「人の顔の識別が付きにくくなる時間帯に相手を確認する意味も含めて、誰ソ彼。あなたは誰ですか、という意味も黄昏時という言葉にはあるんですよ」

細められる目に自然と身体が緊縮する。

「そ、そうなんですね。安室さん博識ですね、はは」

嫌な汗が背筋を流れて、口が渇いて生唾を飲み込む。どくどくと脈打つ心臓が煩くて、無意識のうちに胸に拳を当てていた。口元は不恰好な笑みが貼りついて、奇妙な相貌になっているのに安室さんはただ妖艶なほど綺麗に弧を描いて笑うだけだ。

貴女は誰。つい先日も同じようなことを同じ立場の人間に問われた。幸いなことに、彼は私をシロと認めはしなくても、悪と認定はしなかった。その無条件の優しさは、しかし彼ならではのものなのだろう。
対する目の前の彼は、敵意とは言わないまでも、懐疑の眼差しを決して緩めはしない。
その視線に鬱屈とした感情が内に立ち込める。

また、だ。またこの状況。何度繰り返したか分からない彼との関係性。最初から変わったことはないと言えばそうだけど、少しは変わったかと自惚れていた、彼との関係。
変わるわけがない。ハナから私の存在は、背乗り犯かと疑われていた。例えその嫌疑が終わりを迎えても、今の私の状況と私の態度は彼に不信感を抱かせるばかりだ。秘密を秘密のまま終わらせるために、私は世界を騙すことを選んだ。たった一人、私の本当を知る人間がいればいいと、拒んだ世界。
満点の星空の下、少しだけ歩み寄った彼に応えた、その繋がりが、今はひどく虚しい。

──嗚呼、嫌だ。なんだか、もう


「疲れたな」


ぼそりと、脳内で呟いたはずの言葉が空気を振動させた。吐露してしまったと気づいた時には遅くて、傍らに立っていた安室さんをおそるおそる仰ぎ見る。
合わさった視線は少しだけ驚きが含まれていた。虚を突かれたような相貌は、しかしすぐに狐面を被る。

「その、あれです。人間関係とか、そういうわけじゃなくて。その…」

尻すぼみになる言葉が痛々しい。言い訳がましく言葉を並べてみても言い訳のようにしかならない。

「……ほら、人が沢山いると疲れるというか。やっぱり上から見たら東京って人とかビルいっぱいだから、田舎の方が私には合っているのかな〜、なんて」

苦笑に苦笑を重ねて苦し紛れの笑みひとつ。それでも、彼は涼しい顔しか返さない。嫌だな。気持ち悪い笑顔だ。

あーとか、うーとか言葉を連ねていると、ふと、

(結城なら…)

私の手を引いた、彼の相貌が思い浮かんだ。
ぶっきらぼうで、私を疑いながらでもそれを言葉にして、そして私を受け入れてくれる存在。結城がここにいたら、と目の前の彼の後ろにあの仏頂面を重ねた。
嫌な思考が働く。楽な方へと逃げたがる、私の悪い癖だ。

臨海都市の広く高い空を見上げたあの日。疲れていた自分を俯瞰して見てみろ、と言わんばかりの彼の態度が脳裏に蘇る。彼と過ごした、たったの数時間が、心に清浄な空気を与えた分、現実が見えるこの景色も、私を鋭く射抜く目の前の彼との時間も、私に重苦しい気持ちしか抱かせない。

ただ、と、ひとつ瞬く。

(笑わなきゃ)

何かを演技して、知らないふりをして、貼り付けた笑みに疲弊しても、それでも、彼を目の前にしている今、頼みの綱の結城を思い浮かべても詮無いことだ。

「……ほんっとーに、都会には慣れないんですよね〜。疲れちゃいますよ、人の波に」

へら、と十八番の笑みを浮かべる。不恰好じゃない、綺麗過ぎる笑み。結城に褒められた、無難な笑顔でこの状況をかわしてみようとした。

けれど、

「……安室さん?」

当の安室さんは、今度は笑わなかった。灰色の瞳に映るのは呆けた私だけで。ニコニコ笑顔が通常運転の安室さんの相貌は、感情ひとつ読み取れないトリプルフェイスとなってしまっていた。
その顔にぞくりと背筋が粟立つ。まじか、狐面のままでいてくれよと嫌な汗が流れる。

「安室さん、顔怖いですよ?」

キョトンと小首を傾げて見せても彼は相好を崩すことはなく、能面が貼り付けられた相貌に思わず後ずさった。

(こわい…)

