ずっと、聞きたかった問いだった。
あの日、私が姦淫されかけた時、すんでのところで私とコナン君を救ってくれたのは他ならぬ彼だ。風見さんでも結城でもなく、彼だ。まるで映画の中の主人公、ヒーローのように現れた彼はひどく眩しかった。
けれど、何故そうなったのか。それを聞けずじまいでいた。
佐藤刑事や高木刑事に私が狙われた理由とか犯行動機ばかり聞いていたから失念していたけれど、思えば不可思議だったのだ。
何故、あの場所に彼が来ることができたのか。
あの日、私達の状況は誰にも伝えることは出来ていなかった。店長と電話しようとした刹那、スマートフォンは奪われて電源を切られたため、状況を外部に伝えることはできなかったはずだ。
「あの時、私もコナン君も外に連絡する手段はありませんでした。誰にも助けを呼べなくて、怖くて、どうしよう、て思ってました。だから、あの時安室さんが来てくれて本当に、…本当に嬉しくて、ホッとしたんです」
思い出すだけで反吐が出そうな記憶に、へらりとした顔が歪む。
それでも、「洸さん」と僅かに震えた彼の声に、けど、と被せた。
「どうして安室さんが、私の身に危険が迫っていたことを知っていたのか。分からないんです」
「それは、」
「前に安室さん、私のこと調べてましたよね。ホテルの宿泊記録の不審点、私が吐いた嘘、今もまだ私のことについて何か調べているから気づいたんですか?それとも、……尾行でもされましたか?」
「違います、僕は」
「なら、なんで…ッ」
思わず昂ぶった声に、自分自身が驚いた。ハッと息を飲んで、バツが悪くなって閉口する。
どうして、こんなに感情的になっているんだろう。頭の片隅で私を俯瞰した私が呟いた。冷静に、頭を回転させて、相手に気持ちを悟らせない。ありがたい教えを教授してくれた結城の言葉に反して今の私はひどく感情に揺さぶられている。
安室さんを前にして、いや、どちらかというと、
(バーボン…)
感情を読ませない。しかし相手の深淵を探り暴こうとする狩人の目。それは、私が見てきた彼ではない、ひどく怜悧な瞳。
その瞳が私に畏怖を抱かせたのかもしれない。仄暗い瞳の底に見える鋭い眼光に竦んで、彼の瞳の中には怯えた自分が見えた。
黒の組織の一員。底冷えするような瞳を湛える彼に、ふと、先日見た写真の文が脳裏に蘇った。
『人生に絶望した。To.B』
(……もしかして)
どくんと心臓が高鳴った。
気にかかっていないわけではなかった。頭の片隅で、この文について考えたことは何度があった。
でもなぜ、今この瞬間、この文が脳裏に蘇ったのか。
答えは、目の前の彼の瞳にあった。
高橋勇の今際の言葉とおそらく誰かへのメッセージ。背乗り犯として、そして組織の一員として動いていた高橋勇が誰かにメッセージを残すとしたら、身内がいないことを考えるとそれは組織側の人間じゃないのか。
そこまで思考を巡らせ、高橋の自殺に絡んだ情報を羅列すると、ひやりと背筋が凍った。
高橋の取り調べは公安警察も担当した。
高橋は、黒の組織の構成員だった。
トリプルフェイスの彼は、組織の構成員。
高橋は何故、自殺をした?
