出勤時間の二分前に店に滑り込んで遅刻を免れた私に、秋穂さんが「朝から元気ねえ」と朗らかな笑みを向けて来たので、汗だくの笑顔を返す。化粧が崩れた、結城のせいだ。
一方的で理不尽な言い分を脳内で述べつつ、身体は仕事モードに切り替える。エプロンを付けて、仕込みの品を確認して、と開店準備を整えていると秋穂さんがくすくすと私を見て笑った。
やばい、化粧崩れそんなに酷いかな。
「す、すみません秋穂さん。顔酷いですよね」
来て早々だが化粧直しをして来た方が良いだろうか。化粧ポーチは持ち歩いているから簡単には直せるけれど、今から配膳などがあるからあまり直したくはない。ただ、見られる顔じゃなければ作らないといけない。社会人、身嗜み、大事。
そんな私に秋穂さんは笑いながら思いがけない言葉を口にする。
「酷いって、むしろとっても良いじゃない」
良い、だと。化粧崩れした顔貌が良い、とは。いつも化粧が厚すぎる?いや、私はかなり薄いメイクだ。肌荒れしやすいため、下地もファンデーションもこってりとは付けない。
「良い人でもできたかしら、と思って。最近、少し楽しそうだから」
頭をフル回転させて、思考を巡らせている私に秋穂さんが頬に手を当てて優婉に微笑んだ。上品な笑みは昔、店長が惚れ込んだ笑みで、優美に崩された相好に目を丸くした。
良い人?良い人とは?つい最近知り合った新たな人間といえば一人しかいない。しかしながら、彼は決して良い人ではない。不遜な態度、崩されない仏頂面、欠片でも優しさを持ち合わせているなら私に少しは与えて欲しいものだ。いや、与える義理は奴にないかもしれないけれど。
「何もないですよ」と眉尻を下げてへらりと笑う。そう?、と聞き返す秋穂さんをかわして定食用の漬物と小鉢をカウンター奥の冷蔵庫から取り出す。あ、今日はナスの辛子漬けとオクラとササミの梅紫蘇和えだ。これ美味しいんだよな。
賄いで貰えたらもらおう、と口元を緩ませた矢先、奥の方から店長の声が聞こえてきた。
(……誰かと話してる?)
ひどく焦っているような、切羽詰まった声色。怪訝に思って、抜き足差し足忍び足でそろりそろりと厨房内を進む。店舗兼住宅のため、奥に進むと住宅となっているから普段はあまり立ち入らないのだけれど、聞こえてくる声があまり良い雰囲気ではないため、少しだけ不安が胸を掠めて、足が進む。ちらりと後ろを振り返ると、秋穂さんはフロアの方で開店準備を整えているようだった。
ひとまず、秋穂さんの姿が見えないことに安堵して再度前を向く。声が聞こえる距離まで近づくため、足音を極力消す。
「これ以上は無理だッ…」
声を潜めながらしかし悲痛に染まった色。音として耳に届く店長の声に、益々、眉が顰められる。
暖簾の隙間から奥の様子を伺うと、固定電話を握りしめている店長の横顔が見えた。
(誰との電話…?)
横顔から滲む苦悶の色が店長の心情を如実に表していた。
明らかに電話口の相手は、良い話し相手ではない。
「私にはもう……っ、分かった、分かっている…頼むから」
言葉尻が窄み、深く項垂れた店長の拳は震えていた。「頼むから」と再度相手に懇願した店長は、数度、あぁ、と相槌を打つと受話器を置いた。
マズイ、戻ってくる。その姿を確認して、私は音を立てずに元いた場所へと早足で移動する。置きっ放しにしていた小鉢と漬物の元へするりと身体を移動させた刹那、店長が暖簾をくぐって厨房へと入ってきた。
私の姿を視認した瞬間、僅かに店長の目が見開かれたのを確認する。はくり、と口が開き、次いで直ぐにその表層を隠すように視線が逸らされる。「店長?」と態とらしく惚けたら、彼は、なんでもない、という風に曖昧に微笑んだ。無表情が板に付いている店長にしては、不自然な笑みだ。
(……電話相手は、風見さんじゃない)
私の後ろを通り過ぎた彼の背中を見据えて、薄っすらと目を細める。嘘を吐くのが不得手な店長は、顔に感情も出やすい。
風見さんなら、協力者にあんな狼狽させるような言葉をかけない。否、公安警察との協力関係において一方的に相手が不利になるような協力要請はかけられない。あくまで相手が協力するように仕向けて、互いが利益を享受する関係、少なくとも協力者側がそれを望む形で公安警察は協力者運営を行う。
なら、あの反応はあまりに不自然だ。
いったい、誰と話をしていたのか。
フロアから秋穂さんの声が聞こえる。「洸ちゃん」と名前を呼ぶ声を受けて、フロアへと移動しながら頭の中は顔も分からない電話相手のことでいっぱいだった。
*
一度嘘をつくと癖になる。一度罪を犯すと歯止めが効かなくなる。人間、良心の呵責で踏み止まっていた悪行をやってのけてしまうと、存外その呆気なさに味をしめてしまうものだ。意外といける、と思うと止めていた足を突き出して、行けるとこまで歩いてしまう。大概、自制心によって歩ける範囲を留めているので、そこに外的障害はない。故に、行けると感じてしまえばどこまでも歯止めが効かずに歩き続けてしまうのだ。
嘘を吐けば、吐き続け。
