抜けるような蒼が広がっていたはずなのに、いつの間にか空は灰色で満たされていた。すん、と鼻から空気を吸えば広がる湿気った匂いに、近くのコンビニで傘を買う。自動ドアを潜ると、むせ返るような熱気が肌を撫ぜて、次いでぽつりぽつりと雫がアスファルトを濡らした。路面が全て濡らされる前に、ビニール傘を天に咲かす。
雨が降っているというのに、外気は暑さを感じさせるものだから嫌になる。夏は嫌いな季節じゃないけれど、この暑さだけは慣れない。特に、アスファルトやコンクリートの建物群に覆われた都会では、抜ける風があまりないのか余計暑い。熱を孕んだ空気が一定の空間に閉じ込められているようで、蒸し風呂のような外の空気に汗が雫となって首筋を伝った。
元の世界にいた時は、雨の匂いは嫌いじゃなかった。田園地帯の祖母の家の周辺で降る雨は特に好きだった。田舎特有の草木の匂いに混じった独特の匂い、虫の音と乳牛の鳴き声が雨に彩りを添えていた。
蛙が跳ねて、私も跳ねて、それを見て祖母が喜ぶ。

(辛気臭いな)

感傷に浸るなんてらしくない。後ろ向きな思考に自戒を込めて傘の柄を握る。
それもこれも、全部安室さんのせいだ。薄青の瞳の奥に彼の揺らぐ感情を見ると、いつもこちらまで揺れてしまう。
ストイックに、任務のために他者を欺き、国のために最適解を弾き出す、そんな降谷零像を完成させるためのピースとして、安室透やバーボンがいるのだと私は認識している。いくつの顔が彼に付けられたとしても、タマネギと同じで剥いでいけば芯には辿り着ける。いつも私が見ているのは、外側の皮部分でそこからは彼の姿は見えない。
だからこそ、中途半端に見せられる、降谷零、と思わしき顔は私を混乱させる。
それが演技なのか、本心なのか定かではなくても、唐突に見せられるその顔は私を動揺させて。
演技だったとしても確かに救われた心はあった。結果として良い方向に転がったこともあったのだけれど、基本的に私は、予測できない未来が嫌いだ。自分が動かずに予期せぬ結果が訪れるくらいなら、動いてある程度の予測を立てたい。

構えていれば、何が起きたってダメージはそこまでないのだから。

(結局は、自己保身のためなんだけどね)

御託を並べても結論はそんな陳腐な感情だから、笑えもしない。浅くため息を吐いて自嘲した。

雨は止む気配を見せない。通り雨だろうから長くは降り続かないと思ったけれど、電車を乗り継いで自宅へと戻るに連れて雨脚が強まった。スコールのように地面に打ち付ける雨粒がパンツの裾を濡らす。周りの音がかき消されるかと思うほどの滝雨で、さっさとお帰り願いたい気持ちで水たまりを蹴ると、ふと蹴った方向に視線が行った。

(……秋穂さん?)

通り沿いの一番端、住宅街の一角にある店舗、店長と秋穂さんの店。家路につけば自然と前を通ることになるのだけれど、今日店は休みのはずで、秋穂さんも透析の後は知人に会うと出かけていたはずなのに、店の前にその秋穂さんがいる。

正確には、秋穂さんと知らない男性が話していた。

二人を認識した刹那、私は咄嗟に身体を路地に滑り込ませた。早鐘を次第に打つ心臓を落ち着けて、コンクリートブロックの角から様子を伺う。
染み付いた他者を疑う性質は簡単には落ちそうにない。
知らない男性は、歳は三十前後だろうか。まだ若々しい顔立ちをしていて、スーツ姿に手には皮のビジネスバッグ。雨脚が引かない中、口元をひとつも緩ませずに秋穂さんに何かを伝えている。口元だけでは何を伝えているのか理解ができないけれど、聞いている秋穂さんの眉が顰められていて、愁眉を湛えていることだけは分かった。
明らかに、良い話をしている様子ではない。むしろ真逆。あの、温厚で人当たりの良い秋穂さんが、憂いを帯びた瞳で男性を見つめている。口を開いて何かを伝えようとした秋穂さんは、しかし俯いて口を噤む。
悄然としている秋穂さんがいる、というのは看過できない事態で。
隠れたものの、このまま何を聞くでもなく立ち去るという選択肢を選ぶのは、愚策だと判断した。

「秋穂さん」

アスファルトを蹴って、雨粒が裾に更にシミを広げるのを無視して彼女のところまで走る。当然、ギョッとした表情で秋穂さんがこちらを凝視した。「洸ちゃん?」と上擦った声に、彼女の目の動きを追う。

(……動揺…してる?)

