白一色でコーティングされた室内は、まるで天国のようだった。純白のカーテンレースにふわりとしたベッド、サイドテーブルまでもが白で覆われた室内は静謐な雰囲気を漂わせていた。唯一色味を帯びているといえば、白亜の陶器の花瓶に挿さった一輪の花だけで、淡いピンクが醸し出す穏やかな色は部屋の主の心を表しているようだった。
室内に一歩踏み入れるだけでも、まるで聖域を汚してしまうかのような錯覚に陥るほど、神秘的な空間に及び腰になる私を、部屋の主は穏やかな笑みを湛えて招き入れた。おいで、と私を呼ぶ声は凛としかし嫋やかで、一歩一歩おそるおそる足を踏みだす。小刻みに聞こえる自分の呼吸音が煩わしいほどに、その空間は森閑さを帯びていた。
足はベッドの淵まで来て、私の目下には部屋の主が鎮座している。穏やかな様相で主は、彼女は私にただ微笑んだ。刻まれた皺は、目尻、頬、口元に歳相応の痕を残していて、その口元の緩みに、なぜだろう、私はひどく泣きそうになった。ツン、と目の奥が痛んで、薄い膜を張った瞳から見る彼女の相貌が揺れる。なぜ、なぜ私はこんなにも泣きそうなのか。混乱する頭を他所に、大粒の雫が頬を濡らして床に落ちていく。
ひたすら落涙する私を彼女はやはり穏やかな笑みを浮かべて見つめていた。瞳から雨粒のようにただ落ちるそれを見つめて、彼女は、祖母は、私に微笑んでそして──


《洸ちゃん》



「……また始まった」

寝覚めの悪さに辟易して天を仰ぐ。なんだか前にもこんなことがあった。起きたら泣いてた。よくあること。前と違うのは、夢の内容は鮮明に覚えていること。
一週間前に病院とさようならをしてから、毎晩見るようになった夢。白で覆われた病室、そこに添えられた一輪の花、その花のように嫋やかな祖母の相貌。細かな皺まで覚えているなんて、まあ丁寧なことだ。覚醒した今、それを思い出そうとしても記憶がどこかあやふやだった。
何かの暗示なのか、定かではない夢。所詮は夢だからとさほど気にしないようにはしているのだけれど、連日こればかりだと少々気にはなる。夢占いなるものをネット検索したけれど、ピンとくるものはなかった。
懐古の念に囚われているのかと今の生活を振り返ってみたけれど、強くあの世界を羨望する出来事もなかった。確かに、事件に巻き込まれて病院に一時入院したけれど、そのことで強く、もう帰りたいと感じてはいなかったはずだ。深層心理ではそう思っていたのなら分からないけれど、少なくとも表層の私の意識は全くそうは思っていない。
うん、と首を捻り、けれど空を掴むように答えなんて出ない。仕方がないので、取り敢えず起床しよう。

寝巻きを着替えて、とりあえず化粧をして、歯磨きをして身支度を整える。特に外出の予定はなかったけれど、取り敢えず、外界に出られるような様相を整えた矢先、インターホンが鳴った。なんだ、誰だ今日は土曜日だぞ。お休みの人も多いんだぞ、と扉を開ければ、ここ最近我が家へと足繁く通う二人の刑事と、その下に白眉の小学生がいた。「お二人とも今日もすみません」と愛想笑いと会釈をして、少年にも同じ笑みを向けると胡散臭いそれを返された、ひどい。
あれから、二人の刑事、佐藤刑事と高木刑事が我が家に顔を覗かせるようになった。二人のセットは世界観を知る立場からしたら微笑ましくなる。身を案じていると言う純粋な好意と、不審な動きをしていないかと言う監視の二重の意味合いは有ると推測しているけれど、人の良い二人が訪れることに不快感は感じていない。私が見てしまった不審人物を警戒してか、私服警官も立哨しているらしく、時折、窓を通して私の部屋を視認できるところにその姿が確認できた。
事件から一週間、未だ犯人の尻尾さえも掴めず、事件の端緒を開くことは困難を極めていた。朝から夜まで捜査を進展させようと駆けずり回っている刑事を嘲笑うかのように、犯人像を結ぶ点は見えてこない。

