夏場によく番組で組まれる、ホラー特集。心霊スポットから夜の学校、いわくつきの空き家など、よくもまあこれだけ集める物だと、ホラーのバーゲンセールに人は食いつく。ありきたりでも、それが面白いのか。毎年、代わり映えのしないネタに、ある者は本気で怖がり、ある者はネタ程度に流し見して、ある者は突っ込みを交えながら楽しむ。
ただ、常々私はそれらを見るたびに思っていた。

──生身の人間の方がよっぽど怖いじゃん。

実体のない有象無象より、陰湿なストーカーや猟奇的な殺人者、倫理観の欠如した人間たちの方が幽霊よりタチが悪い。なんたって、相手は人間だ。実害しかない。狙われたら最後、どのようなやり方で被害を受けるか、その結果は溢れる犯罪被害の事例が証明している。幽霊被害なんかよりよっぽど悪質かつ残虐だ。
世の中、一番怖いのは人間なんだよ、と酒を片手にいそいそと部屋の鍵とチェーンを確認したことなんて多々ある。

であるからこそ、視界の端に映った人影は、寂れたビル内で何より私を震撼させた。

(……誰?)

ゆらりと向けた瞳、視線の先に捉えたのは、キャップを目深に被り、Tシャツとジーンズを履いた、おそらく男。上背がある上に、胸も厚い。
その姿を視認して、女である可能性を排除した私は、体に走らせた緊張に更に縛られた。脳裏にこびりついた先ほどの光景が、自分に置き換わる。

血だまり、死、突き刺さったナイフ、眉間に空いた穴、赤赤赤。

描いた未来に、呼吸が、一瞬で止まった。

(どう、する…)

袋小路のこの場所で、いったいどうしようというのか。廊下の突き当たりまで走って窓から大声を出したところで、追い付かれてしまったら終わりだ。人がいようがいまいが、助けを求めるという行為そのものが危険を倍増させる。それならいっそのこと、窓から飛び降りるか。人がいれば助けてもらえる、でも、いなければ、着地の衝撃で満足に動けない私を男が追ってきてビルに引きずり込まれるかもしれない。
どうする、どうする。こうしている間にも男が動くかもしれない。男が動いてからだと遅い。あっという間に、自分の命は踏み潰される。動かないと、と焦慮に駆られて、でも何が正解か分からない。そもそも、男はいったい誰なのか、それすら判然としない。
思考回路が迷走を続ける。煩い心臓の鼓動だけが耳朶を打つなか、薄っすらと、鼓膜に別の音が聞こえてきた。

(……サイレン?)

日常生活で時折聞く音。徐々に近づいてくるその音は、その車が一台ではないことを伝えていた。一台か、二台か。とにもかくにも、複数台の音を認識して、窓辺へと視線を走らせようとした刹那、男が動いた。
あ、と声を上げる間も無く、こちらを一瞥した男と一瞬だけ視線がかち合った私は、慄然とその場に固まった。

視線が絡まった、途端に、
ぞわり、と背筋が粟立つ。

こちらに向けられた視線は、私を射殺さんばかりの殺意が込められていた。公安の人達がよくやるあの冷たく奥底まで暗闇が広がった目じゃない。
明確な、敵意がそこにはあった。

臓腑が締め上げられる感触が瞬時に全身に伝わったと思ったのも束の間、男はすぐに突き当たりから姿を消した。カンカン、と慌ただしく人が走る音が遠のいていく。その音を聞きながら、わたしは全身の筋肉が弛緩していく感覚を覚えた。
その邂逅は、一刹那だったか、数分だったか、もはや分からない。時間間隔が狂っていて、自分自身の思考も半狂乱になっているのかと自嘲したくなる。ただ、男と対峙したあの時間に、私は生命の危機を人生で初めて感じた。明確な殺意を全身に浴びたのは、初めてだった。

