数日の間、結城から連絡は来なかった。振動することのない腕時計の前で何時間待とうとも、無為に時が過ぎていく。幸いなことに店長から一週間もお休みが貰えた。大丈夫?家に行ってもいい?と遠慮がちに聞いてきた秋穂さんの申し出は丁重に断って、しばらく休めば回復する、と空元気で答えれば、それ以上秋穂さんは何も聞いて来なかったし、何も申し出て来なかった。
胸の内に虚脱感が広がって、しばらくの間、何をする気にもなれずに部屋に閉じこもった私の元に、彼がやって来たのは事件から五日ほど経った日のことだった。

しとしとと降る雨が無音の室内にひたすら木霊して、やけに鼓膜に響いた。室内に招き入れた彼の相貌は面白いほど神妙で。強張った表情に「怖い顔」と乾笑を向ければ無言が返ってきたため、どうしていいか分からずに私も閉口する。
私に何があったのか。それを知らない彼ではない。きっと、知っているからこその無言なのだと思うと、言葉を選ぶにも何が正解なのか分からなくて、戸惑いを含めた視線を送ったら、目を逸らしながら彼が聞いてきた。

「……怪我は平気か」

回りくどくないシンプルな問いに若干ほっとする。座卓に湯呑みを置きながら、「まあ、平気」と曖昧な返事に留めたのは、空元気の必要性をあまり感じなかったからだ。全然平気、だなんて言ったら、余計この男は辛気臭い顔を向けてくるだろう。自分で置いた湯飲みの一つに口を付けて一口飲むと、ゆっくりと座卓に置いた。

「色々とありすぎて、頭の中ぐちゃぐちゃだけど、とりあえず身体は無事だから。多分、平気」

ほっとしたのかなんなのか、よく分からない感情が先行して、それが言葉として紡がれていく。平気、とか、大丈夫、とか、とにかく私は前に進めると言いたかったのかもしれない。百パーセント平気、だなんて嘘丸出しの空元気を見せることはしなかったけれど、思った以上に自分は頑丈なのか、悲壮感に打ちひしがれることはなかったため、まあまあ平気、大丈夫、と活動は可能なことを伝えて。
だから、そんな、らしくない顔はするなと、そう言いたかった。

「いや、結城の忠告って聞くべきだね。持つべきものは有能な友人というかさ。ちゃんと結城の言うこと聞いてれば良かった、て今更おもうよ。はは、ほんとえらい目にあったというか、人の忠告は聞くべきだなぁ、て。だから、」
「刀海」

有無を言わせない声音に空気が震える。硬質なそれに、お喋りな口が動きを止めて、生唾を飲み下した。ひゅ、と息を吸って、表情を固まらせた私に結城の瞳が向けられる。家に来て、ずっと下がっていた結城の視線が、初めて私と合わさった。

「笑うな」

沈痛な面持ちで紡がれた言葉に綴られた想いはなんだろう。推し量る余裕なんてないくらいに、その言葉は、まあまあ平気、と自分を慰めていた私に太い楔を打ち込んだ。なんて言葉を返せばいいか分からなくて、口を噤んでしまった私に結城は畳み掛けるように「笑わなくていい」と重ねた。
笑うな、て何。確かに、怖かったし痛かったし苦しかったけど、だけど、まあまあ大丈夫だし平気だから、だから少しくらい笑えるのに。

「いや、無理してるわけじゃないよ?一応、少しは大丈夫だから」

へらりと、笑う。傷ついているけど、戦闘不能なダメージにはなってませんよ、というアピール。決して虚勢を張っているわけではない。事実そうなのだ。笑えないところまで来ていない。まだ、多少の余力はある、そんな状態だならこその、この十八番の笑み。結城が褒めてくれた、無難な笑みを向ける。
なのに、結城の顔は見事に歪んで、悲壮ではなく薄っすらと怒りが滲んでいる。「何怒ってんの」と、肩を竦めれば、低い声が返ってきた。

「俺の責任だ」

その発言に、ぶわっと、身体の中で何かが爆ぜた。急速に胸の辺りで熱を灯した激情が脳天まで突き上げて、血流が勢いよく巡った。ひくりと笑みを作っていた顔面に亀裂が入る。眉はぴくぴくと揺れ動き、口角も同様の動きを示した。

