記憶の中の幸せに縋っても何も得ることはできないのに、それでも、記憶の中の光景を忘れ去ることはできない。忘却の彼方に沈めてしまえば、私はきっと私ではなくなる。優しくて、暖かくて、微睡みに飲まれてしまいそうな大切な人との思い出。
それでも、だんだんその記憶が霞んで行ってしまうような感覚に怯えるのは、その世界と私が隔絶されていて、且つ、この世界に、死の匂いが充満しているからかもしれない。日常に孕む事件性が今までの私の日常とは乖離しすぎていて、感覚が、麻痺する。
太陽光が容赦なく降り注ぎ、体力は容赦なく奪われる。暑さから抜け出してみろと、じりじりと照りつける日差しが私を駆り立てる。言われなくても、と誰に抗うでもない反骨心が芽生えた。
結城に指定された場所は、住宅が近くに立ち並ぶ地区だった。といっても指定された場所は、鉄筋コンクリートの3階建ての雑居ビル。周囲には同じような建物が放列していて、ひと気はあまりない。その区画だけがらんと冷たい印象を受けるのは、寂れた地元のシャッター街を彷彿させたからかもしれない。隠れ蓑には打ってつけの場所で、さらに言えば私としても、人が少ないことは僥倖には違いなかった。
俺が行くまで待ってろ、という結城の言葉が頭の片隅でがんがん反芻される。私の情動を押し殺すような声音がリフレインして、それでも冷めた瞳に映るのは、聳立する無機質な建造物だけで。色の載った声音は、胸の内にしまい込んだ。
大丈夫だ。危険への察知能力はここ最近で飛躍的に向上した。逃げる術も、振り切る術も友人の教授の賜物である程度の心得があるくらいには自信がある。
大丈夫、大丈夫。
逸る気持ちを抑えて、踏み出した足は雑居ビルへと吸い込まれていった。
ガラス張りの扉が重々しく開く、立てつけが悪いのかギイギイと嫌な音が長い廊下に響いて思わず身を縮こませた。丸めた背中でぎょろりと辺りに警戒線を張る。四隅に視線を走らせたけれど、監視カメラの類はひとまず見当たらなくて、僅かだけれども胸を撫で下ろした。雑居ビルにも関わらずひと気がないということは、このビルを借りているのは架空のwebデザイン会社だけということなんだろうか。その証拠に、窓枠や階段の手すりは埃かぶっていて、人の手入れがされていないことを伺わせる。とてもじゃないけれど、どこかの会社が入っている雰囲気ではなかった。
ところどころ床のタイルが剥げていて、パキリと音を立てる度に心臓が跳ね上がる。呼吸を落ち着かせて、でも警戒は怠らずに緩慢な歩みを進めた。
ビルの構造はシンプルなものだった。入り口玄関はひとつ、長い廊下の途中途中に、まるで学校のように部屋が用意されている。部屋ごとに企業が入る想定だったのだろうか、おかげでスムーズに建物内を探ることができた。
1階の部屋を順に調べながら進んでいく。廊下の突き当たりに階段があり、ビルの上階へと通じるものはそれだけだと判断すると、上方を確認しながら登っていった。ビルは両隣にある別のビルで挟まれているため、太陽光はスズメの涙程度しか入ってこない。薄暗く、ホラー映画に出てきそうな雰囲気が漂う内部に今更ながら背筋がぶるりと震えた。別の意味でも怖い場所だ。
階段を上り終えて二階へと辿りつく。息を顰めて、長い廊下を角からちらりと見遣る。
ひと気はない。ところどころ開け放たれた窓と、ひとつ気になったのは、こちらも開けっ放しの扉。ひとつだけ、扉があいている部屋があった。階段のあるこの突き当りから三部屋ほど進んだ場所。ぞわりと背筋が粟立ったけれど、耳をそばだてても何も聞こえないし、何も視界には映らない。生身の人間も、幽霊の類もいないようだった。
(大丈夫)
誰もいないことを確認して、私はまた一歩、このフロアをローリングするべく足を踏み出した。焦慮が突き動かす行動に、ブレーキを掛けるものはない。正常に働かなければいけない脳は、事の成り行きをただ見守っているだけだ。
一部屋、また一部屋、確認を重ねて近づいていく。次第に速くなる鼓動を抑えるように作った拳を胸のあたりにあてた。やけに耳に着く自分の足音と息遣いがうるさくて、私の視界が狭まっていることを如実に伝えているのに、それは正常だと錯覚する。自分自身に余裕のない人間の視界は平時のそれより大幅に狭まってしまうなんて、よく聞く話だというのに─
私は、失念していた。
「……え」
おかしい、と気づくべきだった。
私はある程度の予測を立ててこの場に来た。結城からの情報を基に推測されるのは、此処に相澤か或いは事件に関わりのある何者かがいる、ということ。それを探るというのは危険であるにもかかわらず、私をここまで突き動かしたのは、目の前に転がってきたまたとない情報に焦慮が重なったためだ。焦っていた、とにかく何か情報が欲しいという、焦りだけが私の中に広がっていた。
であるならば、いやであるからこそ、気づかなかったのは浅はかとしか言いようがなかった。それに気づいた時には、後戻りなんてできなくなっていた。
どうして、此処には人の気配がないのか。
ひと気がない、というのは当然だ。架空の会社が登録されているのだから、日中から人の出入りがあるはずはなく、ビル内も殺風景でがらんとしているのはおかしなことではない。
しかし、まったく、ひと気がないというのはわけが違う。
此処には、人が少なからず出入りしている筈だ。現に、私は事務所が入っている筈のフロアに赴き、一カ所だけ空いている扉を視認した。廊下の開け放たれている窓は、エアコンも見当たらないビル内の風通しをよくするためのものということは推察できた。
