ねっとりと肌に絡みつく熱気は、季節柄のものに加えて都会ならではの人混み、喧騒が織りなすもので、夜気はどこかへ散歩しているのかと思うほど蒸し暑い夜だった。夜の七時を回れば、辺りは会社帰りのサラリーマンから飲みに出かけた学生、家に帰りたくない不良少年少女、年代も性別も社会的地位もてんでバラバラの人間が、街中を闊歩する。その光景はきっと、夜の九時を回っても変わらないのが、都会と田舎の差だと思う。田舎なら、夜の九時以降はグッドナイト、また明日、店舗の明かりは消えて人々は家路へ向かう。
雑踏の中にいるのにどこかぽつねんとした心持ちになっていて、世界から隔絶され、一人佇む姿を脳裏に描きながらぼんやりと目の前の景色を眺めていると、「遅くなりました」と聞きなれた声が横から届いた。一人の世界の来訪者に緩慢に視線を向けて、薄く笑みを作る。「いえ、私も今来たところです」と、テンプレートの返しを投げれば、彼は仏頂面を少しだけ緩めて「行きましょうか」と、雑踏へと歩き出す。その後ろ姿を拝みながら、私もその後を続いた。
一目で安物ではないと分かる麻のジャケットにストレートパンツ、自分の体型をよく理解した着こなしなのは少しだけ意外だった。Tシャツにジーンズを想像していたため、少々呆気にとられて、思わずそのたち姿をつま先から頭のてっぺんまで見てしまう。普通にかっこいいな、この人。
私を度々振り返りながら人混みを抜けていく彼、風見裕也の背を追いかけながら、心の中で詫びを入れといた。

飲みの誘いを受けたのは数日前、小雨がぱらつく天気の中、所轄の相談室で彼と話していた時だった。話していた内容は、先日の事件を受けて何か変化はないかなど硬質なものだったのに、どうしてこんな話題を振ってきたのかと首を傾げたことを覚えている。怪訝に眉を潜めた私に、風見さんは「特に意味はありませんが」と前置きをした上でひとつ瞬くと、視線を再度私に据えた。

(少しだけ自分も気を緩めたい、か)

口から出てきた、らしくない言葉に苦笑する。自分も、と言う辺りが彼の甘さか。ほんのり滲む労りの念に口の端を緩めた。

事件以降、常に気を張る毎日が続いている。脳裏に焼き付いて離れない記憶。怖気が立つ光景は、瞼を閉じれば暗闇の中に投影できるほどには鮮明だ。今後、誰かに何かをされるわけではない。それでも、一度受けた傷は完治できるものではなく、深い楔を私の中に打ち込んだ。泣いて、泣いて、そのことにより自分の中の弱さを認識してしまったからなのか、やけに今の私は周りを気にするようになってしまった。
中でも、目敏く見てしまうのは彼の行動だ。取り立てて何かをされたわけではないけれど、分かりやすく、喫茶ポアロで働く彼の視線は変わった。
助けてもらったお礼をしなければと足を運んだ日、店の扉をくぐった私を見るや否や、血相を変えてやって来て身を案じてくれた梓さん越しに見遣った彼の相貌には暗い影が落ちていた。心配してくれる梓さんをなだめて、改めて彼、安室さんに対面して礼を言えば、感情の読めない瞳を僅かに揺らした彼は「いえ、ご無事で何よりでした」と、安室透の笑みを浮かべて返してくれたけれど、気難しい表情をしていた彼の相貌は脳裏にしっかり刻まれた。
疑念、当惑。怜悧な瞳は相反する二つの感情に揺れていて、しかし降谷零として、公安警察としての矜持は守らんとする思いが勝るのか、ぎらりと鈍く光る瞳の奥は、私を異端者として認識していた。
その瞳を感じた瞬間、仕方がないと諦念を覚えつつも、何故かひどく虚しくなった。感情的になってるなぁ、と自嘲しつつも事実、今までなら受け流せた懐疑の眼差しが全部煩わしく、そして悲しく思えた。
いの一番に私を救ってくれた彼が、私を探っている。彼にとっても私という存在は不確定要素が大きすぎるのかもしれない。安易な信用が許されない存在なのかもしれない。分かっているけれど、やりきれなかった。確かに最初から疑いの目は向けられていたけれど、その色は一層濃くなって。ただの記憶喪失の小娘から事件の関係者、或いは彼らが探っているもっと大きな何かの関係者、とも思われているのか。何にせよ、私には雲の上の話で、当事者として引き上げられようとしているのにその実感は露ほども湧きはしなかった。