サイレンの音は私のいるビルの前まで来て、止まったと思えば複数の足音と喧騒が鼓膜を揺らす。そこでようやく、私の意識は再度目の前の部屋へと向けられた。視界いっぱいに広がる酸鼻を極める現実が脳をぐらりと揺らして、正常な反応を身体が見せる。へたりと座り込んだのは、両脚の力が入らなかったからだ。
ようやっと、私が普通の人間らしい反応を見せることができたのは、慌ただしい靴音と飛び交う声が耳に入ったからか。安堵か諦念か分からない感情が身体の中に一気に広がって、でも目の前の現実に心臓は冷えたままだ。
どうして、ともう一度呟いた言葉に込めた思いは何もなくて、視界の端に次々と映った人影を認識したが最後、私の視界はブラックアウトした。





《本日、杯戸町の使われていないビルの一室で男性四人の遺体が発見されました。警視庁によりますと、このうちの一人は、町内の建設会社に務める社員ということです》

液晶画面の中で、神妙な顔つきの女性キャスターが原稿を読み上げている。ワイプの中に見えるのは、寂れた三回建てのビルに、対比するように目に毒な蛍光色の規制線。

《遺体は午前十時頃、現場を通りがかった女性が、付近で異臭がしていたためビル内に入ったところで発見しました。死後数日が経過していると見られています。遺体には、刃物で刺されたような傷や、銃で撃たれたような痕があり、警察では、事件の背景を──》

「失礼します」と声が聞こえた瞬間、咄嗟にリモコンボタンを押す。プツリと音がして、画面は黒に覆われた。同時に、がらりと扉がスライドして入って来たのは年若い二人の刑事と、外であったのだろうか、心配しそうな面差しをしている蘭ちゃんと、コナン君。随分な大所帯だな、と薄ぼんやりと思いながら、「どうぞ」と四人を部屋に招き入れた。

杯戸中央病院で私が意識を取り戻したのは、昼過ぎのことだった。ぼやけていた視界が次第に明瞭になり、白天井が鮮明に視認できたことで左腕に違和感を感じ、視線を移したら点滴針がそこにあった。
何が起こったのか分からず、目を白黒させていた私に、部屋に来た医者は軽い貧血だと告げた。強い精神的なショックと日頃の疲れなど、複合的な原因が重なって意識が失われたのだと。幸い、こうして目が覚めているので、ひとまず点滴を投与して今日中にでも退院できるとのことだった。健康保険証がない身なので治療費は全額負担。しかも、それを店長が自分が支払うと申し出てしまったらしく、もう一度意識が飛びかけた。一日だけでも入院費って馬鹿にならない。出世払いというより、バイト代から引いといてもらうよう、あとで店長に言っておこう、そう心に誓った。

目が覚めたことで、病院側から警察へ連絡が行き、まず初めにやって来たのは白鳥刑事と千葉刑事だった。第一発見者が私だったので、初動の聞き取りを行いたい、とのことだったけれど、彼らの問いに私は逡巡した。

どうして、あの場所にいたか。

馬鹿正直に答えるわけにもいかず、苦肉の策として口から出た虚言は、異臭がした、というものだった。もちろん、そんな臭いを嗅ぎつけるほどあの時の私の嗅覚は働いてはいなかったけれど、それくらいしか思いつく言い訳はなかった。公安捜査員からの情報提供を受けて、事件を調べようとしました、なんて言ったら結城の立場が危うくなる。一般人への情報漏洩は職務規定違反に確実になるだろう。あれ、でも高木刑事はよくやっている気がする。まあ、いいか。
訝しまれるかと危惧したけれど、現場で意識を失ったのが奏功したのか、二人はさほど深くは聞いて来なかった。あの凄惨な殺人現場のことは何一つ知らないのは事実だし、第一発見者というだけで、あの事件に関しては全く心当たりがない。嘘と本当が上手く綯い交ぜになっているからこそ、怪しまれずに済んだのかもしれない。
私の話の通り、マスメディアはこうして事件の概要を報道している。都内で起きた、複数の被害者が出た殺人事件。被害者数からしたらニュースの価値として大きいかもしれないけれど、警察が仕入れている情報が少ない分、メディアの反応は思ったよりも小規模だ。あの強盗事件との関わりが世間に明るみになったら、ワイドショーのコメンテーター達の話のタネくらいにはなるかもしれないけれど、今のところはそんな兆候も見られなかった。

時刻は夕方、意識が戻った私に話を聞きに来た二人の刑事が去ってから一時間が経っていた。
「大丈夫ですか?」と、案ずる瞳を向けてくる佐藤刑事に曖昧に微笑む。大丈夫、といえば大丈夫だけれど、精神的に大丈夫かは定かではない。私自身も分からないのだ。