しかし、此処がセーフハウスで、強奪したものを隠し、集まるための場所だとしたら、仮にこの時間に人がいないにしても、そもそも鍵なんて開いているわけがないし、窓だって空いているわけがない。
何者かが、或いは捜査員が此処に入って中を探るとも限らない。盗みに入る者なら、用心を重ねることは心得ている筈だというのに、此処はあまりにも無防備だった。ここが東都不動の所有物件で、入っているのは架空の企業で、ビルを管理できるのが犯人だけだとしたら、この状況そのものが不可解だったのだ。
状況を俯瞰すれば、違和感が散りばめられた現状に気づくことができたはずなのに、私は踏み入れてしまった。慢心した己に気が付かず、それに気が付いたのは、一カ所だけ空いていた扉から部屋の中を覗いた瞬間だった。
──嘘。
死の気配が薄っすらと日常に広がっていた自覚はあった。自分が事件に不本意ながら巻き込まれていると知ってしまった時から、追い縋る非日常を自覚はしていた。
いくら自分が生活している空間は微睡に包まれていても、結局この世界は人が死んでしまう世界だ。アニメや漫画で当たり前のように死が目の前にあっても、それは物語のエッセンスとして取り扱われて、一話ごとに消えて行ってしまう。死は日常で、それは隣に転がる石ころのようにありふれている。
それでも、私の世界でそれは非日常で、その非日常を目の当たりにしたことのない私にとって、目の前の光景は自我を保てなくなる程度には、凄惨だった。
「……ど、して…?」
辛うじて零れたのは疑問の言葉。それでも、そこに込められた思いは単純なそれではない。疑問、不安、そして、恐怖。
視界いっぱいに広がるのは、日常からかけ離れた非日常だった。
ひとつの死体には別の死体が折り重なっていた。無造作に床に転がったそれらの他にも、ソファに仰向けになった大柄な男の死体、上半身だけが椅子に寄りかかった死体。死体があるということは、広がっているのは赤色の世界で、変色して黒みがかっているそれらは部屋中に散らばっていた。眉間に空いた赤、首元から大量に零れている赤、血走った眼が室内に起きた惨状を饒舌に語っていて、思い出したように鼻に強烈な腐臭なのか、異臭を感じて、脳が悲鳴を上げた。思わず口元を抑えて、数歩その場から後退する。おぼつかない足が壁に当たって、後方に下がれないことを告げた。
──なに、これ。
何がどうなっているのか、分からなかった。ただ、分からないなりに理解しようと脳はフル回転していた。鼻がもげそうになる異臭に涙目になりながら、目の前の現状を見つめる。脳は正常さを取り戻したいのか、目の前の光景を日常と定義しようとしているけれど、こんなものが日常であってたまるかと叫びたくなった。
「……ッ、」
爪が食い込むほど拳を握りしめて、放心状態になっていた自分を叱咤する。崩壊した自我を復元して、目の前の現実を直視しようと今一度扉に近づこうとしたけれど、縫い付けられたように両足は動かなかった。恐怖が支配する身体は、その場から一ミリでも動いてやるものか、という強い意志が働いているかのようで、ただただ私は立ち尽くした。
なんで、とかそんなことを考える余裕が徐々に戻るどころか失われて、脳裏に浮かんだのは、待っていろ、と神妙に警告してくれた友人の相貌だった。
恐怖に、身体が震える。しかし、「結城」と呟いた刹那、けたたましくフロアに鳴り響いた電子音に、縫い付けられていたはずの身体は、びくん、と大きく反応した。
(いったい、なんなの…!)
ジリリリリ、とそれは黒電話特有の電子音。音の発信源はどこかと考えるまでもなく、その音が一等籠っている部屋は目の前の惨劇場所しかなくて。無機質に響くその音が恐怖を駆り立てるけれど、この場から逃げ出す勇気すらなく、おそるおそる足を進める。自己主張するスマートフォンはどこかと内部をのぞき込めば、またあの異臭が鼻をついて思わず嘔吐いてしまう。涙を堪えながら揺れる瞳が捉えたのは、上半身だけが椅子に寄りかかった男のそばにある、スマートフォンだった。
一体なんだ。誰からの着信だ。
鳴り響く音が不快で、でもそれを止めれば良いのか放っておいた方が良いのか判別がつかず逡巡しているうちに、ぱたりと音は止んだ。元の静寂がまたフロアに戻ってきて、不気味さが一層際立つ。佇立する私に、現実が重くのしかかった。
どうして、スマートフォンが鳴ったのか。
そもそも、彼らはいったい何者なのか。本当に、あの強盗事件に関わりのあるメンバーなのか。
なら、なぜ、こんなことになっているのか。
現状を説明する要素は何一つとしてここに落ちていない。落ちているのは無機質な死という現実だけで、改めて肌に感じる異質さに臓腑が締め上げられる感触がした。
その時だった。
カタン、と響いた音に心臓が大きく跳ねた。茫然自失になっていた、目の前の現実に囚われていた、だから気づかなかった。静寂が常だと思っていたのか、静寂であるべきと固執していたのか分からないけれど、響いた音は確かに、鼓膜を揺らした。
音のした方角は、私の右手、つまりは階段方面だ。廊下の突き当たりに一つしかないこのビルの階段。そちらから音がしたという事実は、私を恐怖のどん底へ突き落すには十分だった。
音に気付いて、その方角に気づいた刹那、
視界の右端に、人影が見えた。
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