人を騙せば、騙し続け。
自責の念は時と共に薄れて、味のしない出がらしとなって目の前に落ちる。罪悪感は、罪を重ねる度に薄くなっていくのだ。
だから、今の私に罪悪感を感じる心は残されていない。
尾行の基本は言わずもがな相手に気づかれないこと。それは抜き足差し足忍び足でヨタヨタついていくのではない。一定の間隔を空けて、歩調を変えずに相手を追う。時折、相手が辺りを警戒しても、焦らず歩くスペースは変えずに、しかし距離を保つために誰かと連絡を取り合うフリをする。目立つ素ぶりを見せて目をつけられたらそこで終わり。気付かれなくても、相手の目に自分の存在を刻み込んでしまったらそこで尾行は終わる。
結城からのありがたい助言は功を奏していた。素人相手ならば不自然にはなっていないんじゃないだろうか。結城達公安捜査官や、その道のプロからしたらお粗末な尾行でも、少なくとも今、私の監視対象者(マルタイ)に気づかれていないのだから恩の字としてほしい。
マルタイが向かっているのが何処かなのは分からない。住宅街にある店とは対照的に、今辺りにそびえるのは雑居ビル、高層タワー。コンクリートジャングルは空まで覆い隠して、今自分が東京のどの辺りにいるのかさえ曖昧になる。方向感覚が鈍りそうだ。
電車を乗り継いでやって来たのは都心のオフィス街。スーツ姿のサラリーマンからOL、外国人の姿も見られる。ドラマや映画で観たことのある都会の風景が広がる中、キャスケット帽を被ってストレートジーンズを履いている私は少々この場にはそぐわないんじゃないか。
ただ、いつもの服装がワイドパンツやハイウエストなので、格好を多少変える必要があったのだ。さらに言えば、こんな場所に来るとは思ってなかった。
人目を気にしつつ、マルタイを見失わないように歩みを進める。視界にしっかりと納めているのは、いつもより少しだけ生地の良い服を着ている、店長だ。
あの日、電話口の相手が誰か分からないまま、心ここに在らずな状態で配膳やら洗い物に勤しんでいると、ふと、カレンダーを見やった秋穂さんが店長に尋ねた。
『あら、明日は何処かに行かれるの?』
おっとりとした口調で店長に話し掛けた秋穂さん。私の視線はすぐさま店長に注がれた。洗い物をする手を止めることなく、視界の端には店長を置く。
日替わりのメイン料理、和風ハンバーグを皿に乗せる瞬間だった店長の手が僅かに震えた。ひくり、と硬直した体躯。眼球は忙しなく左右へと振られる。はっ、と短く息が吸われて、吐き出されることなく数秒間が空く。三拍ほど沈黙が流れ、息を吐き出しながら『そう、なんだ。昔の知り合いのところに』と言葉が紡ぎ出された。
明らかな、動揺。狼狽の色は濃く、冷や汗を流していることは火を見るより明らかだった。そうなんですか、とまたふわりと笑う秋穂さんとは対照的に、私は能面のまま洗い物に勤しんだ。
店長がいないのなら、店も開かない。やることといえば、一つだけだ。
(尾行されていたのに、する羽目になるなんて)
自分がされて嫌なことは相手にするなと子どもの頃、学校の先生は言っていたけれど、大人になってもその言葉を守れる人間は早々いない。
皆、自分の身を守るために手段は選ばない。嫌なことはするな、といっても、せざるを得ない状況になれば己に課していた倫理の鎖はいとも簡単に千切れるのだ。
自嘲に口元を歪めて、マルタイ、もとい店長を追う。あの時もそうだった。店長を追って、追った先で風見さんと結城を見つけた。
あの時感じた喪失感は今でも身体に刻まれている。信頼、安堵、寄る辺を求めていた自身の喪失。同時に押し寄せた不安と絶望。悲壮感に呑まれそうになって、手繰り寄せようとした帰り道は結局どこにも繋がっていなかった。
私は、私として生きてきた世界を失ってしまった。
喪失感を味わうことはもうない。何を見ても、何を聞いても、私はただ真実を知るだけだ。
今度は誰だ。店長は何を隠している。私に関係があるのか、それとも何れかの事件に関係するのか。憶測だけでは何も解決しない。なら、彼を追うしかない。
決意を改めて胸に刻んで見慣れた背中についていく。雑踏を掻き分けて進む店長を見失わないように、ひたすら神経を尖らせて歩き続ける。見失うな、追え、と脳が指令を出していた。
喧騒を彼方へと追いやり、全神経が彼を尾行することに費やされる。
自分を守ることができるのは、自分だけだ。
「何をやっているんですか」
耳に届いたそれは、ひどく、冷徹な声で。路地から聞こえた声と共に、手首がキチリと痛んだ。ずるり、と身体がメインストリートから、ビルの間の薄暗な空間へと吸い込まれる。
驚かなくなったのは、もはやこの世界に毒されたからなのか。
手首に感じる鈍い痛みは脳に遅れて伝達されて、私は緩慢に《彼》を見上げた。
「……こちらの台詞ですよ」
安室さん、と。
薄く笑んだ口元に、彼の目が僅かに見開かれた。
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