初めて、人の死を見た。

絶対的な孤独と暗闇がそこにはあって、命が無残に消えている事実に戦慄した身体は恐れに支配された。息が止まって、世界が死に包まれたあの時、まるで私自身までもが死者となってしまったような冷たい感覚が全身に広がって、臓腑が凍りついた。真の恐怖を感じると、人間生きた心地が本当にしないのだと骨身に染みて理解した。
重ねて到来した恐怖は、更に私を深い死の沼底に引きずり下ろす。
私に明確な殺意を向けた男が誰なのかは分かっていない。重要参考人として一課で調べてもらえるとのことだったけれど、周囲に防犯カメラがない地域だったため、特定は困難かもしれない、とのことだった。少し不安ではあるけれど、仕方がない。

「心の整理がまだつかないかもしれませんが、しばらくはお話を伺うことになると思います。立ち去った男の目撃証言もないので、刀海さんの証言だけが頼りな現状で…」
「そうですか…」

重苦しい空気が室内を流れる。腹の内に鉛が乗ったように気分がズンと重くなって、視線が下がった。

「洸さんは、どうしてあそこにいたの」
「え」
「あのビルの中に入ったのは、変な匂いがしたからだよね。なら、なんであの周辺にいたの?」

下がった視線はベッド脇から私を見上げる丸い双眸とかち合った。小学生とは思えない鋭い視線に、眉尻を下げて対抗する。

「……少しね、似た景色を見たことがあったの」

目を細めて窓の外を見遣る。記憶の中にある、似たような風景を脳裏に浮かべて、まるでそこがあの場所のように錯覚して言葉を紡ぐ。

「あの近くにレトロな喫茶店あるでしょ?ネットで外観見た時に懐かしいな、て思ってね。行くついでに周辺を歩いていたの」
「ふーん、随分と色んなところに行ってるんだね」
「ちょっと、コナン君!」
「分からないことだらけだからね。知りたいと思うのは、普通じゃないかな」

淀みなく流れる粗い嘘。レトロな喫茶店は行く途中にたまたま見つけたところだった。目的地に行く途中、道の標識からシンボルマークとなる建物はある程度、覚えた。視認したものはなるべく多く記憶に留めておけとのお達しは、功を奏している。
こんな嘘、コナン君にはバレているだろう。諌めた蘭ちゃんを見ることなく、じっと私を見つめる彼の瞳は揺らがない。真っ直ぐな視線を受けて、私は曖昧に笑うだけだ。

嘘が彼にバレていることなんて、とっくの昔に分かっている。聡明な彼のことだ。記憶喪失なんてありふれた設定を信用なんてしていないだろうし、なんなら安室さんだって信じていないだろう。というか何人がこの私の嘘を信じ切っているだろう。目の前でコナン君を諌めて「すみません、洸さん」と眉尻を下げる蘭ちゃんや、私に憐憫の眼差しを向ける佐藤刑事と高木刑事、秋穂さんや梓さん、少年探偵団のみんな、信じてくれているのはここくらいか。あとは、嘘か真か決めかねている人達か、全く一片たりとも信じていない人達。私を取り巻く人達の私への認識はさまざまで、でも私自身はそこは別段どうだっていいのだ。
嘘、と分かっていても、それを証明する証拠がない限り嘘は真となる。私が私の存在を否定する限りこの嘘は暴かれることはない。
あの世界で生きていた刀海洸の存在を証明できるものは何一つとしてないなら、私の存在だって虚構なのだ。

「洸さん、本当に無理しないで下さいね」

ふと、蘭ちゃんの両手が私の左手を包み込む。その暖かさが冷えた感情に支配されかけた私を現実に引き戻してくれた。「大丈夫だよ」と微笑顔で答える私に、それでも蘭ちゃんは不安げに私を見つめる。安心させられる要素なんて確かに何ひとつとしてないから仕方ないか。

「大丈夫だから」

死を間近で感じて、命の危険を肌で感じて、それでも大丈夫、てなんなんだろうと別の私が首を傾げる。そんな私を背にして、私はただ、笑った。


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