「ところで、どうしてコナン君が?」

二人の刑事とセットで来るには些か違和感のある彼に小首を傾げれば、両腕を後頭部に組んだ彼はニコリと笑んだ。

「蘭姉ちゃんと一緒に来る予定だったけど、部活の練習試合で来れないって」
「蘭さんも、心配されているんですよ」
「……そうですか」

なんだか悪いなぁ、と他人事のように感じる私の感覚が麻痺しているんだろうか。衝撃的で鮮烈なことがあり過ぎて正直確かに麻痺しているかもしれない。
複雑な心境が胸の内を渦巻いているのに、それを知覚する感覚器官が機能していないようで、揺蕩う思考が眼の焦点を結ばせない。薄ぼんやりと物思いに耽る私に、佐藤刑事が口を開いた。
遺体で発見された、私が目にした人物達の身元が判明した。その言葉に、視線が自ずと彼女へ向く。

「全員、都内の企業で働くごく普通の会社員でした。ただ、共通していたのは多額の借金を抱えていたということです」
「……それは、つまりあの事件に…」
「ええ。当日の全員の行動を調査した結果、その日、休みを取っていたことが判明しました」

言葉を切って、佐藤刑事は全員の身元を明かしてくれた。出版社、塗装工、仕事先と名前を教えてもらっていた矢先、私の心臓が一瞬止まった。

「──金子建設、相澤智則。以上の四人が、刀海さんが発見した被害者の身元です」

紡がれた名前に、背筋が凍る。
予感がしていなかったわけじゃない。相澤智則のことを結城から聞いて、彼が数日前から無断欠勤している事実を知った時、少しだけ、ほんの少しだけ嫌な匂いが蔓延し始めていたことは理解していた。忍び寄る、どす黒い死の気配を感じていなかったわけではない。けれど、情報としてもたらされた現実に、くらりと目眩を覚えた。
冷静になれ、と脳が指令を出す。頭を抱えたい衝動を押し殺して、私は「そうですか」と簡素な言葉を絞り出した。
多額の借金を抱えていた人間達が徒党を組んで強盗を働いた。犯人グループの人数は確か六人。この内、四人が遺体で発見されたとなると、状況的に残りの二人が四人を殺害したというところか。

「殺しは、仲間内の利益配分で何らかのトラブルが起こったことにより発生したと警察では見ています。残り二人の犯人を警察でも捜索していますが、なかなか…」
「犯人の目星は付いているの?」

丸い瞳に探偵の色を灯したコナン君が佐藤刑事に尋ねる。質問を受けたのは高木刑事で、警察手帳に視線を落としながら答えた。

「四人が懇意にしていた人物として浮上した男がいてね。実は、捜査本部が目を付けたのもこの男だったから、職場の張り込みもこの男のところに行っていたんだよ」
「その男の人って…?」
「東都不動の、高橋勇という男でね。四人が密に連絡を取り合っていたところを見ると、この男がまとめ役ということで間違いはなさそうなんだ」

「まあ、結局高橋を捕まえることは、まだできていないんだけどね」と高木刑事が苦虫を噛み潰したような表情をすれば、佐藤刑事の顔にも影が落ちる。
捜査一課が目を付けたのは実行犯のリーダー格となっていた高橋だったけれど、あの日、高橋は仕事場には現れなかったという。欠勤の報告もなかったため、職場の同僚も首を傾げたらしいけれど、待てども待てども現れない高橋に捜査員がしびれを切らしていた矢先、飛び込んできたのは、すぐ近くの建物で他殺体が発見されたという情報だった。

「そういえば、あの時、妙だったのよね」

当時の様子を思い出したのか、佐藤刑事がふと言葉を漏らした。「妙?」と彼女に尋ねれば、佐藤刑事は首を縦に振って、事件当日の状況を語った。

「第一発見者は刀海さんだったけれど、通報は別の場所からされたの。しかも、内容は殺人事件じゃなくて、刃物を持った男がビル内に入って行った、という匿名の通報でね。名前を聞く前に電話は切られたし、IP電話からだったから相手の番号も特定できなかったの」
「念のため、巡回中の警察官を現場に向かわせたらビルの裏手から逃げる男が見つかったら、大慌てで中に入って、刀海さんを見つけたというわけさ」