ふざけんな、と純粋に感じた。

「……馬鹿じゃないの」

鼻で笑う余裕もなくて、虚脱感によって空いてしまった心の空隙を埋めるような声音に拒絶反応が出る。
そんな言葉を聞きたかったんじゃない。
責任、てなんだ。結城の責任?何が?どうしてそんな思考に陥る?いくら黙考しても分からない事件の全容とは違い、これはすぐに答えが出た。

「自分が情報を伝えたから、指示を出したから私が傷ついたとでも?寝言は寝て言ってよ」

私は結城のことをよく知らない。共謀関係になった今でも、心の奥底の秘密を共有しているだけで、彼の育ちも思想も何もかも私には分からない。近くて遠い存在だと常日頃から思っていたけど、そんな考えはいつも頭の隅に追いやっていた。この関係に、その思考は必要ないから。
それでも、苦渋を飲み込んで自分の責任だと宣った結城の心内が分からないほど、想像力がないわけでもない。
だからこそ、行き着いた考えの先にあった、結城の悔悟とも取れる発言が癪に触った。

「全部私が決めたこと、だから、笑うも笑わないも、ぜんぶ、私が決めるの」
「違う」
「違わない」
「違う、お前は」
「違わないってッ、言ってるでしょ!」

沸騰したやかんは冷めるまで時間がかかる。熱を帯びた身体も思考も、なりふり構わず声を荒げることを制止しはしなかった。
この選択は、私のものだ。誰に何を言われていようと、情報が私の前に落ちた時点で私は動くことを決めていた。その結果、私の身に何が起きようと私の責任であり、その一片たりとも誰かのものではない。

「ふざけないでよッ…間違ってたなんて、言わせないから。私は私の意思でアンタの指示に従った。アンタの案に乗った。私の選択を、勝手に自分のものにしないで」

須らく、私の選択なんだ。他人に任せてたまるかと心が叫んでいる。世界に絡め取られているなら、せめて自分の意思くらい自分のものであってほしい。そんな幼稚な願いに突き動かされて、結城に吐き捨てる。

「私が選んだの。その私が、大丈夫、て言ってんの」

全部自分の責任だ。だからこそ、大丈夫、といえる。誰かに運命を握られて、選択を押し付けられて、そんな行為の結果ならきっと、みっともなく誰かに当たってしまう。大丈夫、だなんて言えるわけがない。だから、結城に自分の責任だなんて言って欲しくなかった。

「大丈夫だから、そんな顔しないでよ…」

思った以上に弱々しい声音になって、結城を睨め付けていた視線を下げた。口を真一文字に結んで拳を握りしめる。
そんな顔をしないでよ。そんな、悲壮感漂う色を見せないでよ。自分の責任だなんて言わないでよ。間違いだなんて認めないでよ。仮にそれで、私を使うことを止めようとするなら、保存してあるボイスレコーダーの音声をマスコミに暴露してやる。

「刀海」

名前を呼ばれて結城に視線を戻せば、哀色が薄れた彼はしっかりと、硬い意思の灯った声で言った。

「俺達の責任だ」

決して曲げるつもりのない声音だった。私を真っ直ぐ見据えて言い放った結城に息を呑む。何かを返そうと口をまごつかせても適切な言葉は見つからなくて、惑う私は立ち尽くす。

「言ったろ、俺達は運命共同体だ」

いつぞやの言葉を持ち出した結城が、一瞬だけ困ったように笑った。零した笑みが網膜に焼き付いたのは、結城の笑った顔なんて初めて見たからだ。運命共同体。私達が出会った頃、まだ、アンタとか貴方とかそんな呼び方をしていた頃に、結城は私達の関係をそう表した。奥底の深い秘密を共有して、自分の存在を曝け出す関係。ロマンチックだと一笑してしまった私は、でもそれが嫌いじゃなくて望んでその手を取った。

「お前が図太くて頑丈なことくらい把握している。それでも、大丈夫なわけない」
「ゆう、き」
「運命共同体だろ。お前だけじゃない、俺にも責任がある。だから、もう笑うな」

