「風見さんから全部聞いたよ」
座卓の上に乱雑に湯呑みを置いたついでと言わんばかりに、結城の目を見ずに私は言い放った。「全部って?」と平静な声音の結城に「全部は全部」とツンと答える。無言がしばらく広がって、間を埋めるように油蝉が網戸に張り付いたから、五鳴きくらい待ってやった後に指で弾いた。違うお呼びなのはお前じゃない。
結城は能面を装っていたけれど、すぐにそれを剥がして諦念を浮かべた。「あの人、案外脆いな」と零した胸の内に、思わず顔を歪める。
「風見さんは良い人だから。どこかの誰かさんと違って」
「人の胸借りて泣いた奴の台詞じゃないな」
「あー聞こえない、聞こえない」
嫌なことを思い出した。こいつの前で醜態を晒すんじゃなかった、なんて思っても後の祭り。さらりと、しかしちくりと突いてくる結城に「そんなことじゃなくて」と話を戻す。
「高橋から組織につながる情報を聞き出そうとしてるんでしょ?高橋が使用していた口座は抑えてある、て」
「末端の構成員から聞き出せる情報なんて知れているけどな」
「で、その高橋が接触した上に事件現場にまで現れた私も再度調査する必要がある、だっけ?」
にこり、と何の色も乗せない笑みをひとつ。疑問を呈しているようで、そこはかとない怒気が混じる表層に結城は僅かに眉を揺らし、そして嘆息した。「俺は関わっていない」と言い訳がましく吐き捨てた結城に「責めちゃいないよ」と、けろりと笑う。
「全部、ふりだしに戻ったって思っただけ」
立ち上がって窓に近づいて外を眺めながら、思い起こすのは彼とのドライブのことだった。全部が嫌になって、厭世的に世界を見ていたあの時、もしかしたら帰れるかもと一縷の望みにかけて足を伸ばしたあの地で、あっけなく泡沫の夢となった希望。全てを諦めて、大人しく世界に囚われようとした私に、秘密を明かしてくれた彼に、少しだけ、ほんの少しだけ私の心は救われた。
……と、いうのにだ。全部ふりだしに戻った。私の立場を地固めして、信頼を勝ち得るまではいかなくても害はないと証明できれば、まだこの世界でも穏やかに過ごすことができるというのに。とんだ地雷だ、この事件は。ハナから私は、組織の関係者、ではないかと疑われていたのにも驚いたけれど。
密入国者引き入れる団体が警察に摘発され、時期を同じくして強盗事件が起きた。主犯格の高橋勇は、ブローカーとして密入国者を引き入れる団体にいたが、そこで得た金を横領していたため、資金繰りに苦慮していた。そこで、強盗の計画を立てて実行したが、組織の資金の流れを調査していた公安の目に付くのを恐れて換金に手間取っていた。そんな中、仲間が殺されて盗品もどこかへといってしまった。
公安は、もともと組織に繋がると見て件の密入国者仲介団体を調べようとしていたらしい。しかし、組織犯罪対策部が摘発したことから組織の全貌が有耶無耶になってしまっていた。そんなところに、あの事件だ。
(高橋が私を襲ったことで、存在が明るみになった、なんて笑えない)
事件前から追っていた、透明な組織の関係者の存在が、私を介して明るみになった。あれ、私むしろ感謝されるべきじゃないか。
けれど、現実はけっこう厳しい。
「風見さんにね、言われたんだ。貴方は一体何者で、何を知っているのか、て。笑っちゃうよね、私が聞きたいことを聞かれるなんて」
自嘲気味に溢れた笑みが虚しい。笑っちゃうくらいでないとやってられない。だって、安室さんどころか風見さんにまでそんなこと言われたら、心の奥に重い鉛がズンと置かれた気分になる。
気遣ってくれていた人達にまで疑念の目を向けられて、この生き物は何だ、てまるで宇宙人扱い。何かを伝えたくても、伝えられることは何もなくて閉口したら、鋭さを増す目。やってらんない、まったく。
「ねえ。結城は、どうして私に協力してくれるの」
網戸に手を添えて、尻すぼみになりながら尋ねてみた。こんな聞き方、ただの面倒くさい女だって分かっているけど、今の気分は完全に沈み込んでいるので許してほしい。
視線を合わさずに尋ねた私に、視界の外から結城の声が返ってきた。
「……俺の声を録音したデータをばらまかれても困る」
「じゃあ、それを渡したら協力関係は破綻するね。いる?」
振り向きざまにスマートフォンをちらつかせれば、結城は僅かに顔を歪めた後に、視線を逡巡させて下げる。けらけらと壊れた人形のように薄寒い笑みを浮かべる私に戸惑っているようで、若干罪悪感を感じてしまった。
