイズムに感化されそうにもない、むしろ、それを厭いそうな性質。正直、守る仕事に塵ほども興味はなさそうに見えるタイプなのに、何故彼はこの職についたんだろう。

私の問いに、結城が緩慢にこちらを向く。伏せられていた瞳を私の視線が捉えた刹那、


「さぁな、理由なんて覚えてない」


ぞくりと、背筋が粟立った。
須臾に結城は私から視線を逸らしたため、表情をきちんと確認することはできなかったけど、一瞬見えた瞳の色にひどく混乱する。
底冷えするような、色。何者も映さない、否、何者もいない。奥底まで暗闇が広がっているような、そしてそれに呑まれそうなほどの闇。覗き込もうならその対象を食らってしまうかのような、瞳。
一切の光を遮断した瞳が、私に立った一瞬だけれど、底知れない恐怖を与えた。

風見さんとは対照的な反応に困惑する。何故、そんな目をするのか。警察官という職に就く理由に何かあるのか。

カチリカチリと針音が無音の空間に響く。心臓の鼓動とその音が連動する。

「……なら、さ。どこ出身?東京」

気を取り直すようにへらりと笑う。何か喋っていないと、鬱屈とした空気に押し潰されそうだった。
張られた緊張の糸を解すように温色を湛えると、結城は不信感を向けてきた。

「何でそんなこと聞くんだよ」
「知りたいから、以外ないでしょ。別に何かを探ろうとしてるわけじゃないよ」

出勤準備を連動して行いながら、から笑いで不信感を受け流す。
理由なんてない。ただ、この空間に耐えられなかっただけだ。

結城は顎に手を当てて、考える素振りをみせる。黙考する結城に首を傾げれば、彼はふとこちらを見上げた。

「逆に聞くが、お前はどうなんだ」
「………は?」
「出身」
「………あんた、私の基本情報くらい知ってるよね?」
「嘘を吐くのが上手い女、てことは誰よりも知っているつもりだ」

さらりと宣った言葉に、ぴしりと身体が硬直する。へらりと笑っていた顔までその硬直が伝染して、歪んだ笑顔に結城の瞳の奥がぎらついた。
嘘、とはどこまでの嘘のことを言っているのか。会話から推察するに、出身。つまりは、記憶喪失そのもの。
勘付いてはいると思っていたけれど、明確にそれを突かれると、あからさまな動揺を表層に走らせてしまった。

「……油断しすぎだ。近しい仲になろうとも、表情に出すな。お前は嘘を吐くことに慣れてはきているが、それを指摘されると表情に出やすい」

結城は呆れ目を向けてひらりと手を振る。こちらを見抜いている、と思えばその鋭い眼光を瞬時に緩めるのだから、この男はどうにも掴めない。

「……ご教授どうも」

振り回してくる結城に、前髪をくしゃりと掴んで嘆息した。

効果的な言葉の使い方、間の取り方、尋ね方、その技術を間近で見るとやはり彼が公安捜査官なのだと実感する。身体に緊張の走る眼光、問い、声音の扱い方の上手さはさすがと言わざるを得ない。
なんとなく悔しい気持ちが胸中に広がり、むくれ顔になってしまった私の背に、「……で、どうなんだ」と催促の言葉がかけられた。「は?」と間の抜けた声を出した私は怪訝に顔を歪めて結城を見る。

「どう、て何が」
「出身はどこだ、て聞いたろ」
「自分は答えなかったくせに…」
「……俺が答えたら答えるのか?」

じっと、無機質な瞳が私を射抜く。色のない瞳はひどく私を乱す。全てを見抜かれているような、私を暴き尽くすような獰猛な獣がそこにはいるようで、草食動物のように怯えてしまう。
結城のこの瞳は、少々苦手だ。

「……外の世界」

視線を合わせずにぽつりと漏らした言葉も、結城は拾ってくる。

「なんだ、やっぱり密入国か」
「やっぱりってなに。というか、密入国じゃないから」
「ならなんだよ」
「私にも分からないよ。強いていうなら、そうだな、……迷子かな」

拾われたところで、彼が真実に辿り着くことは決してない。
それだけが私を強気にさせてくれる要素で、私の反応をつぶさに観察する結城の瞳にへらりと笑う。

「帰り方が分からない迷子。一番それがしっくりくる」

鏡の国にやって来てしまって、迷路に迷いこんだアリスか。
現実と仮装世界を行き来するネオか。
此処じゃない何処かへと迷い込んで、帰り道を見失ったのなら、迷子というのが一番適切だろう。

結城はそれ以上は何も聞いてこなかった。私は答えたのに、結城は口を噤んだままだったから、ずるいと思って再度尋ねると、「時間がもうない」とそれらしい理由をつけられて結局聞けずじまい。私も時間がなかったため、二人揃って足早にアパートを後にした。
三叉路で結城と別れる際、ちらりと見やった後ろ姿に、口端をきゅっと結んだけれど、綴ることのできない燻った感情をのみ込んだ私は店へと走った。


31


言葉の遊び リンク文字