予測不能の事態、というのは人生で数える程度しか出くわしたことがない。だって、私の人生は先の見えるレールの上を歩くだけのものだったから。見えるレールの上を歩いていくだけなら子どもでも出来る。でも、それが一番確実で楽で、考えなくても良い方法だったのだ。
故に、今のこの状況にどう対処すればいいかなんて私に分かるわけがない。
「……出て、こない」
そう、出てこない。何って、目的の人物が、だ。金子建設の正門から二十メートルほど離れた場所、ちょうど公園があった為、正門が見える位置にあるベンチに座り待つこと三時間。退勤時間の一時間前から張り込んでいるんだけれど、相澤智則は姿を見せない。
結城からの情報だと、相澤は土日祝日休みの勤務で、退勤時間になるといの一番に退社する男だと言うことなのに、先程から出ていく社員の中に相澤の姿は見えない。予定外の仕事でも入っているのか。
もう日が暮れかけている。夏の空は陽の時間とはいえ、夜更けまでこうしておくわけにもいかない。
(こうなったら突撃かまそう)
臆病なのか豪胆なのかよく分からない精神状態になっている。結城なら止めるかもしれないと思ったけれど、躊躇は頭の片隅に追いやった。
こちらも時間があるわけじゃない。明後日には店に出勤しないといけないから、一日空いている今日か明日のうちに、相手の顔をじかに目に焼き付けておきたいのだ。
大股で正門まで歩き、ひょっこりと中の様子を伺った。
建物の電気は大方消えていて、事務所とみられる場所だけ灯りが点いている。社員の殆どが退勤したことがそこからは伺えて、私はますます首を捻った。
いの一番に帰る相澤は、工場の生産ラインの業務に携わっている。なら、もう既に帰っているのか。
けれども、私が張っていた中で相澤の姿は確認できなかった。
一体なんだ。そもそも今日が休みなのか。有給でもとったのか。しかし有給を取ってまでやりたい趣味が相澤にあるのか。
憶測だけが散らばって収集がつかない。うん、と頭を悩ませていると、ガラリと事務所の扉が開いた。
「………あ」
「……どちら様ですか?」
しまった、と冷や汗が一気に吹き出す。これが素人ということか。思わず硬直してしまった身体が私がこの作業に慣れていないことを証明していた。
事務所から出てきたのは、年若い事務員のような女性だ。私を視界に入れた瞬間、キョトンとした表情からその顔にみるみる不信感が広がって行く。眉間に寄せられた皺に、慌てて笑顔を取り繕った。
「あ、すみません……その、ちょっと人を探してて」
オブラートに包む言い方が分からずに、冷や汗を垂れ流しながらそう言えば、お姉さんは眉間の皺の数を増やした。いけない、若い肌に皺を増やしてはいけない。そんな軽口は即座に脳内から消去する。
「……失礼ですが、どちら様ですか」
ですよね。弊社でもそう聞く。というか、どの企業でも訪問者がいればそこを聞く。
当たり前のことだけれど、私の素性を言うわけにもいかない。どちら様、それに正直に応えたところで意味はないどころか門前払いだ。
視線を外して、逡巡する。けれど、時間をかけたところで状況は好転しないと判断して、私は事務員さんに視線を合わせた。
「えっと、探しているのは、相澤智則、という男性なんですけど」
質問には答えず、こちらから情報を出す。後頭部を掻いて、ヘラヘラと笑みを浮かべつつ、気弱な雰囲気を醸し出した。
すると、相澤智則、の名前を出した途端に事務員さんは僅かに目を見開いた。
「…相澤さんのお知り合いですか」
不審さを相変わらず前面に出しながらも、事務員さんがおずおずと私に問いかけてくる。先ほどまでの刺々しい声音ではなく、探りを入れるような口振りに、ひくりと反応した。
これは、何か答えてくれるかと微かに期待を寄せて「ええ、少し」と答えにならない答えを返す。すると、事務員さんは大きくため息を吐いた。
「連絡が付くなら、相澤さんに伝えてくれません?2日も無断欠勤するな、て」
「……無断欠勤?」
「金に困ってる、て言ってた割に無断欠勤ってなんなんですか。出退勤管理する身になって下さいよ、ほんと」
「金の無心までしてくるし」と、半ば愚痴になっている事務員さんを見つめながら、思わぬ情報に心が騒ついた。
無断欠勤。そして、連絡がつかない。
何故、と疑問が浮かんだけれど、追求の糸を伸ばす前に心内で深呼吸をして動揺を抑える。
まだだ。まだ、聞けることはある。
うんざりとした面持ちを隠さない事務員さんに、「大変ですね」と労わりの言葉をかけ、しかし頭はフル回転で連ねる《嘘》を構築する。
「あの、実は私、……身内のものなんですけど、」
嘘の上に嘘を重ねて、それでもそれが不自然ではないように表情を取り繕う。
「お金を貸せとせがまれていたんですけど、そう何度も頼まれていたら困ると突っぱねていたんです。でも、貸さないなら他を当たると言われて、そんなことされても困るので、直接会いにきた次第なんです」
すみません、と今度は申し訳なさそうに、肩身の狭い身内を演じれば事務員さんはひとつため息をついた。「貴女のせいではないですけど…」と行き場のない不満を直接はぶつけないけれど、燻らせていることをこちらに伺わせてくる。
嘘が真にカモフラージュされたところで、もう一つ突っ込んだ質問をした。
「あの、私も彼を探したいんですけど、どこにいるか心当たりはありませんか」
*