「ごめん。困らせたいわけじゃないんだけど、ちょっとだけ愚痴りたくなってさ」
うん、と少しだけ唸る。
誰が悪いわけでも何が悪いわけでもない。偶然が偶然を呼んで、折り重なった事実がたまたま不自然になってしまっているだけ。調べを進めれば私が関わりがないことは分かると思うんだけど、そもそも過去を洗えない人間は信用できないか。
悶々と答えの出ない問いに嫌気がさす。視線を外して俯いた私に、結城が「俺は」と唐突に答えた。
「……いや。俺も、お前はまだ何かを隠していると踏んではいる」
どストレートに言われて、「だよね」と呟くしかできなくて。実際、どデカイ隠し事がひとつあるけれど、こんなこと言えるわけがない。言ったところで信じてもらえない。
苦笑する私に「それでも」と妙に力のこもった声をあげた結城が、まっすぐ私を見据えた。
「そこらの他人よりは信用できる。それじゃ、不満か」
その瞳はしっかりと私を捉えていて、自分の奥底の感情を見ろと言わんばかりに透き通っていた。その瞳はあの時、泣きじゃくる私を抱きしめてくれた時と同じ瞳だった。
結城は、とても不思議な男だ、と思う。出会った時から能面を被って心内なんか悟らせない、と言わんばかりの声音と表情を常に保っているのに、時折、激情とも取れる感情が見え隠れする。何故、警察官になったのかと尋ねた時にはひどく底冷えする色をその瞳に湛えていた。そして今は、自分を信じろ、と言わんばかりの強い意志が滲む瞳。
視線を外すことは許さないと告げる視線に苦笑する。
「かっこいいね、結城」
陳腐な返ししか出来なくて、聞いておきながらその感情を受け流そうとしたことが納得いかなかったのか、結城は唐突に立ち上がり、ずんずんと私の目の前まで来た。「な、なに?」と目を瞬かせた私に見向きもせずに、結城は急に私の腕を掴んだ。
「……このあと予定は?」
「は?」
「予定」
「……ない、けど」
「ならいい」
何がだ。出かけた言葉はしかし喉奥に飲み込まれる。なぜなら、結城が私を引きずるようにして扉へと歩き出したからだ。「は?なに、え?」と狼狽する私に構わず、靴を履いて玄関を潜り、晴天が迎える外へと足を進める。
一体なんだ、と目を白黒させる私は、掴んで離さない彼の手にひかれて、そのあとをついていくしかなかった。
*
この世界の東京も人の多さは変わらない、と思う。渋谷、新宿などは言わずもがなだけれど、赤坂とか品川、新橋など田舎民からしたら知らなかった人口過密地帯があった。
地下鉄を乗り継いで、新橋に辿り着く。相変わらず結城は手を離さないから、はたから見たらこれカップルじゃないのか。いいのかそれでお前は、と結城の顔を伺うけれど相変わらずの能面は私を一瞥もしない。
掌から伝わる体温が、やけに熱く感じられた。
(……ゆりかもめ?)
聞いたことのある沿線名だけれど、具体的にそれがどこに行くのかは把握していなくて、掲示板を見ながら小首を傾げる。右も左も分からないから、自然と足が遅くなる私を急かすように結城は引く手に力を込めた。
新橋から乗ったいうことしか分からず、ガタゴトと揺れに沿って体も左右に振れる。これはどこに向かっているんだろう。思考するのも面倒で、車窓から見える海景色に意識を揺蕩わせる。海面に反射する太陽光が目に刺激的で、薄ぼんやりとその様子を眺めながら十五分程度たった時、結城が唐突に手を引いたため、つんのめって電車を降りた。
終始無言の結城に何かを話す気にはならなくて、互いに一言も交わさず、さらに私としては目的地も分からずひたすら結城の背を見つめる。その背を見つめながら、ふと、今日言われた言葉を思い出していた。
そこらの他人よりは信用できる。結城にしては最大限配慮された言葉だった。諸手を挙げて喜べるかと言えば違うかもしれないけれど、少なくとも悲観するような言葉じゃない。公安警察にしては随分と甘いのではないかとこちらが心配してしまうくらいだ。
その意味では、結城との距離はとても居心地が良かった。
信頼できる誰か、というのは何も、気遣ってくれる人、優しく接してくれる人というわけではない。優しさは時に人を頑なにする。迷惑をかけてはいけない、面倒をかけてはいけない、手を煩わせてはいけない、と、思えば私の行動規範はそこにあった。向けられる好意と優しさを受け取りながらも罪悪感を感じる。その矛盾に苦慮して、心のありようを模索する。
