高橋勇が拘置所内で自殺をした。その一報は公安警察にどれほどの闇を落としただろう。追っていた組織の末端構成員。捕らえた男から一切の話を聞く前に、男は自殺した。
警視庁内に設けられた相談室、案内された部屋の中の空気はひどく重苦しかった。それもそのはず、目の前にいる風見さんの相貌には疲労の色が見えている。連日、取り調べを風見さんも担当していたと聞いている。その相手から何の情報も聞き出せずに、相手を死なせた。
敗北、その二文字を体現する顔色を伺いながら、私は口の端を結んだ。かけられる言葉なんてないから、ただ黙って無機質な空間を演出する。こめかみを押さえて項垂れていた彼は、ひとつ、大きなため息を吐くと懐から一枚の写真を取り出した。

「昨日、午後六時半頃に、職員が室内で首を吊っている高橋を発見しました。死因は窒息死」

置かれた写真を恐る恐る覗き込むと、室内の写真、そしてー

「……これは?」
「遺書、とみられます」
「高橋が書いたものなんですね」
「はい。筆跡鑑定でも高橋が書いたものに間違いはありません」

一枚の写真の中にあったのは、ただの書き置きだった。なんの変哲も無い書き置き、でもそこに書かれていたのは高橋の今際の言葉。

(人生に絶望した…ねぇ)

随分としっかりとした字で書かれているのに、なんて物悲しい内容なんだろう。人生に絶望した、とだけ書かれた寂しい文面。人生に絶望したと書き残した男の心境を推し量るほど私は聖人君子ではないけれど、室内で首を吊って発見された高橋へ少しだけ想いを馳せる。
ひどい男だった。勝手に私を仲間を殺した犯人と勘違いして、家に押し入っただけではなく蹂躙しようとした。こみ上げた激情は男の死を望む程度には猛々しく、荒れ狂う怒りの龍は昇華されることなく内に鳴りを潜めていた。静かに敵の死を望む獰猛な龍はしかし実際に敵が死んだと聞かされると、やり場のない怒りを持て余した。
捜査の進展を阻むかのように死んでいった高橋。今頃、どこかでこの状況をせせら笑っているんだろうか。本人の心内は分からない。一人の人間が死んだ、それは世間的にはごくありふれた日常なのかもしれないけれど、私にとって、死は身近なものではなくむしろ嫌煙する対象だ。
できれば、見たくない。人が死ぬなんてごめんだ。死を願ってしまった手前、それは説得力のない言葉になってしまうけれど、私の心の奥底の感情はそう叫んでいた。

「大丈夫ですか?」

案じる声が空気を震わせて私の意識を声の主へと向ける。風見さんは怪訝そうに眉根を寄せて私を見つめていた。「大丈夫ですよ」とにこり。十八番の笑みで返せば、物言いたげな視線を残されたけれどそのままにしといた。
今一度、高橋の文面を見つめる。
そこで、ふと気になる文字を見つけた。紙の右端に小さくだが文字が記されている。目を細めた私に風見さんが「それですか」と眼鏡を一度掛け直して説明する。

「これ…To…B?」

走り書きされているような文字。しっかりとした筆跡ではなく、どこか荒々しい。あの筆跡からしたらこれが高橋の物なのかと思える程度には、崩れた文字。To.Bと記されている。
To.Bて、どういうことだ。Bへ?メッセージを誰かに当てた?「どういう事でしょうか」と風見さんを見上げても、彼も分からないのか難しい顔しか返ってこなかった。
To.B。Bへのメッセージと取ると、Bとは誰なのか。でも、人生に絶望した、というメッセージを送る相手とは誰か。高橋と旧知の仲?
そもそも、どんな意味を込めたメッセージだろう。

「……高橋についてですが、ひとつだけ判明したことがあります」

思惟に浸っていた私に風見さんが硬質な声を投げてきた。無防備ながらも受け取った私は、その瞳を見つめ、言葉を待った。
俯き加減の風見さんは低い声で続ける。

「高橋は、密入国者を引き入れるブローカーとして機能していました。が、高橋自身も密入国者として日本に居たことが分かったんです」

思わぬ情報に、身体が硬直した。

「……高橋は日本人じゃないってことですか?」

密入国者を引き入れる、仲介するブローカーも、実は密入国して入ってきた輩。ということは、高橋勇の国籍は日本じゃないということだ。
風見さんは頷くと、ひとつ間を置いてから口を開いた。


「背乗り、という言葉をご存知ですか」


一等、低くなった声音に自然と背筋が震える。背乗り。確か、警察系の用語ということしか知らない。
首を振れば、風見さんは重々しい口調で説明を続けた。

「実在する日本人に、他国の工作員などがなりすますことです。主に、身寄りのない日本人が狙われるケースが多く、この高橋勇…本物の彼も両親は既に他界しており、親しい友人、親戚もいない男でした」

身寄りのない日本人になりすます、背乗り。ぞわぞわと粟立つ背筋が嫌な予感を伝える。

「……あの男は、高橋勇、として生活してきた、ということですか?なら、本物の高橋勇は?」

そうだ。身寄りがないといっても、本物の高橋勇がいるはずだ。戸籍を乗っ取るなんて、同じ人間が二人いる事態に流石の行政も気付くだろう。
疑問を呈した私の言葉に、風見さんの言葉は無情だった。

「おそらく殺されているでしょう。もしくは、どこかに拉致されているか。戸籍上、本物は一人だけです。二人いることはできない」

風見さんの言葉に、それ以上の返しを見つけることができずに、開きかけた口を閉じた。
また、だ。またこの手の話だ。ここ最近で人が死んだとか殺されたとか、そんな話ばっかりだ。淡々と説明する風見さんにとっては、この手の話はありふれていることなんだろうけど、慣れているはずもない私は深く目を瞑った。

頭を抱えたくなる状況に自然と顔に影が落ちる。本物の高橋勇は背乗りのために消されて、偽物の高橋勇も拘置所内で自殺した。事実だけ見ると、げんなりする。
何のために、こんなに人が死んでるんだ。組織のため?黒づくめの組織がトカゲの尻尾切りよろしく高橋を殺した?

