あの空の広さを見たのはどこだったっけ。真っ白な室内にある大きな窓には、これまた真っ白なレースカーテンがたなびいていた。ふわりふわりと揺れるカーテン越しに、ちらちらと青が視界にちらつく。嗚呼、邪魔だな、て思った私とリンクするように、空が見たい、とあの人は言った。そうだね、空見たいよね。こんな狭くて、動けないところじゃない広大な空間。どこまでも続く、手の届かない場所。恋焦がれる気持ちに似た切望とともにカーテンを開けたら、澄んだ視界は部屋の中に飛び込んできてそして──
「洸さん?」
はっと、呼ばれた声に身体が反応した。追想していた身体が現実に引き戻されて、目の前の景色を網膜に映し出す。どこまでも広い空、眼下に広がる街には人や車が行き交っている。「大丈夫?」と真摯な瞳を向けてきた丸い瞳に笑みひとつ。
「ごめんね、ぼーっとしてた」
「……何か、考え事?」
「んー、そうだね。少し」
何を、考えていたっけ?
昔見た景色、空間、空気、五感で感じていたはずのそれは鮮明に思い出すことができずに首を捻る。懐かしい景色が広がって、懐古の念に胸がいっぱいになって、それから……が、あまりよく分からない。もう一度、続く地平線と広大な空を眺めてもあの胸を締め付ける想いは帰ってこなかった。
「すごーい!」「たかーい!」と、黄色い声がフロアに響き渡る。普段なら、喧騒で埋め尽くされるだろうフロアに響くのは数人の喜色の声だけで、時折「ガキンチョなんだから」と、茶々を入れるような園子ちゃんの声が入り込んだ。
ベルツリータワー、あちらではスカイツリーと名付けられた世界一の高さを誇る塔。ちなみに、建設理由は単なる観光誘致ではなく、都心の電波状況の改善である。建築物が乱立する東京ならではの悩み、ビル群に電波が遮られる電波障害が随所で見られることを改善するために、在京キー局、及び某公共放送でつくる建設推進団体が、建設計画を推進した。
と、いうのはあちらの世界の話。こちらでは、鈴木財閥が観光誘致のために建てた設定だ。鈴木財閥の財力の底知れなさを感じるけれど、本当にそれを感じたのは、今現在の状況を園子ちゃんの鶴の一声で作り出したことだ。
「感謝しなさいよー。一般客の貸し切りなんて早々できることじゃないんだから」
「はーい」と元気良い声は、少年探偵団の三人。改めて訪れたベルツリータワーの高さに嬉々としてお喋りに花を咲かせている。後方には阿笠博士と哀ちゃんが控えていて、哀ちゃんはといえば、フロア内で飲食を楽しめるバーにアイスを買いに行こうとする博士を冷眼で抑え込んでいた。小さくなっても良い女っぷりを発揮する子だなぁ。
「みんな、楽しそうで良かった」
思わず綻んだ頬に、「ごめんね」とコナン君が謝罪する。なんで?、と視線で問い掛ければ、彼は苦い顔を浮かべた。
「本当は、蘭姉ちゃんと園子姉ちゃんと、梓さん、安室さんの四人だけの予定だったんでしょ?アイツらがその話聞いたから行きたいって」
はしゃぐ子どもたちを視界に入れながら話すコナン君に、首を振る。「謝らないで。むしろ、大勢の方が楽しいから」と、笑いかけて改めて眼下に広がる景色を視界に収めた。
元はと言えば、私の気晴らしのためだけの企画だった。ポアロで出会った女子高生二人にまで先の事件のことは気を遣わせていたようで、言葉の節々に気遣いの色が見えていた。大丈夫、なんて直接的な言葉を避けるあたり、大人だなぁ、なんてぼんやり思っていたら、唐突に園子ちゃんが言ったのだ。
「ウチのタワーに行きましょう!なんて、言われたら皆で行くしかないじゃない?」
悪戯っ子のようにコナン君に歯を見せて口角を上げる。フロアを貸し切るなんてこの先早々できることでもない。なら、ポアロで「いいな〜」と言った子どもたちを誘わないなんてことはできないだろう。
かくして、現在、このベルツリータワーの展望フロアには、少年探偵団のみんな、阿笠博士に哀ちゃん、コナン君、蘭ちゃんと園子ちゃんに、梓さんと、何故か都合のついた安室さん、という大所帯がいる。これだけ見ると結構な人数だけど、展望フロアは日に一万人以上が訪れると言われているから、夕方前から日が落ちるこの時間まででも、この人数で貸し切るというのはなかなかできないことで。鈴木財閥のご令嬢の鶴の一声は経済界をも動かすのだろうかと若干冷やっとした。鈴木会長より園子ちゃんの方が権力があるんじゃないか。