純粋にそう感じてしまった。今の彼は、降谷零でも、勿論安室透でもない。深い闇、一等底の読めない暗闇の顔、当に、例の組織の顔のようで。
何を考えているのか分からない顔は一番怖い。今までも彼の思考が読めない場面はあったけれど、今は本当に、彼の感情の一端も読めやしなかった。
この状況は良くない。

とにかく、この場を離れてしまおう。そう思い、「そ、そろそろ帰りますか!」と、取り繕った笑みを貼り付けて彼に背をつけようとした。

刹那、鈍い痛みが右手首を襲った。

「ッ、安室さん…」

大の男の、しかも鍛えている成人男性に手首を掴まれて逃げ果せるほど私は運動神経は良くない。訓練を積んだ警察官ならなおさらだ。
悲鳴をあげる腕に眉をひそめる。ぎちり、と拘束されて、振りほどこうと捻ろうものなら痛みが余計広がった。走った鋭利な痛みに顔をしかめて安室さんに抗議の視線を送ったけど、暖簾に腕押し状態で、その顔貌はやはり変わらない。

「また、ですね」

能面から、ぽつりと吐露された言葉に眉をひそめた。

「……何がですか」
「分かりませんか?」
「思っていることは言葉にしないと分からない。安室さん、自分で言っていたじゃないですか」

これは彼が私に伝えた言葉だ。あの日、満点の星空の下で私の心を少しだけ溶かしてくれた彼の言の葉を私が彼に伝えるなんて、皮肉なものだなと自嘲する。
挑戦的な目で彼を見据える私に、安室さんはしっかりと視線を受けて応えた。

「あの時と同じです。貴女はまた、何かを抱え込んでいる」

また、あの目だ。灰色に近い瞳が私を見つめる。深淵を覗き込み、私の奥底まで見透かすような瞳が私を捉えて離さない。
真っ直ぐ、揺らぎのない瞳に、心が騒ついた。

「秘密のひとつやふたつ、誰だってあるって、安室さん言ってましたよ」
「ということは、何かを抱え込んでいる、と言うのは事実なんですね?」
「………別に、安室さんに関係はありませんよ」
「僕に関係あるかどうかなんて聞いていません」

駄目だ、話せば話すほどドツボにはまる。結城は、私の笑みは大抵のことをかわせるけれど、会話にハマると落とされる可能性が高いと言っていた。まさに、これのことか。
会話のテーブルに引きずり出されたら駄目だ。
安室さんの言葉にとりあえず視線を外してだんまりを決め込む。口を固く閉ざした私に安室さんはわざとらしくため息を吐いた。

「……ここ最近、貴女は明らかに不自然なんです」

ぽつりと吐き出された言葉に、思わず安室さんに視線を戻す。

「殺人現場にいたことも、その犯人に襲われたことも、あとはそうですね……何故か殺された相澤の会社に行っていたこと、とかもですかね」

最後の一つにどきりと心臓が脈打った。思わず見開いた瞳に安室さんは目敏く気付いたのか、目が細められる。
さすが、というべきか。けれど、そこまでの調べがついていることに動揺はしたものの、さほど驚きはしなかった。
相澤智則の会社に私が顔を出していた。この事実は誰にも話していない。話したが最後、私以上に厄介な立場になるのは結城だ。私は結城からの情報で相澤智則に辿り着いて、そこから高橋、更には事件現場へと誘われた。
側からみれば、事件の関係者と思われて仕方がない状況。だからこそ、安室さんは今、私に探りの顔を向けている。

「出自も経歴も分からない人間としては悪目立ちし過ぎている。貴女の行動は、あまりにも不可解だ」

一切の感情を削ぎ落とした瞳が私を見据える。僅かでも私の身を案じて陽のあたる場所に呼び戻そうとした、あの暖かな瞳はもうない。

けれど、それを望んだのは、それを選んだのは他ならない私だ。

「それを言うなら、安室さんだって変ですよ」

怜悧な瞳を受けて、それでもへらりと笑う。内心、みっともなく怯えているし、全部投げ出したい気持ちに苛まれているけれど、でも、私を信用して手を差し伸べてくれている結城のことを思うと、まだ大丈夫となけなしの勇気が顔を出した。
「変?僕がですか?」と怪訝に眉を顰めた安室さんに頷く。


「安室さん、どうしてあの時、私の家に来てくれたんですか?」


ぴくりと、安室さんの眉が動く。その動きに、口の端を結んだ。


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