家庭裁判所からの呼び出しがかかった。就籍に際して行われている身元調査について、具体的に説明をしたいとのことだった。
犯罪歴的な意味でやましいことは何もないので大人しく呼び出しに応じると会議室のようなところに通された。正直、お世話になったことのない行政機関なのでかなり緊張していたけれど、入ってきた女性の職員さんがえらく美人さんだったから私の心は晴れやかになった、ちょろい。
お姉さん曰く、なんでも全国の行方不明者のリストの中に私がいないか警察にも照会を頼んでいるらしく、その関係で少々話を伺いたいとのこと。
警察も大変だな、なんて思いつつ合掌する。なにせ、偽の経歴だから行方不明者のリストの中にあるわけもないし、どこの県の空港にも港にも発見されない。調べるだけ無駄なのに、と思ったことはもちろん顔にも出さないし声にも出さない。あくまで善良な一般人、記憶をなくした可哀想な女性、という立場をとらないといけない。
ちょっと待ってて下さいね、と女性職員さんは出て行ってしまった。え、私一人?と驚いていたところで、職員さんと入れ替わりで人が入って来た。ああ、警察の人か。そう思った矢先、私の体は硬直した。
(いや、ほんと勘弁して)
前回と前々回は、最初に声を掛けられたから心構えが多少はできたけれど、視覚から急に来られると取り繕う暇がない。開いた瞳孔は動揺の表れ、平静を取り繕わないといけないのに嫌な汗が背を流れた。
「初めまして、貴女の調査を担当する風見と申します」
こういうのは地域課とかが担当してくれるんじゃないのか、と浮かんだ疑問を振り払う。「よろしくお願いします」とどうにか笑顔を絞り出して頭を下げた。不審な目を向けてしまうと逆に怪しまれる。行方不明者のリストの照会なんて公安の刑事が担当するものじゃないだろうけど、ここに彼がいる事実が、自分がどのような目で見られているかの表れと言って良かった。
疑われている。当然かもしれないけれど、相当疑われている。どこぞやの過激派組織の一味とでも思われているんだろうか。公安の仕事は公共の秩序を守ることで事件を未然に防ぐこと。確かに、身元不明の記憶喪失人間なんて怪しいことこの上ないだろうけど、それにしても上司の命令で忙しいだろう彼が目の前に現れるなんて想像もしていなかった。
眼鏡をくいっと上げて彼、風見裕也さんは私をまっすぐに見据えると、手にしていたファイルに目を落とした。
「まず、貴女が証言している内容を確認します。出身はおそらく地方の都市で、育ったのも東京近辺ではない。気付いたら見知らぬ土地にいて、調べていくうちに此処が東京だとわかった。身元を証明する物を何も所持していないが、就労意欲はあるため、就籍を求めている。間違いありませんね?」
証言に間違いはありませんが、内容はただの法螺話ですなんて口が裂けても言えない。取り敢えず、不安げにひとつ頷いておいた。
すると、風見さんは落としていた視線をすっと上げ、ぴたりと私と視線を合わした。
「では、刀海さん。まず、貴女は東京のどこで、いつ、この状態を把握したんですか?」
細められた目が私を捉える。瞬間、ぞくりと背筋が震えた。
そこやっぱりついて来るか。映画や原作で降谷さんにあれだけ雑に扱われていても、この人は公安部の刑事。基本的に公安部は優秀な人の集まりだ。鋭い。
風見さんの質問に、私は逡巡した。
馬鹿正直に、米花町、一か月前、と言えば防犯カメラの映像をまず確認される。都会には無数の防犯カメラがあると聞くからそれを調べて私がそこまできた痕跡を辿ろうとするだろう。
正直、それでも良いかと思った。辿ろうとしても痕跡はないのだから問題はないと思うけど、不安要素がひとつだけあった。
(顔を見られてるから、なぁ)
その時期に一度だけ出会った彼、降谷零。
風見さんがここに来なければ、一か月前に米花町でと答えていたかもしれない。でも、彼がきたことによりそれを正直に話すことは憚られた。
深く探られたら間違いなくボロが出る。確実に答えても大丈夫な情報だけ出して、あとは分からないで通すためには米花町という単語は正直出したくない。風見さんから降谷さんに情報がいかないとは限らない。というか、ハッキリ言って、この風見さんにも会いたくはなかった。
なるべく自分の痕跡を隠す。