凡ゆる事象は繋がっている。点在するように見えるさまざまな事象は、実は線で繋がっている。その線が、見えるか見えないかの違いだけで、実際には、単発で起こる現象なんてありえない。物事には理由があり、理由なき事象は存在しない。
結城から伝えられた相澤智則の存在、その輪郭を明瞭にするために、私がついた嘘。全部絡まって、物語を帰結に導いてくれると信じて、また嘘をつく。
たったひとつの真実を知るために、その真実に繋がる糸を辿って、点を探す作業を繰り返す。
間隔の空いた街灯が夜の闇を儚く照らす。心許ない集光さは、しかしひと気のない街中では良くある光景だ。
光が降り注ぎ、影を作る。伸びていく影を見つめながら静かに歩いて、闇にそれが完全溶けてから、私は腕時計に視線をやった。カチリ、と出っ張りを押せば、液晶画面はすぐに切り替わり、人差し指で耳孔を塞げば、聞き馴染みのある声が聞こえて来た。
《収穫があったのか》
三コール以内に出る辺り、こちらのことを存外気にかけているんじゃないかと自惚れてしまいそうになるけれど、電話の先の仏頂面にそんな世迷い事は霧散した。
気を取り直して、問いかけに答える。
「相澤はここ二日出勤していない。休暇願いも出していない無断欠勤だけれど、相澤が今まで無断欠勤したことはなかったみたい」
《……唐突に、来なくなった。或いは、来ることができない理由が出来た、か》
「どちらかは今のところ分からないけど…」
私の答えに、電話相手の結城は、思案するように低く唸った。
「あともう一つ、同僚の証言で気になることがあった」
無言になった結城にさらなる情報を伝える。
「相澤が出入りしそうな場所、或いは接触しそうな人間がいないか調べたんだけど、最近、良く会う不動産会社の男がいるらしいの」
《不動産会社?》
「東都不動って会社の、高橋、て男と数ヶ月前から飲みに行く姿を目撃した同僚がいてね。金がない筈なのに、なんで飲みになんか出かけてるんだ、で社内でも少し噂されてたみたい」
頭の中の情報を言葉にしながら、もう一度咀嚼して脳内に展開する。
相澤智則は、競馬やパチンコなど賭け事が好きな独身の男。特定の関係の人間もおらず、飲みに足を運ぶことも殆どない。
そんな人間が、何故、不動産会社の社員と懇意にしていたのか。
単なる偶然か、それとも何か事件に繋がる糸が付いているのか。そこを調べるためには、今度は高橋という男を調べないといけない。そもそも、まだ相澤智則にも接触ができていない。
だから、私はもっと知る必要がある。
「結城、あのね」
《東都不動と高橋という男のことは調べておく》
「……うん、お願い」
私のお願いを最後に、プツリと通話が切れた。耳元から指を離して、緩慢に星一つ見えない曇天を仰ぐ。
自分が発した言葉がひどく滑稽に思えて、そのまま佇立する。
膨大な情報を持つ自分は、既存のキャラクターから見たらひどく暴力的だと思っていた。思考も感情も過去も記憶も知っている存在だなんて、そんなのただの化け物以外の何物でもない。
だから、私自身が何も知らない、わからない、そんな存在の結城は、私の中で新鮮でそしてありがたい。彼の前では、異質で暴力的な装置ではない、ただの人間としていることができる気がする。
「お願い、か」
そんな言葉を発する権利が、私にあるのかは分からない。騙して、嘘を塗りたくって、無感情に物事を切り取ってしまう人間が、他人に手を伸ばすだなんて。
自嘲に口元が歪む。
それでも、私はもう、進むことしかできないのだ。
気を取り直すように息を大きく吐いて、改めて帰路に着く。歓楽街とは違って、住宅街はひと気がなくがらんと冷たい心地に背筋が無意識に震える。いつかの尾行の事が頭の片隅に蘇って、キリリと胸が軋んだ。
嫌な記憶だ。さっさと帰ろう。
足早に家路へと向かう。心許ない街灯たちが自分を嘲笑っている心地がして、いよいよ精神状態がよろしくないと悟り始める。はやくはやく、と急かす心に足が追いつかなくて、暫く歩いた私は妙に早鐘を打つ心臓を落ち着けるためにその場に留まった。
荒い息を整えて、嫌な記憶に背を向けて、
「あの、すみません」
そんな、無防備極まりない状態だったからか、ここ最近、嫌という程体に慣れさせていたはずの警戒心が緩んでしまっていた。
唐突にかけられた声は、真後ろ、近い距離からのもので跳ねた心臓に息が一瞬詰まる。ひゅっと吸った息を止めて、ばくばくと早鐘を打つ鼓動に生唾を*み下す。
落ち着け、と脳が指令を出した。
呼吸を整えて、緩慢に後ろを振り返る。「なんですか」と、不審に眉を顰めた面持ちを取り繕った。
しかし、そんな私の表層は、視界に入った二人の人間を前にすると、みるみる崩れ去った。阿呆のように口を開けてしまい、呆けた相貌で彼らを見つめる。
(こんなところになんで)
冷静に考えれば、彼らがここにいる理由はなんとなく見当がつく。彼らもまた、あの事件を追っていることは結城から聞いていた。
でも、ここに来てからの初邂逅に、私の脳はただ目の前の光景を認識するだけの処理しかできなかった。
そこにいたのは、年若い男女の警察官。
あちらの世界では有名な、二人の警察官。
「ちょっと、お尋ねしたいことがあるんですけど」
「ご協力お願いできますか」
この邂逅には果たしてどのような意味があるのか。
捜査一課に所属する二人の刑事の登場に、ひくりと笑顔が震えた。
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