そんな日々は私の気力を徐々に奪っていった。店長や秋穂さんは良くしてくれて、その優しさはありがたく受け取りながらも、その裏に何かあるんじゃないかと疑心暗鬼になる。手放しで人が差し伸べた手を掴んで、その笑顔を受け取るほど、今の私は強くはない。
何が自分の身に災厄を持ってくるのか分からない。そう思うと、何もかもが怖くて、でもそんな自分も嫌になる矛盾。事件に巻き込まれた故に、度々重要参考人として警察にお世話になるのにも疲れていた。
心身共に参っていた矢先だったのだ、風見さんからのお誘いは。

途切れることのない人の放列、鼓膜を震わせる喧騒、夜の仕事に精を出す男女と会社帰りのくたびれたサラリーマン、学生、あらゆる物が混ざり、渾然一体となった飲屋街を抜けていく。飲み屋に入るんじゃないのかと大きなその背を追いかけていると、寂れた路地にひょろりとその背が消えた。そんなところに店があるのかと眉を潜めながら、歩いていけば、その路地をさらに右へ左へ。もはやどこの門から入ったのか、駅はどっちかなんて分からないくらい入り組んだ迷路のような小道を歩いて、辿り着いたのは地下へと通じる階段だった。するりと降りていく風見さんから視線を外して、聳え立つレンガ調のビルを眺める。どうやら、このビルの表玄関は真反対にあるらしい。対の方角から人の声が疎らに聞こえる。ということは、これは裏口か。一般人が入ることができる店ではなさそうだ。
彼なりの配慮なのかどうなのかは分からない。その配慮が、逆に自分が異端者だという事実を突きつけている気もしないではない。

(考えても仕方ないか)

無為な思考を頭の片隅に追いやって、地下へと続く階段を降りた。


「おや、遂に良い人が出来たのかい?」

老齢の紳士、と称しても過言ではない素敵なおじ様が迎えてくれたからこのバーは良いところだ。白髪を綺麗にセットし、シワ一つないベストは体型にピタリと合っている。年齢を感じさせる皺が逆に彼が往年の仕事人であることを表していて、普通に惚れる出で立ちのご老人だった。
鼻下のたっぷりとした髭が、ふぉふぉふぉ、と揺れて、老年ならではの貫禄に見惚れていると風見さんが「よして下さい」と肩を竦めた。

「こちらから入っているんですから、察して頂いてるでしょう?」

ちらりと含意のある視線がご老人に送られて、ご老人はというと、変わらない笑みを風見さんに返した。こちらから、とはなんだと思ったけど、風見さんは公安刑事だということから推察するに協力者との密会に使われていたりするんだろうか。確かに時間帯としては一組二組くらい客がいても良さそうなのに、人っ子一人いない。そういう場面でしか機能しない会合場所、なんてアニメや小説だけの世界だと思ってたけど、ここ、アニメの世界だった。

悠然と奥の個室へと足を進めた風見さんに慌てて付いていく。笑みを崩さないご老人に少しだけ冷やりとしたものが背筋を流れたけど、軽く会釈をして私も後に続いた。
部屋には檜の香りのするテーブルと長椅子が配置されていて、淡い光を放つライトは室内に仄かな橙色を落としている。アンティークが散見されて、洒落た居酒屋、と言った印象を受けた。
私と風見さんが向かい合って座ると、ご老人が音もなく戸を開けて飲み物を運んできた。頼んだ覚えはなかったから小首を傾げると、「サービスです」と片目を瞑ってグラスを差し出す。風見さんのグラスには、藍色を基調としたカクテルが、私には桃色と朱が入り混じったサワーが。初めの一杯としては、まあ、飲みやすそうだ。
ご老人が扉を閉めたので、どちらともなく視線を絡ます。「とりあえず、乾杯します?」と遠慮がちにグラスを持ち上げた私に、風見さんは変わらない仏頂面で応じてくれた。


「風見さん、お酒強いんですか?」

小一時間経って開けたグラスは何杯だろうか。確か目の前の彼は酒に強い筈ではなかった、そう記憶していたのだけれど、カランと音を立てて飲み干されたのは何杯目かの洋酒。因みに、最初のカクテルの次は、ウイスキーやら焼酎を飲んでいるので弱いという認識は改めた方が良いと感じた。
私の問いに風見さんは、ふと思案顔になったあと、

「どうでしょうか」

言葉少なに、また喉を潤した。これは確か、福島の日本酒だったんだけど。一合分、グラスで飲み干す人初めて見た。「強い人特有の返しですね」と、同じ日本酒を一飲みする。飲みやすくて、後味もスッキリした私の好みの酒。