黒づくめの組織が絡んでいる。

あれ、と気づきを覚える。黒づくめの組織という単語を反芻したところで、ふと疑問が湧いた。
偽物の高橋は組織の末端構成員だった。

──それは、いつからだったんだろう。

ただ密入国して暮らしたいだけなら、背乗りをする必要はない。工作員として潜入するとか、そんな目的がないと背乗りは行われない。

もし、本物の高橋勇も《組織の末端構成員》であって、何らかの形で死亡していたのなら?

人の死、はいつの時代であっても人々の関心の対象になる。死が絡めば警察も動く。
仮に、組織への糸口を掴みにくくするために、高橋勇、を背乗りさせる計画が立てられたのだとしたら?密入国者を仲介していた組織の末端構成員の死を消すために、背乗りが計画されたのなら?

疑問が疑問を呼んで、深読みしすぎだと頭の中で理性が警鐘を鳴らす。突拍子もない話だ。本物の高橋勇について私が知るすべもないし、偽物の高橋の真意を聞くこともできない。全ては憶測に過ぎないのに、でも胸は騒つく。
少なくとも、偽物の高橋勇は組織に絡んでいた。それだけは事実だ。
なら、その死が組織絡みと考えるのは、自然なことで。

(……考えても仕方ないけど)

でも、思考は生き物のように止まることはできない。次々に、情報を統合しろと私を駆り立てる。巻き込まれているからという理由付けもあるけれど、ただ漫然としているだけで事態が過ぎ去るわけじゃない。

「刀海さん」

唐突に、風見さんが私を呼んだ。思考の渦の中で溺れていた私はひょこりと海面に顔を出す。風見さんを見つめれば、硬い顔の中にどこか迷いが見えた。どうしたのだろう、とその瞳を見つめれば、風見さんは目を伏せる。逡巡するような仕草に「風見さん?」と声をかければ、彼は浅く息を吐いた。

「どうも私は、貴女を疑うことに慣れていないようだ」

自嘲に歪んだ口元からそんな言葉が吐かれたもんだから、混乱するのは無理もないと思う。どうした風見裕也。務まっているか気にしているのか。思わず軽口が出かけた口を縫い付けて、風見さんに視線で先を問いかける。

「……初めは、貴女がそうだと思っていました」
「…そう、て…え?」
「背乗り、ですよ。身寄りのない女性、記憶喪失。この情報から、いずれ記憶を取り戻して、何者かになりすます可能性がある、そう踏んでいた時期もありました」

「結局、貴女が現れる前から高橋という背乗り犯がいましたが」と風見さんは苦笑する。突然の風見さんの告白に、はた、と思い当たった。
そうだ。風見さんと結城が店長と会っているところを発見した時の会話だ。あの時は、二人の会話の断片しか聞き取れなかったけど、風見さんの話を聞いて合点がいった。

《……違う…あ、…子……関係……》
《は…のり……は、薄れ……》

は…のり、が恐らく背乗りのことだ。店長が、私が密入国をした厄介者の可能性を否定していて、風見さんが背乗りの可能性か何かが薄れた、と言っているとしたら、今の風見さんの話は頷ける。
風見さんからの情報でいろいろなピースがはめられていく感覚が脳髄に染み渡っていく。

「……仕方ないですよね。私、おかしいところしかないですから」

ここに来てからの、何故、がひとつ解決して、自嘲にも似た笑いが漏れた。理解した事実は、それでも物悲しく私の前にある。
ここまで言われても、何も言えない。記憶喪失なんて嘘、違う世界から来た、組織のことを知っている、別の公安捜査員と繋がっている、店長と公安の関わりも知っている、

──安室透の正体も、知っている。

何ひとつ、私は伝えられない。

改めて目の前にある私の現状に、拳をぎゅっと握りしめた。

「貴女は不思議な人です」

風見さんの声はやけに柔らかだった。その声につられて顔を上げれば、先日とは違う、鋭さが際立つ眼光はそこにはなかった。

「何もかもを見透かしているような目をすると思えば、屈託無く笑うし、人の死には動揺もする。ごくありふれた一般人のように見える時もあれば、事件の関係者かと思われる行動も見られる」
「風見さん…」
「公安警察官として、貴女を疑い、詰問する必要があると頭では理解しています。しかし、」

説明口調なのに、その語りはひどく緩やかで。

「疑うべき対象かもしれませんが、自分は貴女が誰かを傷つけようとする人間には思えない」

もしかしたら、公安お得意の懐柔策かもしれない。飴を与えて、情報を引き出そうとするだけの言かもしれない。
それでも、彼の曇りのないまなこに、口を割りたくなる。全部、投げ出して。

「風見さんは、優しいですね」

しかしそれをしないのは、鉄仮面を被りながら私の手を引いた男の後ろ姿を、覚えているからだ。
同じようなことを結城に言われる前だったら、私はこの人に、手を伸ばすことができたのかもしれない。

「ありがとうございます」

痛む胸の鋭さが、いかほどのものか、もう私には分からない。


46


言葉の遊び リンク文字