薄ぼんやりと佇立する私に物言いたげな視線を送るコナン君。視線に気付きながらも、気づいついないふりをする私は、「洸おねえさーん!」と手招きする歩美ちゃんの笑顔に、傍に立つコナン君の手を引いた。長閑なひと時を楽しむには煩雑な事案が多すぎる私の身の上だけれど、それを演出するのが大人の対応というものだ。
それでも、久々の穏やかな日常に、頬が緩んだのも事実だった。
タワーに来て小一時間経つ頃には夕焼け空が地平線の上に広がって、茫洋と広がる世界を茜色に染めていた。男女が来ていればロマンチックな光景も子どもたちにとってはただの非日常の景色で、相変わらず、すげー、とか、きれー、とか心赴くままに言葉を連ねていた。呆れ顔で見る園子ちゃんの目はでも優しくて、その場にいる全員が、暫しの間、視界いっぱいの赤を堪能した。
「それじゃ、あたし達はそろそろ降りましょっか」
パン、と手を叩いて、改まった声を出した園子ちゃんに首を傾げる。あたし達は?そろそろ?もうすぐ、お客さんに解放する時間なのだろうか。日が落ちる時間帯なので、もう貸切は終わりということかと思い、「えー」と駄々をこねる子ども達を先導するべく、展望フロアの一階下にあるエレベーターへと足を進めようとすると、園子ちゃんが、そそそ、と忍び足で横に来た。その顔には含意があって、意味深な視線に怪訝な色を返すと園子ちゃんは笑みをさらに深めた。
「先に下に降りてますね」
「……先?」
「がきんちょのお守りは任せてください、てことですよ。一緒に夜景を見たりして下さいね!」
ちらりと視線が転じた先にいるのは団子になって此方へとやって来る子ども達。そして、後方から続く女性陣が、私と目が合うやいなや、含み笑いを忍ばせた。
んん?なにごと?と益々怪訝を表に出した私は、しんがりを務める彼を見て、はた、と気付いた。気付くと同時に園子ちゃんを見て、「いや、いいから!」と手を左右に揺らして断りを入れたけど、園子ちゃんは私のその態度を、気恥ずかしさ、と取ったらしい。
「遠慮しなくていいですから!」
違うそうじゃない。そもそも、そんな関係ではないんだ私達は。というか、今はむしろめちゃくちゃ気まずい。
安室さんから私へ向かう印象は決して良いものではない。確かにあの時、いの一番に私を救ってくれたのは安室さんだ。けれど、私の存在に対して疑念が先行している今、彼と二人きりにはなりたくなかった。
とはいっても、彼女はそれを知らない知る由も無い。側から見れば確かに、彼は私を救ったヒーローかもしれないけれど。
風見さんなら、違ったかもしれない。あの人は優しいし、甘い。私に関する情報を提供してくれたあの人となら、世界一高いタワーからの夜景も格別なものとなっただろう。
「園子ちゃん、あのね」
「あー!そういえば、洸さん!向こうのベンチに忘れ物してましたよ!」
「え、ぇえ…」
ざ、雑!ちょっと待て、私をここから引き離すにしても理由が雑すぎて逆に動揺する。
強引すぎる園子ちゃんの言動に右往左往してしまったけれど、結果として助け舟を出してくれたのはまさかの安室さんその人だった。
「ああ、なら僕が取りに行きましょうか」
「え、あ…いや、安室さん違うんです」
にこりと綺麗に弧を描いた相貌が逆に怖くて。
でも、スタスタと私の制止も聞かずに戻って行ってしまった安室さんをそのままにもできず。去る皆を尻目に、すぐ戻るからと言葉をかけようとしたけれど、含んだ笑みを浮かべていたのは園子ちゃんだけではなかった。去り際の蘭ちゃんと梓さんもまた意味深な視線を寄越してきたため、グルかと嘆息する。お構いなく、と動いた唇を若干恨んだ。楽しんでいるな、畜生。
じとりと睨みを利かせても大した意味はなくて、仕方なく先に行ってしまった安室さんの背を追いかけよう前を向く。