「刀海さんも、弱くはないでしょう」
「そうですね…強くもないけど弱くもない。普通です」
「普通、という人は大抵強いものです」
「うーん、否めないかもですね」

はは、と笑って、呼び鈴を鳴らして、今度は蒸留酒を選ぶ。種類が豊富で、そこにある名前に目を向けながら、へらりと笑った。

「酒に溺れて、何もかも忘れることができたら幸せなのかもしれませんけど、それってすごく怖くないですか」

ぱっと目に入ったのは、柑橘系の香り高い、ジン。

「あらぬことを喋っちゃったら、ね」

脳裏に浮かべた相貌を彼が伺い知ることはない。「これ、お願いします」と頼んで、ついでにチーズも何種かお願いした。

ここまで、風見さんと私は一切真面目な話はしていない。最近どうだ、からは、風見さん彼女いますか、やら、見合い話は、過去の恋愛は、など女子トーク満載のラインナップで攻めてみた。因みに、全てかわされた。見合い話を持ってこられたことはある、とだけ言われたけど、お付き合い云々の話は避けられた。ち、意外と話を転がすのが上手い。いや、当たり前か。この人、公安の人だもんな。
風見さんは、私を一瞥する。

「あらぬこと、ですか」
「そうですよ。私の男性の好みとか、私生活の恥ずかしい場面とか、あとはそうですね」


──私ですら知らないこと、とか。


にこり、と綺麗に弧を描いた口元はさながら狐のようだろう。笑っていない笑み。作り笑顔で目を細めて、こんな直接的な笑みを作るのだから、前言撤回、少し酔っている。酒は気分を良くするから、ついつい、乗ってしまうのだ、彼のお誘いに。

「……やっぱり、お酒は気を緩めるのに最適ですね」

ぽつりと零した言葉に少しだけ苦笑する。ご老人、もとい、マスターが持ってきてくれたジントニックを一口含んで、鼻を抜ける柑橘系の香りを楽しむ。カラン、と音を立てた氷がやけに虚しく聞こえた。
風見さんは、「そうですね」と答えると、ふと視線を落とした。思惟に浸る様子でグラスを見つめていた彼は、数秒かけてゆっくり瞬いた後、私に真っ直ぐ視線を合わせてきた。

「例の犯人ですが」

ああ、やっと本題が来たか。

「……高橋勇、ですか」
「ご存知でしたか」
「佐藤刑事と高木刑事に教えてもらいました。彼らの犯行動機も含めて」

高橋勇、東都不動に勤める会社員。それは、あの強盗グループのメンバー殺害事件に絡んで一課が追っていた男であり、私もまた結城に情報を貰って追っていた男。その男こそ、あの時私を襲い、あろうことか姦淫しようとしたクソ野郎だった。
追っていた男に逆に襲われるだなんて夢にも思っていなかった。佐藤刑事から高橋のことを聞いた時はまさかと思ったけれど、高橋は留置場で私を襲った理由をあっさりと話したという。それは、高橋が私に喚き散らした話と全く同じで。

「私が、あの四人を殺したと強く思い込んでいると。その証拠に、あそこに隠していた筈の盗品が消えている、ですよね」
「はい。換金して山分けする予定だった盗品は、隠してあったロッカーから消えていました」
「高橋は、誰か、からあの場にいた女が犯人だと連絡を受け、残りの仲間と一緒に、捜査員が出て行ったところを見計らって乗り込んだ、と」

佐藤刑事から聞いた内容を話せば、風見さんは顔に陰を落とした。複雑な面持ちに苦笑する。

「その、誰か、を高橋が自供する気配がないんですよね」

私の言葉に、風見さんはぴくりと肩を揺らした。「そんなことまで」と漏らした声音は若干呆れがかっている。そりゃ、風見さん。捜査情報の漏洩なんて高木刑事にとっては朝飯前ですよ。歩くスピーカーですから。
ひとつため息を吐いた風見さんは「そのことですが」と前置いて私に向き直った。

「高橋の取り調べを、公安も担当することになりました」

「え」と間抜けた声が出る。ぽかんと口を開けた私に風見さんは表情筋をひとつとして動かさなかった。硬い顔つきの風見さんに、言葉を探し出せずに閉口する。
公安が何故、と湧いた疑問に瞬時に挟み込まれる答え。それは、ずっと前から知っていたことだ。公安もあの事件を追っている。それは結城から聞いていた。何故、という問いには答えてもらっていないけれど、それが事実として今、目の前に落とし込まれた。

「公安が、何故、高橋を調べるんですか」

答えてもらえるか分からない。それでも自然と言葉に出していた。ずっと抱えてきた問い。この世界に来て、巻き込まれていると自覚し始めた頃から抱いていた問い。
どうして、強盗事件に関わる人間、ひいては強盗事件そのものを公安が追うことになったのか。目的は何か。それを知ることは、私がこの事件に巻き込まれた根本原因を掴むことに繋がると思った。