それは確かに、奇妙といえば、奇妙だ。先日の状況を俯瞰して思惟に浸る。
あの時、あの人通りが少ない場所に人はいたか。いや、私が気づいていないだけでいたかもしれないけれど、それ以上に気になるのは、あの時、男が《刃物を持っていた》なんて私には分からなかった。というより、刃物を所持しているようには見えなかった。少なくとも、傍目には全く分からなかった。

「刃物を持っていたから、怖くてすぐにその場が逃げたかったのかもしれませんね」
「そう考えるのが、まあ、妥当よね」

二人の言葉に引っかかりがないわけではなかったけれど、それでも、状況を鑑みるにそれは一番しっくりくる理由ではあった。
ただ、刃物を持っていたなら、何故すぐに私を刺そうとしなかったのか。そもそも、あの場にいた男が犯人なのか。何のためにあの男がビルに入ったのか。

(駄目だ、分からない)

分からないことは多くあったけれど、考えても詮無いことだったので、思考を収束させる。匙を投げたくなる状況に頭はキャパオーバーで、これ以上の思考は不要だと訴えていた。


佐藤刑事と高木刑事は捜査が残っているからと、早々に帰ってしまった。お茶でも飲んでくださいよ、と引き留めようとしても、人の好い笑みを浮かべて、すみません、と言われてしまえば仕方なく、キンキンに冷えた麦茶のコップ二つは水滴を垂らして台所に置かれることになった。
玄関まで見送って、さようならと扉が閉められる。そうすれば、必然的に残されるのは鋭い眼(まなこ)を湛えた彼で、茶を入れ直して座卓へ持っていけば、部屋の隅々をそれとなく観察していた。「女性の部屋をじろじろ見るなんて無粋だよ」と貼りついた笑みを向ければ、「ごめんなさぁい」と心が一片たりとも籠っていない謝罪が返ってきた、こいつめ。
中身が稀代の名探偵ということを知らない設定のため、心中でため息を吐いて向かい側に座れば、じい、と見つめる彼と目があった。小首を傾げて視線の意図を問えば、逡巡する素振りを見せる。

「もう、大丈夫なの?」
「ん?」
「その…怖かったんじゃないかな、て思うから」

控えめな声音は本心らしい。探る視線から一転、コナン君はどこか身を案じる目線を投げかけてきた。さっきまでの猫撫で声はどうした。
真摯な色が灯る瞳に、ふと笑みが零れる。「大丈夫だよ」と眉尻を下げて答えるけど、内心はよくわからなくて。その私の曖昧模糊な心情を察したのか、彼の表層もまた複雑さを帯びた。

不審な経歴を持つけれど、一般人と変わりない。彼から見た私の印象は不可解極まりないだろう。家の中を見て回っても不審な物は何もなくて、でも、まとわりつく違和感をぬぐうことはできない。あの場に何故私がいたのか。何故、事件と関わっているのか。何が目的なのか。一切が厚いヴェールで覆われた人間の素顔を探ろうとしても、手掛かりとなる情報は何一つ落ちてこない。
素性が一切分からない人間なんて気持ち悪いだろうな、と我ながら思ってしまった。

「コナン君は、優しいね」

そんな私を暴こうとしつつ、でも心配する彼は、ひどく優しい。言葉にすれば安直で、簡素な評価かもしれないけれど、彼を評するのにこれほど適当な言葉はなかった。
彼が必要以上に踏み込まないのは、きっと彼の中でひとつの不文律があるからだ。

江戸川コナンは、真実を突き止める。
同時に、誰も追い詰めない。

不都合な真実を暴くだけ暴いて、結果誰かを追いつめてしまっては、彼は彼でなくなる。かつて彼が暴いたことで自らの死を選択した犯人の記憶は、今でも鮮烈に彼の脳裏に刻まれているのだろう。
「優しくなんてないよ」と僅かに吐き捨てた彼の頭部を撫でる。不満げに見上げる彼と目が合って、思わず、その華奢で小さな体躯を抱きしめた。「洸さん?」と身じろぐ彼に構わず、ぎゅっと腕の中に閉じ込める。「優しいよ」綴る思いに彼は気づくだろうか。