ならば、いつから記憶が戻ったことにするか。
「分かったのは、新宿です」
私が選択したのは、一週間ほど根城としていたホテル近辺だった。
「それはいつのことですか」
「三週間ほど前です。キャリーケースを持って新宿にいましたが、どうして自分がそこにいたのかもわからなくて。ビルがたくさんあったので訳も分からず歩いていたら、道路標識などでここが東京だと分かったんです所持品の中にも自分の所在を示すものもなかったので途方にくれて。幸いお金は持っていたので、近くのネットカフェに泊まったんです」
私がホテルをチェックアウトしてからの数日間はネットカフェに出入りしていた期間だ。その期間、私は人目につく通りを歩き、駅近くのネットカフェに泊まっていた。駅周辺の監視カメラには私の姿がよく映っているだろう。うろちょろしながら周りを不安げに見渡している私の姿が。
「なるほど。そしてその後、所持金が底をつくことを危惧して住み込みのアルバイトを探したと」
訝しげな視線が突き刺さって痛い。それでも、視線を彼と合わさずに眉尻を下げて頷いた。
あくまで、不安に駆られている一般人になりきらないと。
「しかし、何故貴女は記憶がないと分かった時点で警察に来なかったんですか」
至極真っ当な質問をされた。そりゃそうだと内心頷く。普通の記憶喪失になった人間ならおそらくそうするだろう。
風見さんの質問に私は下を向いてくぐもった声で答えた。
「おっしゃる通りなんですけど、その時はお金がなくなることへの不安が大きくて。とにかくどこかで何かしないと、て不安に駆られてしまったんです。ずっとネットカフェにいるのも不安でしたし」
「では、住み込みのアルバイトを始めた時点で警察に行っても良かったのでは?」
「すみません。就籍の申し立ての段階で私みたいな人間の身元の確認はして下さると役所の方に教えて頂いたので、わざわざ行かなくても良いものかと思って」
「……なるほど」
いや、なるほどじゃないと思う。こんな言い訳するのは密入国者か悪いことをしようとしている人間じゃないかと私でも思う。けど、あいにくと犯罪歴どころか生存していた記録さえ無いのだから、まあ何を言っても虚偽の申請で監獄行きはないだろう。
生きていた痕跡がない人間、だなんてまるで透明人間だなぁ、なんてぼんやりと考えていたら、風見さんはわざとらしくため息をついた。
「……仮に、産まれた時に何らかの理由で戸籍が作られず育った人間は、まず学校に行けません。しかし貴女には一定の知識と教養がある。よって、どこかで教育は施されていたのでしょう」
淡々と情報を連ねる風見さんに申し訳なくなるが、こくんと小さく頷いた。
「行方不明不明者リストを照会しますが、貴女のその名前は本名ですよね?」
風見さんの問いかけに私は彼の目を見る。
「これだけは、覚えていたので間違いないです」
「……そうですか」
同姓同名の人間がいる可能性は大いにある。私の偽の経歴に合致するわけはないけれど。
でも、これだけは偽物じゃない。偽名なんて作りたくなかった。偽名まで作ったら、本当に私がいた事実すら何処かに消えてしまいそうで。
「……不安ですか」
「え」
「暗い顔をされていますから」
唐突に風見さんが私に声をかけた。俯いていた顔をあげたら、少しだけ、ほんの少しだけこちらを案じるような相貌が向けられていて、思わず目を瞬かせる。
意外な彼の相貌に僅かに気持ちが緩んだ。
「不安ですけど、でも仕方ありませんから」
ぽつりと漏れた言葉は本心で、するすると心情が吐露されていく。
「思い出せば恩の字と思って、生きていくしかないですから」
諦念からか、乾いた笑いが溢れる。
どこにもいない私は、ここから存在を確定させるしかできなくて。その不安定な立ち位置に胸を鷲掴みにされたような絶望が押し寄せるけど、引けば断崖絶壁の場所に立っている今、前に進むしかないのだ。
なんの因果か分からないけれど放り込まれた世界で、誰も知らない私を、私自身が作り上げて生きていくしかない。
「だから、よろしくお願いしますね」
震えた声に、風見さんは気難しい顔で「はい」と頷いた。
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