内心舌打ちをした。何故彼がここにという疑問より先に、自分の目的を達成することが不可能になってしまったと思ったからだ。彼の登場により、店長の尾行の継続は出来なくなった。人混みの中にいる人間を一定の間隔をあけて視界から逃さないことだけでも私にとっては針の穴に糸を通すくらい神経を使う芸当だというのに、視界から外れてしまったらもうそれは不可能だ。
店長が会う人物を確かめる、店長を追う、という目的は達成できずに終わる。その事実に苦い思いが胸を掠めながら、しかし現状を見据えて対峙する。
次に私がすべきなのは、その目的を妨害した人間の企図するところは何かを探ることだ。

薄い笑みを浮かべて、私は安室さんに問いかける。
「何をしているんですか」と彼は言った。なんて安直な台詞だろうか。そしてなんて安易な表層だろうか。不信感を露わにしている相貌は、らしくないだろう、と私は仮面を差し向けた。

「安室さんこそ、何故ここに?」

貼り付けた笑み、綺麗に綺麗に顔面をコーティングする。
笑顔は武器だと結城は言っていた。それはどの立場の人間でもどんな場面でも、何よりも強力な武器となり得る。国家の代表同士の会合、企業間の折衝からご婦人の井戸端会議まで、笑顔は常に人を暴き、己を守る武器となる。
三日月に歪めた目とあげられた口角に、安室さんの眉に深く皺が刻まれる。ほら、そんな安室透に似合わない顔は良くないですよ。それはまるで、貴方のもう一つの顔だ。

「僕は知人に会うために来ていただけですよ」
「そうなんですか。いきなり路地裏に引っ張り込まれたので、暴漢か何かかと思いましたよ」

びっくりさせないで下さいよ、と軽口を零して様子を伺う。貼り付けた笑みはそのままに安室さんの一挙手一投足までつぶさに観察する。
卒なくこなすのが私の取り柄だ。

「……洸さんは、何故ここに?」

ひとつため息を吐いた安室さんが私に再度問い掛けた。相変わらず安室透として見せるベビーフェイスは鳴りを潜めている。
それだけ、私がここにいることが彼にとって好ましくない状況なのかと少しばかり思案する。返す言を弾きだすために脳内会議を開こうとした矢先、ぐっと、手首への力が強められた。「いっ、」と思わぬ痛みに顔が歪む。何をするんだと鋭い視線を遣った刹那、安室さんが俯き、ぼそりと低く何かを呟いた。

「………こで、」
「……安室、さん?」

何を、と表層が分からない彼を伺おうとして、ぴたりと身体が硬直した。


「どこで、そんな目を覚えたんですか」


その声音が、ひどく煩悶しているようで。
揺らいだ声に動揺を隠せず、私は閉口した。

そんな目とはどんな目のことか。相手を探る眼、欺く瞳、嘘を重ねて他者を謀る、そんな目のことを言っているのか。
その目、とは何か。イメージできるとしたら、目の前の彼、降谷零が仕事をしている時の目だろうか。バーボンとして組織の仕事に打ち込む彼の瞳はひどく冷徹で、感情を汲み取らせない口元も相成ってその顔貌はいつも人を欺く。同じ人間の顔だというのに、全く別人のそれのように見える、彼の顔。

彼が指す、そんな、の意味を考えて、でもそれ以上に気になったのは、彼が今私に見せている相貌だった。
どうして、とか、なんで、とか疑問が湧いて消化されることなく積み重なる。

視線というのはいつだって饒舌に人の想いを語る。人が言わんとすることは大概その視線の中に隠されていると言っても過言ではない。しかし、視線はコントロールすることができる。わざと悲哀を含ませて相手の情を誘ったり、挑発して本心を炙り出すことだってできる。

ただ、私にはそのコントロールはまだ難易度が高いらしい。

俯いていた安室さんの顔貌がゆらりと上がる。

(どうして…)

眉は歪み、口元は固く結ばれ、目元には苦悶の皺が刻まれている。どうして、と問うた彼が何故こんな顔をしているのだ。逆に私が聞きたかった、どうして、と。
私の瞳に映る彼は、ひどく、苦痛を堪える表情で、私を見ていた。

どくんと心臓が鳴る。走る動揺を止めることができずに口をはくはくさせる。何かを紡ごうとして、しかし悲哀すら感じる安室さんの瞳に言葉は素直に出てきてはくれなかった。
私は卒なくこなすことが得意で、すらりと言葉を連ねることも、顔に饒舌な表層を作ることも造作無くできるはずなのに、その仮面を作ることができなかった。
正しくは、それをすることを、私自身がひどく厭ってしまった。

二人分の息遣いがやけにクリアに聞こえて、すぐそばの喧騒が耳に届かない。
安室さんの問いに間髪入れず答えることが、私にはできなかった。

私を案じる瞳は嬉しいはずなのに。
それが、ひどく煩わしい矛盾。

どうしよう、と理解できない状況に混乱して、背を向けて後ろに逃げたくなる心境に陥る。
次の一手が見えなくなるのは、闇路を歩くように不安に苛まれる。何をすれば、どうすれば、と先行きに不安が蔓延するのは、何度も経験してきたというのに、また私は繰り返すのか。

この瞳に絆されて、また、探られたら。

嫌な思考が頭をよぎる。
が、そう思った刹那、

(………しっかり、しろ)