嘘を吐き続けて、感情に蓋をして、出ることの叶わない迷宮の中でひたすら歩き続けることに何の意味があるんだろう。世界に操られる人形に、何の価値があるんだろう。
私が私であることを、私自身しか証明できない世界は、どこまで私に非現実を与えるのだろう。

ふつふつと湧き上がる黒い思いに飲み込まれたくなくて、光を体現するような彼を抱きしめる腕に力がこもった。

一分だろうか、もっと長かったろうか。心地良い彼の温もりを感じて、彼もまた無理に私を引き剥がさない状態に微睡んでいたら、ふと、家のチャイムがなった。

「……あ、ちょっとごめんね」

佐藤刑事達かな。忘れ物か、伝え忘れたことでもあったんだろうか。コナン君に一言断って、玄関へと進む。進むがてら、もう一度チャイムがなって、どれだけ急いでいるんだ、と訝しんだ矢先、唐突に、パンツのポケットに入れていたスマートフォンが振動した。
間が悪いな、と液晶画面を確認すれば、店長、の二文字。
仕事のことだろうか、後にしてもらおう。
通話ボタンを押して左手に持ったスマートフォンを耳元に当てる。

「すみません、店長。今、来客中なので─」

後でまた掛けます、と伝えながら、右手で玄関の鍵を開けた。


──刹那だった。


《洸ちゃ─》

ん、まで聞く余裕はなかった。何故なら、店長が私の名を呼ぶ前に、

《突如開いた玄関の向こうから、手が伸びてきた》からだ。

正確には、伸びた手にスマートフォンが奪われて、勝手に通話の終了ボタンを押されて、床に転がされた、からだ。
目を丸くする間もなかった。声を上げる暇もなかった。行動を起こす思考すら回らない段階で、私の身体は伸びてきた手によって拘束された。空いていた右手を捻り上げられて、曲がらない方向に捻じ曲がった腕が悲鳴をあげる。警鐘が脳内に瞬時に鳴り響いて、頭がフル回転する。真っ先に浮かんだのは居間にいるコナン君の相貌だった。
「コナン君ッ」と叫ぶ私の横を比較的痩せ型の男がすり抜ける。もう一人居たのかと焦りが表情に出るより先に、男は真っ直ぐ居間へと向かった。須臾に、「離せッ!」と叫ぶ彼の声が届いたため、一気に臓腑が冷え上がった。開いた瞳孔が居間の方向を見つめる。

「……ッ、コナン君ッ!コナンく……がっ!」
「黙ってろ」

後ろ手に締め上げられた腕ごと身体を引っ張られたかと思いきや、居間まで引きずられてそのまま畳に身体を叩きつけられた。息が一瞬止まって、肺が酸素を吸えずに、思わず咳き込む。腕に加えて全身に鈍痛が広がり、痛みに眉根を寄せたのも束の間、再び、腕を拘束された。
男の力を振りほどくほど、私に腕力はないし、その技術も持たない。というより、力任せに押さえつけられているというよりは、関節を動かすことをできなくされているため技術を持っていようがいまいが、関係がない気がした。
さらに言えば、顔を上げた視線の先にいる彼を視界に収めて、抵抗は得策ではないと判断できた。

「叫んだり、動いたら、どうなるか分かるな?」

大の大人に拘束された小学生が目の前にいるのに暴れるほど、私は考えなしにはなれない。しかも、今、彼の唯一の武器と言える時計型麻酔銃も、ガムテープを両腕に巻かれてしまえば意味をなさない。用意周到さに、背筋に嫌な汗が流れた。
居間に入った男は、この短時間でコナン君を捕らえて動きを封じた。今、私を拘束している男も一切の躊躇なく部屋に侵入して私を組み伏せた。あまりにスムーズで、迷いのない行動に、冷えている臓腑が今度は縮こまる。

(物盗り…じゃない…、狙いは)

顔だけを男に向ける。視界に入った男の相貌に──


「手間をかけさせやがって」


先刻の恐怖が、蘇った。

憎悪と殺意がこもったその瞳は、あの時私に向けられたそれと、同じものだった。


41


言葉の遊び リンク文字