いつもの淡々とした口調じゃない、硬質な声音でもない、幼子を諭すような結城の口振りに堰き止めていた感情が溢れてきてしまって、胸が締め付けられた。
大丈夫。まだ、笑える。確かにそう感じて、へらりとしていたのに、結城の言葉に幼い私が顔を出した。面倒をかけさせるな、と冷然とした瞳を向けてきた両親に頷いてきた幼子にとって、彼の言葉は自分の近くで一等愛を教えてくれた人に近しいほど、眩しいもので──

「……ねば、いいと思った」

だからこそ、コーティングされた、平然とした笑顔の仮面を地面に落として、私は露わになった感情をぶつけた。ぽつり、と一言吐けば、溢れた言葉はもう戻らない。

「狙われた理由も、家の場所が割れた理由も、あいつの人格も何も関係ない。本当に、純粋に死ねばいい、て思った」
「あぁ」
「あのまま、身体をどうにかされていたらと思うと、ぞっとして。そばにナイフでもあったら刺してた」

大丈夫なわけない。いっぱいいっぱいだ。腹にヘドロが溢れて、どす黒い憎悪で満たされる臓腑は決して綺麗なものじゃない。へらり、とかわそうとしたって、胸の内にある鉛のように思い感情は私を蝕んでいた。
怖い、嫌だ、憎い、気持ち悪い。溜め込んでいだあの時の感情は、言葉にすることでフラッシュバックする。あの時、下卑た笑みを浮かべて私の身体を弄った男の相貌が脳裏にまだ刻まれていて、思い出すだけで怖気が立った。
大丈夫だと自分を納得させないと耐えられなかった。自分で決めたことだと虚勢を張らないと、世界を人を、何もかもを恨みそうだった。なんで、なんで、と駄々を捏ねて、ままならない現実に背を向けて逃げるだけの卑怯者にはなりたくなかった。

無意識に身体を両の手で抱きしめる。自分がいるのは安全地帯だと確かめるように、強く腕を握ったら、「刀海」と、また、ひどく柔らかな声音が降って来た。

「大丈夫だ」

頭部に感じたのは、ゴツゴツとした無骨な指の感触。顔に似合わない大きな手が、頭頂部から後頭部を行き来する。「刀海」ともう一度私を呼ぶ声に、幼心が擽られる。

「結城…」

そっと、彼のワイシャツの腹部のあたりに手を伸ばす。縋ってはいけない、と自戒する大人の心は、首を振る幼い私に敵わなかった。なぜなら、「刀海」と、もう一度私を呼んだ結城が、一瞬を置いて、また私を呼んだのだ。

「洸」

一等跳ねた心臓が、胸に熱を灯して、その熱が一気に身体中に伝播して涙腺を刺激するまで、そう時間はかからなかった。たった一言、それだけなのに、結城の呼びかけに瞳に薄い被膜ができる。
嗚呼、この男は、ひどくずるくて、なんて優しいのだろう。

「もう、やだ…」

だから、躊躇していた掌は、彼のワイシャツにシワを作った。俯いて、頭部を彼に預ければ、応えるように回された逞しい両腕に包み込まれる。それが、合図となって私の感情は一気に溢れた。

「嫌…、やだよ。もう、やだ…ッ、やだよ…」

どろりとした感情を吐き出して、駄々っ子のように縋って、そんな私を結城は拒むことなく受け止めた。その行為に、今まで堪えてきた激情、哀情、凡ゆる負の感情が溢れた。
理不尽には怒るのが正常だというなら、私は今まで、壊れていたんだろう。人形として生きると思い込んで、傷を見ないふりをして。

「なんで…ッ、こんな目に会いたくてここにいるわけじゃないのに。好きで、こんなとこにいる、わけ、ないのに、なんで、ッ」

「なんで」と壊れたレコードのように呟き続ける。溢れるのは言葉と感情だけじゃない。瞳に張られた薄い膜は、畳にシミを作った。

真っ黒な想いも、まっさらにして。溢れ出す思いは止まらない。錯綜する感情が一緒くたになって体外に放出される。
なんで、なんで、嫌だ、嫌だ。縋り落ちる私の身体を抱き留める彼の体躯にみっともなく引っ付いて。恥も外聞もない、ただ惨めで哀れな女となった私は彼の元で泣いた。

きっと、私が知らない彼だから、泣けた。


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