咄嗟に脳裏に浮かんだ彼の姿に、私の思考回路は再び動き出した。

視線を下して状況を俯瞰する。ゆっくり瞳を閉じ、瞼の裏の暗闇の中で、彼の残像と対峙した。
教えたろ、と不遜な態度で腕を組み、仏頂面で語りかけてくる。真一文字に口を結び、睨め付けてやったら、肩を竦めて鼻を鳴らした。
やるんだよ、とその唇は私に強要する。

瞬いた瞳を彼に向けて、私は紡いだ。


「……そんな目、て何ですか」


偽りの私を演じた。

グッと、安室さんが奥歯を噛み締めたのが目に取れた。「洸さんッ」と語気を強める彼に笑いかける。

「私の目がどうかしましたか?」

邪気のない笑みが、邪気を呼び込んで私を包んで行く感覚に、胸がずしりと重くなった。私自身が、私自身の心に靄を掛けて中を見えなくしていく。鉛のように重く感じる胸が見えないフリをして、私は笑みを取り繕った。
安室さんが何かを紡ごうと口を開いて、けれど逡巡するように視線を落とす。言葉を堪える様子にこちらまで飲まれそうになった。

そんな目で、私を見ないで。
そんな声で、私を呼ばないで。

どうして、らしくない顔をするのかが分からなかった。彼は私を探らなければいけない立場だ。私を尾行して、探りを入れてきたこともあった。しかしそれは仕方のないことだから、と自分自身を納得させた。
なのに、彼は時折私を案じる素ぶりを見せてくる。愛車で私を送ってくれたあの日、彼は私に一部の謎を明かしてくれた。相変わらず探る瞳は随所に散りばめてくるけれど、それでも、私を排外する意図があるわけではない。真実を知ろうとする目という意味ではコナン君と同じ。常に謎を追い続ける存在。

だからこそ、私はずっと演じなければいけないのだと強く心に刻む。

「さっきの質問ですけど、ここに来たのは散歩ですよ。都内の地理がよく分からないので、一日乗車券を使って観光してみようと思っただけです。ちょっと考え事してたから、怖い顔に見えちゃいましたかね」

ごめんなさい、とから笑い。気の弱そうな曖昧な笑み。強く心を持てと自戒を胸に刻みながら、軋む心に泣きそうになる。表の顔は笑みを貼り付けて、裏の顔は苦悶に歪んで、どうか裏の顔が出てきませんようにと祈った。

安室さんの双眸が向けられる。透き通った蒼は私の濁りを捉えているように錯覚させて、それだけで心臓が縮み上がる。含意のある視線を避けたくて、この場から離れたいのに手首を掴まれたままの為それも叶わない。
嗚呼、嫌だな、と瞼を伏せると、ふと手首から人肌が消えた。解放された箇所を見て、次いで顔を上げて彼の相貌を仰ぎ見る。

「……そうですか」

あ、と思わず声を上げそうになった。瞳に映ったその顔貌に胸がきちりと軋んだ。

「すみません、急に呼び止めてしまって。洸さんが少し思い悩んでいるように見えたので、つい引き留めてしまいました」

先ほどとは違った嫌な汗が背筋を流れる。彼が浮かべている、完璧な笑顔、は確かに望んでいた筈なのに、いざそれを向けられると複雑な感情が胸の内を錯綜した。
一線を引いた私に、彼もまた一線を引いた。
安室透、ベビーフェイスの柔和な好青年は、喫茶ポアロで見せる穏やかな陽光のような笑みを湛えて私を見下ろした。数分前まで見せていた顔は付け替えられて、今はただ、感情を汲み取らせない無難な笑顔が私に向けられている。

──ごめんなさい。

きゅっと、口端を結んで静かに瞬いた私は、同じように微笑を浮かべた。

「安室さんったら、どうしたんですか。大丈夫ですよ、私」
「そうですね、少し僕は、勘違いをしていたようです」

互いに笑みを向け合って、腹の底がそこに現れることはなかった。

安室さんは再度謝罪すると、足早にその場を後にした。
彼の背が消えるところまで見送り、私は溜まっていた心中の汚泥を吐き出すように、息を吐いた。喧騒が耳に戻ってきて、日常の音を体全身に受けながらひとり物思いに耽る。

彼が引き留めてくれようとしたのは、私の心だったのだろうか。

どこでそんな目を覚えたと彼は言った。ひどく苦悶に満ちた顔は、何故、と私に問いかけていた。
元来、彼は優しい性格なのかもしれないと予想していたのは、他ならない自分だ。吐き続ける嘘に、騙し続ける自分に、心が侵されて麻痺していくことを、彼は懸念してくれたのかもしれない。
そう考えるのは楽観的過ぎるかと自嘲する。どちらにせよ、確かめる術は私にはない。

くるりと進行方向を転換させて、雑踏に紛れる。人の波を抜けながら、彼の言葉を反芻した。
罪悪感以外で人が踏みとどまる一歩となるのは、いつだって他人の言葉と行動だけと、昔、大学の授業で宗教学の教授はしきりに学生に説いた。自分一人では止めることができない罪を止めることができるのは、自分以外の誰かなのだと。

(いつか、その時が来るのかな)

生暖かい風を受け、さらりと前髪が揺れる。ビル影が延びて、私のそれと繋がった。


私の嘘は、いつか止まるのだろうか。



33


言葉の遊び リンク文字