私に向けられたと思ったら、あからさまに逸らされた視線。挙動不審、という言葉がぴったり似合うほどに、秋穂さんは動揺している様子だった。手が忙しなく傘の柄を摩り、含意のある視線が男性へと向けられ直ぐに私へと移る。明らかな狼狽に、不信感がむくりと湧きあがり、思わず秋穂さんに小首を傾げた。

「どうかされましたか?」
「い、いえ…なんでもないわ」
「本当ですか…?なんか、顔色悪いですけど」

一瞬だけ、男性を一瞥する。すぐに戻された視線が秋穂さんを伺った。「その…」と言葉を濁す秋穂さんの様子はやはり明らかにおかしくて、不信感に眉を僅かに顰めると、秋穂さんは私の顔色を察したのか、直ぐに表層を切り替えた。
「大丈夫よ」と柔和な笑みで答えると、男性に目配せをする。男性は、私に会釈をすると足早にその場から立ち去ってしまった。
もう少し探りたかったと言うのが本音だけれど、そこは秋穂さん。私の表情の変化を感じ取って早めに彼を帰したのだろう。店長と違い、人の心の機微に聡い人だ。私の不信感が濃くなったことに気付かないほど、秋穂さんは鈍くない。

それでも、一言、秋穂さんの言葉に引っかかりを覚えた。

(大丈夫…)

大丈夫、そう微笑んだ秋穂さんの相貌には憂いが滲んでいた。眉尻を下げて、しかし私に心配を掛けさせまいと口角はあげる。穏やかな笑みの裏に見える哀の色がその言葉を紡ぎ出したのかもしれない。
何でもない、ではなく、大丈夫。大丈夫と言う言葉は大抵、起きている事象に対して使われる。何かがあるから、大丈夫、なのだ。

(あの人、誰なんだろう)

パッと見はごく普通のサラリーマン。だけれど、合わさった瞬間の彼の視線は決して一民間人のそれとは思えなかった。
細められた瞳が私を見定め、それはまるで値踏みするようで。一挙手一投足までつぶさに観察される感覚が全身に染み渡った。あれだけの短い時間の邂逅にも関わらず、そんな感覚を覚えたのだ。

普通の一般人というよりむしろ、

(探る側…に近い)

彼らに近い存在のようで。しかし、そんな可能性は流石にないだろうと首を振る。
どちらにせよ、手元の覚束ない情報だけでは推論すら立てることができない。

今、自分に必要なのは情報だ。圧倒的に自分に不足しているものはそれに尽きる。巻き込まれている感覚はあっても、その事態の全容が分からないのはひとえに自分に降りてくる情報がないからだ。当然といえば当然だ、一民間人に情報が降りてくるほど、警察組織は甘くない。
それでも、この世界の内情を知っているのに、雛鳥よろしく情報を口を開けて待っているほど、私は可愛らしくもはない。だからこそ、結城と接触して一歩を踏み出したのだ。

店へと戻ろうとする秋穂さんに声を掛ける。呼び止められて、こちらを振り向いた秋穂さんに邪気のない笑みを浮かべた。
あの人は誰だ、では直球過ぎる。
どう攻める、どう崩す。浮かぶ問いはひどく冷徹だった。

「秋穂さん、あの……」

しかし、その後の言葉は音とならずに喉奥に飲み込まれる。

(……こんな時に)

微細なバイブの振動が手首を通して伝わる。紡ぎかけた言葉が止まったことで、秋穂さんは眉根を寄せて私を見つめた。「すみません」と一言断って、私は店の外へと出る。
人通りを避けるために狭い路地に入り、左右を確認した後、肌に伝わる振動を止めるべく、左手首の時計の出っ張りを押した。

「何の用」
《遅い》

不機嫌な声が漏れてきた時計に顔が歪んだのは仕方がない。最短ルート、最短時間で答えたのだ。褒められても文句を言われる筋合いはミリ単位もない。

「秋穂さんと話してる最中にかかってきて、目の前で時計に向かって喋れと?」

ため息つきの返しで遺憾の意を伝える。が、電話相手、結城、は何事もなかったかのように「……それでだな」会話を続けようとしたものだから、思わず突っ込んでしまった。

「ちょっと、少しくらい謝ってくれても」
《作業玉から有用な情報が上がってきた》

「え」と、たっぷり三秒間をおいて気の抜けた声が漏れる。

私の突っ込みを遮って伝えられた言葉に、湧いた僅かな憤りは一気に霧散した。


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