情報の羅列だけでは憶測しか呼ぶことはできない。好きなように繋げた情報が間違っている可能性は十二分にある。
それでも、今自分を底冷えするような瞳で見下ろす彼に無意識に生唾を飲み下した。
(いや、ないないないから)
落ち着け、と自分自身を説き伏せる。
そもそも、高橋が自殺することによるメリットなんてものは、彼にはないはずで。追い込むなんてこと、流石の彼でもやらない。あり得ない。命を奪う意味なんてものはないはずだ。
けれど、と、目の前の氷の視線をチラ見する。
無色の瞳には一片の感情も映っていなくて、自分の予想がもしかしたらあっているのでないかと錯覚しそうになった。
沈默が無為に流れる。
茜色がだんだんと薄れて、濃紺が空を覆い始める。闇が染み渡る空間と一緒に、自分の心も塗りつぶされてくれればと思った。焦り、不安。近づいては離れる彼との関係性が神経を摩耗させる。信用なんて生半可なものを結べると思ってはいなくても、面と向かって向けられる懐疑の瞳と言葉に、能面を被ることができないのは私の弱さだ。それどころか、彼のひどく冷徹な瞳を見て、恐れすら出てきている。
ひとつ息を吐く。とにかく、落ち着いて安室さんと話さないといけない。怖がっていても、逃げたくても、今ここにいるのは私一人なら私がどうにかしないといけないのだ。
(夢なら覚めればいいのにね)
自嘲に歪んだ相貌が、脳裏で語り掛ける。
馬鹿馬鹿しい。迷い込んだ以上、此処が現実だ。
「教えて下さい、安室さん」
感情の読めない瞳を見据えて、色のない声音で言い放つ。押し殺した動揺が表に出てきていないことを祈って、拳を握り締めた。
安室さんは、私を仄暗い瞳で見つめていた。けれど、ふと、思案に浸るように目をうっすら細めて視線を逸らした。あくまで泰然と佇んでいるが、空いている手を顎に当てて考えるそぶりを見せる彼に「安室さん」と再度促す。
安室さんは、数秒間を置いた後、私に向き直った。
「僕は、店長さんから連絡を受けたんです。直ぐに、貴女の家に行って欲しいと」
「店長が?」
どうして、と疑問符が浮かんだ矢先、安室さんが紡いだ情報に、思考が停止した。
「家に強盗が入ったかもしれない、と言われました。内容が内容ですし、慌てた様子だったので、僕も急いで向かったんです」
「あの電話があったから、貴女の家に行けたんです」と説明する安室さんの言葉を、もはやあまり聞いていなかった。心臓の音がやけに煩くて、折り重なる情報に思考が錯綜する。
店長が、私の身に危険が迫っていたことを安室さんに連絡した。その情報だけすんなりと受け入れればありがたく、二人に頭を下げても足りないくらいだ。
けれど、違う。
(だって、あの時)
蓋をしたい記憶を引っ張り出して、テーブルの上に並べる。パズルのピースを時系列順に並べると、違和感の正体はすぐにでてきた。
あの時、店長から確かに連絡が来た。高橋がインターフォンを鳴らして、無用心にも私は相手を確認せずにドアを開けた。そのドアを開ける直前、店長から連絡が入り、私は通話ボタンを押して耳に当てながら鍵を開けたのだ。「店長すみません。今、来客中なので後でかけます」と一息で伝えたのと鍵を開けたのは同時だった。
この直後、玄関から伸びてきた男の手にスマートフォンは取り上げられて《声を上げる間も無く》通話は切られた。
だからこそ、首を横に振る。
(ありえない)
つまり、店長が私の家に強盗が入ったなんて《予想できる》状況があるはずがないのだ。来客だからまた連絡する、と述べて電話が切られたのなら、また掛け直すと考えるが普通の心理だ。電話相手の家に強盗が押し入った、など予想できるのはコールセンター勤務の警察官くらいじゃないか。一声でも叫び声を発したり、物音がすれば別だ。しかし、あの時はそんな音すらなかったはずだ。手慣れた奴らは私の家に侵入した直後、私が手にしていたスマートフォンを奪ったのだから。ぼさっとしていた私は抵抗するという脳からの指令が運動神経に届く前に、あっさりと場を制圧された。
──なら、店長が私の異変に気付いたのは何故?
鈍痛が頭を襲ってこめかみを抑える。
こんなの、わけがわからない。わけがわからないけれど、事実は事実しか伝えない。安室さんが嘘を吐いている?いや、嘘を吐く理由がない。なら、店長はいったい何?高橋の協力者?組織の関係者?公安の協力者のはずなのに?秋穂さんは何か知っているの?