すると、背中に「コナン君行くよ」と蘭ちゃんの声が届いた。その声にピタリと足が止まり、緩慢に視線だけを転じる。
転じた先にいた彼は、丸い瞳を私に向けていた。何かを問いたい、でも問えない。煩悶するような視線が向けられて、しかし直ぐに逸らされる。
「今いくよ」と蘭ちゃんの方へ走っていった彼の背中に、少しだけ心が痛んだ。
「安室さん、私、忘れ物なんてしていませんから戻りましょう?」
スタスタと行ってしまった安室さんを追いかければ、腰を掛けるタイプの手すりに体重を乗せて景色を拝んでいた。
忘れ物、なんてないことが分かっているくせにこの場に来た彼の真意なんか聞きたくなくて、知らぬ存ぜぬでそう語りかければ、安室さんは首だけで振り向いて、「どうぞ」と宣った。
会話のドッジボールかよ。
「あの」
「せっかくですから、見ていきませんか」
「え?」
「夕陽が沈んで夜になる東京なんて、なかなか見ることができませんよ?」
ベビーフェイスの笑みに夕陽が落ちて、イケメン具合に拍車がかかる。ポアロでは懐疑の瞳を向けられていたけれど、今は多少なりともその瞳は鳴りを潜めている。トリプルフェイスは伊達じゃない。
安室さんの提案に、まあ確かに、と一人納得する。がらんとしたベルツリータワーなんてこの先拝むことも踏み入れることもできないんじゃないか、ましてやそこで夕焼けを見るなんて、と思えば少しだけ気がまぎれる気がして。安室さんの横で、手すりに体重をかけた私は同じように景色を見つめた。
ガラスの向こうに、ぎっちりと敷き詰められた建物、遠目に見えるのは東京湾、あちらは薄っすらと雲がかって富士山が拝める。東京の一角に聳えるベルツリータワーからの景色は圧巻そのもので、眼下に広がる光景に誰もは一度は息を飲むんじゃないんだろうか。ベルツリータワー、こちらでは、スカイツリー。空の世界に一番近い場所。そんな場所から東京を一望すると、ちょっとだけ優越感を味わうことができる。
豆粒程度にしか見えない人、ボール程度の車、人の営みが蠢いていて、凄い、と思いつつ、でもそれはひどく、虚しくて怖い気がした。
鈍く光る手摺を握って、圧倒的な物量の景色を見渡す。
あそこにも、ここにも、そこにも、人が群をなしていて、それは一人一人というよりはひとつの群れだ。いや、本人達は決して群れとは露ほども思っていないんだけれど、私から見ると、ただの命の集まりにしか見えない。ひとつひとつは確かに個々の命なのに、その価値が揺らぎそうなほど、この土地は巨大だ。
「そろそろですね」
「……え…あ、本当だ」
安室さんの声に意識が空の彼方へと向けられる。
無為な思考に耽っているうちに、夕闇が訪れた。夕焼け空に広がる闇が一日の終わりを連れてくる。幻想的で少し物悲しい景色。黄昏時に染まる空がまちを橙色に染めていき、染み込む闇が一日の終わりを刻一刻と告げる。
「きれい」
全部を飲み込む。人の営みも無機質なビル群も何もかもを飲み込んでいく、光と闇は美しかった。
「日没直後に夕焼けが残る時間帯を黄昏時、というのはご存知ですか」
ぼんやりと幻想世界に浸っていると急に安室さんが問いかけてきた。世間話をするような口ぶりだけれど、この人との会話が世間話になることは少ない。
けれど、なんの話かと思惟を巡らせても上手い返しなんて見つからないから仕方なく肯首する。夕焼け空に闇が広がる時間帯は昔から黄昏時と呼ばれる。この世とあの世の境、逢魔時とも呼ばれて、不吉なもの、この世ならざるものに遭いそうな時間だと人々に恐れられたとか。
でも、それがどうしたんだろう。
「闇が広がりだす時間、黄昏時。太陽を表す黄色と闇を表す昏、この二つの字が合わさって黄昏時と表記されますが、もう一つの意味をご存知ですか?」
もう一つの意味?、とおうむ返しに安室さんに問い返せば、彼はスカイブルーの瞳を僅かに細めて口元を歪めた。
「誰ソ彼、あなたは誰」
やけに低く意味深な声音にぞくりと背筋が冷たくなった。
薄れゆく夕焼けに照らされたアイスブルーの瞳が、なぜか、灰色に見えた。
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