結城は、むやみやたらに優しくしてこない。いき過ぎた善意は毒になることを心得ているのか、私の行動規範を理解しているのか、踏み込み過ぎず、けれど見捨てることもしない。
掌に感じるのは、その丁度良い善意だった。
「……広い」
ぽつりと思わず声が漏れたのは目の前の景色のせいだ。
遮蔽物のない空間はいつぶりだろう。いつだって、住宅や高層ビル、地下鉄に地下道と必ず人と建物に覆われていた自分の周りの空間が一気に開けた感覚は胸に沁みるものがあった。遥か先に聳え立つガラス張りの建物が空に映え、近場のショッピングモールは回数は少ないため圧迫感がない。くるりと見渡すと埋立地ということがよくわかる構造になっていて、周りは海に囲まれている。近代の開発によって作られた臨海都市は都心の様相を海ひとつ隔てて伝えているけれど、こちらに届くのは煌びやかなビル群だけでその喧騒は遥か彼方だ。閑静とまでは言わないけれど、とても穏やかで、風通しの良い土地に気分が澄んだ。
私を連れてきた結城を見遣れば、こちらには目もくれずにスタスタとどこかへと歩き始めた。ここに来てようやく手を離した彼にほっとしつつ、慌てて後を追う。
レインボーブリッジが眼前に聳え立ち、時折船の汽笛が鼓膜を震わせる、そんな光景を拝める場所まで来た。平日のため、辺りを散策する人間はあまりおらず、いると言えば忙しなく周りを見渡す観光客くらいだった。
「綺麗」
吹き抜ける風を肌に受けて、思わずそう呟いた。
地方民にとって、東京は凡ゆるモノで溢れている世界だ。人、物、建築物、それらが犇めき合い、取り分け二十三区内は空きスペースなんて数センチもないといった様相で、先進国における近代都市を体現したその姿には畏怖すら感じる。例に漏れず、私も足を踏み入れた当初はその物量に圧倒されていた。
ただ、同時に途切れることのない疲労が全身を襲う。
溢れるモノに自分の存在が押しつぶされそうなそんな感覚。ちっぽけで、立っていることすら必死な私みたいな人間は、あの中に放り込まれると殊更そう思ってしまう。
物量的な大きな流れ、それに加えて、手に余る巨大な事件。どうして自分がここに、どうして自分なのか。そんな自問だって大きな流れの中では些末なもので、自分という存在がどんどん飲み込まれていくような感覚はどうしようもない焦りを私に覚えさせた。
であるからこそ、物理的にあの大都会を眺め見ることができる場所は新鮮で、ここもその大都会の一部とは理解しつつも、海一つ隔てるだけでこうも見え方も感じ方も違うものかと感慨に浸った。
「頭の整理をしたい時によくここに来る」
独りごとのように呟いた結城が隣に立つ。風を受けて揺れる柔らかな質の髪を見、その横顔を仰ぎ見る。「頭の整理が必要なことがあるの?」と苦笑してやれば、「当たり前だ」とまっとうな返しが飛んできたから、口の端を緩めてしまった。当たり前だよね、人間だもの。
「静かでいいね、ここ。ずっといられる」
海面に反射する陽光が眩しくて薄っすら目を細める。すると、後方で黄色い声が上がった。振り返れば、幼い娘さんと若いお母さんが空を指さして笑いあっていた。指の指す方角へと視線も転じて、彼方に見えたのは羽田空港から離陸したであろう、飛行機。透き抜ける青の中をまっすぐ、進んでいく。
ああ、空ってこんなに広かったな、そういえば。そんなことを想ったのは、故郷の空も似ていたからで。見渡せば海と山が近い位置にあった故郷は、高い建築物が皆無に等しいため、晴れた日の空はひどく広かった。下を向いていたら分からないほどの広大な景色が首ひとつ上向けるだけで広がっていて、気分が落ち込んでいる時でもその光景をみればなんとなくは気分が晴れたものだった。
喧噪から離れて、自分を俯瞰するにはここは丁度良い場所かもしれない。
「ひとつ言い忘れていたが」
感慨に浸っていた意識が結城に引き戻される。ひとつ前置いた結城に視線を転じる前に、言葉が発せられた。
「お前のことは嫌いじゃない」
ぶっきらぼう、とまではいかない。でも、素っ気ない言い方。のくせに、ひどく暖かい言葉。
「………えっと、」