「捜査一課が担当するような事件を、公安がなぜ捜査するんですか」

風見さんの鋭い双眸がこちらを射抜く。深く見透かされるそんなまなこにひるまなかったと言えば嘘になる。けれど、崖っぷちに立たされている私に選択肢は最初からなくて、その顔貌をまっすぐと見据えるしか道はない。

「……そもそも、初めから強盗事件そのものはどうでも良かったんです」

ぽつり、と一等低い声音で風見さんは零した。

「事件そのものではなく、我々は高橋個人に目を付けました。何故なら、高橋には事件前から我々が追う理由があったんです」
「事件前から…?」

違和感のある表現に、つい言葉が出る。風見さんは神妙な面持ちで頷くと、ひとつゆっくりと瞬いた。

「高橋勇は、ただの強盗犯ではありません。あの男は──

──我々が追う、ある組織と繋がっています」

どくん、と心臓が大きく脈打った。声が出かけたけれど、すんでのところで喉奥に引っ込めた。褒めて欲しい。不意打ちのボディブローを受けて、反射的に防いだのだ。

こんな事実があってたまるか。

乾笑が溢れそうになった私は、「組織…ですか」と、声を絞り出す。風見さんはひとつ頷いた。

「組織、の詳細は私も深くは知りません。末端の公安捜査員、特に私のように表に立つ人間には知らされないことが多い。しかし、存在は知っています。日本に関わらず、世界には多くの地下組織がありますが、その一つと捉えて下さい」
「……そんな公安警察が追う組織のひとつと高橋が繋がっていた、ということですか」
「ええ。構成員としては下っ端ですが、高橋は組織の仕事の一端を担っていました」
「仕事?」
「密入国者を国内に引き入れる、ブローカーです」

今度はぐらりと眩暈がした。はた、と気付く前に脳にその情報が蘇り、投影された光景が記憶となって蘇る。
密入国、その単語はあの強盗事件の記事を読んだ時にも目にした。密入国者を囲っていたグループを摘発、警察が捜査中。人命が関わらない事件だと呑気な顔して見ていたあの記事。

「つまり、こうですか」

搾り出した声は、答え合わせというには絶望の色を深く醸し出していた。

「高橋勇は、そのある組織において密入国を扱うセクションに居た。そのセクションが警察に摘発されたので、資金繰りにでも困ったんでしょうか。強盗事件を働き、換金した金で空いた穴を補填しようとした、と?」
「正確には、摘発前から資金繰りには苦慮していた、ですね。我々の捜査で、高橋はそのセクションで得た金を横領していた。もともと、補填用の金をどうするか画策していた時に、偶然、摘発されたに過ぎない」

さらりさらりと、湯水のように溢れ出す情報。不毛地帯を彷徨っていた私には刺激が強すぎる光景だった。溢れ出すそれに立ち尽くして、膝をつく。
そんな情報聞かされたら、自ずと点在していた情報が繋がりを持つ。点と点では分からなかったことが、線となり像を結ぶ。

なぜ、彼らの目に私がとまったのか。
なぜ、安室透が執拗に接触してきたのか。

初めの接触は公安の協力者の店長からの情報提供によるものでも、その後継続的に要観察の対象となったのには、それなりの理由があるものだ。

「……そういうこと、ですか」

記憶喪失の身元が分からない人間。人探し、がお家芸とも言える公安が探すことができない女。偶然にも、件の事件の前後にこの都内に現れた謎の女。そして偶然にも、事件の関係者と接触し、そして主犯格に襲われた。主犯格の証言では換金予定だった盗品は消えている。

これで疑わない方がどうかしている。

「……気が緩んだ話ついでです。私からも質問させてください」

前置きをするような声音。光る眼鏡の奥の双眸は、きっと緩んでなどいない。その証拠に、私を見据えた彼の瞳に、揺らぎはなかった。


「刀海さん、貴方は一体何者ですか。何を知っているんですか」


気弱な記憶喪失者、という肩書きの消失を体現する視線がそこにはあった。一抹の憐憫も躊躇もない。その眼光は鋭く私に向けられた。


──夢ならどれほど良いだろう。


「……分からないです」

こんなことを言いたいわけじゃない。こんなことを伝えたいわけじゃない。稀代の名探偵のように事件解決のためのピースをはめていければと、願ってやまないのに、私にはその術はない。
たたの偶然というにはあまりにもでき過ぎていて。
でもその偶然により私が浮き彫りになってしまったことを、私は証明できない。


──どうして、私だったのだろう。


この声は、彼に届くだろうか。


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