「素性も目的も分からない。公安としては要観察対象。おまけに喉元にナイフを突きつけられながら共闘している。この状況でも、お前のことは嫌いじゃない」
硬い声音で、視線なんて勿論合わさず、海面に眼を遣りながら、結城はまるで小石を投げるように呟いた。
「……なにそれ」
無表情の横顔に、思わず吹き出す。なんだそれ、なんなんだそれ。なんのフォローだ結城君。
「……ふふ、ふ。なにそれ、結城、おっかし…」
なんて、なんて不器用な男なんだこの男。公安警察官としては多分優秀なのに、どこか抜けている。初めてあった時もそう、トロピカルランドで私が執拗に追いかけて、そのしつこさに負けて私と対峙した。結果、尾けていた事実を録音されてしまう。そんな状況からスタートしたのに、私が弱音を吐けばきちんと受けてくれる。生ぬるい優しさに浸からせることはせずに、必要な言葉を必要なだけ。
既存のキャラクターと関わることが嫌なわけじゃない。でも、私は彼らの事を知りすぎている。過去も現在も、どのような人格か知っているそれは、ひどく恐ろしい。
だから、私が知っている人間じゃない、私が知らない、私の事も知らない、そんな一人の人間を求めていたのかもしれない。それも、無条件の愛をくれる人間じゃなくて、対等な立場で話すことが出来る人間。
「ねえ、結城」
とん、と彼の前に出る。一歩、二歩と歩いて、今一度、眼前に広がるビル群を眺めた。海一つ隔てた先にある、日常、を見遣って振り返る。
「私ね、結城に感謝してる。私の隠し事を知りながら、私に協力してくれて、いろいろ気遣ってくれてありがとう。だからさ、」
ようやっと合わさった視線。僅かに見開かれているその瞳に微笑んで、この先の可能性を語った。
「全部が終わるとき、ちゃんとお別れを言わせてね」
いつ来るか分からない、来るかどうかも分からない未来。
カモメの鳴き声が一等高く響く中、吸い込まれるような彼の瞳に、ただ微笑んだ。
*
夕陽が彼方に沈もうとしていた。随分と時間を取って休息してしまったけど、リフレッシュは大事と気を取り直して家路につく。黄昏時、この世とあの世が混ざり合う時間、遠く空の向こうは鮮やかなオレンジ色が黒と入り混じって幻想的な世界を醸し出す。
結城とは、三時間ほど前に別れた。捜査が残っているとのことだったから、私に構うことなく行けばよかったのにと思ったけれど、結城なりの心遣いだったのだろう。仏頂面からの貴重な好意はありがたく受け取っておくべきだ。
もうすぐ日が暮れる。家に帰って、ご飯の支度をしないといけない。事件のことは、高橋の取り調べが進むにつれて明らかになる。それはすなわち、私の身の潔白も証明されることだと、とりあえずは信じている。というか、そうでないと困る。
今日は何にしようかな。鳥のささみがあるから、大葉とチーズではさみ揚げでもしようか。脳内で献立を組み立てながら帰り着いたアパート。玄関扉を開けて、スマートフォンをテーブルに置きかけた刹那、それがブルブルと振動した。
こんな時間に電話がかかってくることは珍しい。仕事の事なら、夜の営業が終わってからだし、まぁそもそも、今時電話じゃなくて多種多様なメッセージツールが連絡手段だ。
疑問に感じながらも画面を見れば、『風見裕也』とディスプレイに表示される。生真面目な彼の相貌と、先日の飲みの席でのちょっとした詰問が脳裏をかすめて通話ボタンを押す手が若干鈍ったけれど、ひとつ息を吐いて、観念した指を画面に押し付けた。「もしもし」とちょっと震えた声で語り掛ければ、「今、どちらですか」と焦りが混じる声音が返って来た。
え、なんでそんな焦ってるの?
「家ですけど、風見さんどうかされました?」
名乗りもしないで質問してくることも珍しい。目を丸くしながら、尋ねれば電話の先で彼が押し黙った。無言、それもひどく重々しい無言が返ってきて、「風見さん?」と再度尋ねる。尚、無言を貫く彼に、私までひどく不安が伝染した。
いったい、何があった。
「風見さん、あの」
「落ち着いて聞いてくれ」
「え」と、間の抜けた声が出る。風見さんの声がひどく遠くに聞こえたのは、その内容を私が理解できなかったからかもしれない。
「高橋が、拘置所内で自殺した」
理解しようがない。どうして、と新たに生まれた疑問は私をまた蝕み始めた。
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