ぐるぐると収束しない思考が四方に伸びて、可能性を無限に取り寄せてくる。確定情報は何一つとしてないのに、理解できない現実だけが目の前に落ちている。
ひどいな、何も分からない。
「洸さん」と感情を殺した声が掛けられる。同時に、痛いほど握られていた手首が解放された。「貴女に尋ねます」と、有無を言わせない声が私を彼の前に今一度立たせて、彼は容赦ない声色と目色を向けた。
「何故、あの場にいたんですか?いったい誰から、その情報を受けたんですか」
強烈な圧迫感に身体の芯がビリビリと震えた。相手を探るにかけて、圧倒的な経験値の差を見せつけられた心地だった。
生易しく探る瞳じゃない。仄暗い奥底が見えない瞳に射殺すような光が宿っている。有無を言わせない声音が効果的なのは、彼が今、説明した情報が重なっているからだ。彼は私を情報で殴り揺さぶった。動揺を誘われた一般人が訓練を積んだスパイに詰問されて、のらりくらりと逃げ果せるわけない。
蛇に睨まれたカエルよろしく硬化した全身に息が詰まる。「私は、」と紡いで、でもその先をどうすれば良いか分からずに閉口した。結城の名前を出せば迷惑が掛かるのなら、名も知らない他人から聞いたとでも言うか。いや、すぐに嘘だとバレる。
結局、返せる言葉なんてない。
そんな私に、しかし安室透は容赦なく口撃を浴びせる。
「失礼ですが、貴女ひとりが動いているとは思えない。貴女になんらかの形で情報を提供する人間がいないと、貴女が動けるはずがない」
「それは、」
「貴女は、あまりにも普通なんですよ。あんな事件に関わってしまうような人間じゃない。動揺して瞳孔が開いたり、話し過ぎたりするのは貴女が陽のあたる道を歩んできた証拠です。いくらそれらしく振舞っても人間の本質は変わらない」
それらしく、とはいつか安室さんに言われたあのセリフか。どこでそんな目を覚えたと詰め寄った彼に対して私は綺麗な弧を描いた口元を向けたことは記憶に新しい。
安室さんの分析は的確だ。そう。らしく振舞うことはきっと誰にでもできる。誰だって多少の練習を積めば真似事くらいはできるのだ。
でも、身の深い部分まで浸からせることができる人間は、そうはいない。彼のように、その道に染まるその覚悟がある人間にとって、私のような人間は演技をしている風にしか見えないのだろう。
敵わない、敵うわけがない。そんなことは百も承知だ。
人間の本質は変わらない。そうだろう。彼は、私という個を分析して、脳内でデータとして記憶している。そのデータ通りの情報を私にただ伝えているのだ。
(けど、踏ん張らないといけないんだ)
ひとつ瞬いて瞼の裏に映し出された人影を見つめる。
「……何を知っているんですか」
洸、と名前を呼んでくれた彼は少なくとも、私にとって安室さんの言葉をはねのける覚悟を持たせる程度には重くて。
私に手を差し伸べてくれた彼にマイナスになるようなことを意地でもしたくなかった。
低く、唸るような声が出て。口元に微笑を浮かべているのに、出た声音はひどく冷めていた。
「安室さん、私の何を知っているんですか?」
言われなくても分かってる。その道のプロからしたら、私の演技なんてお粗末なもので、詰問に動揺する程度の精神力で、強者の腕を振りほどく力もない。ただの人間、ただの一般人。そんなことは、理解している。
それでも、貴方は──
「私のことなんて、何も知らないでしょう?」
なにひとつ、私の秘密を知りやしない。心の奥底にあるどす黒い感情が溢れ出す。
線引きした私と貴方の関係。それを見て、立ち位置を明確にして背を向けてくれていたら、こんな感情見せることはなかったのに。
言葉を止めた安室さんに対して、私の言葉は止まらない。
「私の行動を観察したところで、私に探りを入れたところで、私個人のことを分かるわけがない」
「少なくとも、貴女は嘘を吐いている、ということは分かりますよ。……ほら、また反応した」
細められた目が、私を嬲るように見定める。感情がひとつも見出せない瞳を睥睨した。
「……だったら、なんだっていうんですか」
握りしめた拳に込められているのは、押し殺したい恐怖でも畏怖でもない。怒りに似た、けれどそれとも違う何か。静かに胸の内で燃える焔が私の口を無理やり開けさせる。
わけがわからない現実も、見透かしたような視線も、私に祝福をくれない。理解できないことが多過ぎて、知らないことが多過ぎて、自分の手に負えないことに押し潰されそうになって、それでも、と足掻く。
世界が私を見捨てるなら、自分自身の足で立って迎え撃つしかなかった。
「ただの私立探偵の安室さんに話すことなんて何もないです。それとも、私を見張らないといけない立場にでもいるんですか?」
挑発的に歪められた口元に安室さんが初めて色を見せた。ひくりと目元が揺れて、仄暗い瞳に鋭い光が走る。必要のないことまで口走ってしまう程度には、今の私は感情的だ。いや、なりふりかまってられないのかもしれない。
少しでも安室透が私に近づけないようにしないと、結城に迷惑がかかる。
迷惑をかけるなと幼い私が囁いて、分かってるよと相槌を打つ。
私には、もう、彼しかいないのだ。
沈黙がしばらく続いた。私の問いに安室さんはじっと押し黙った。今、彼は私を見て何を考えているだろう。虚勢の化けの皮を剥がして全てを暴こうとでもしているのだろうか。或いは、私が組織側の人間かどうか見定めているのだろうか。
無言空間は苦手だ。ついへらりと笑って取り繕いたくなる。こちらが悪くなくても、気まずさという圧に押し潰されそうになる。
このまま、喧嘩別れみたいな感じで去ってもいいだろうか。さようなら、と背を向けて、また、とは言わずに。
「……少し、言い過ぎました。すみません」
しかし、そんな度胸もないからとりあえず謝罪した。何に対してというわけじゃない。大人というものは、意味もなく謝罪をするのだ。場の空気を戻すため、関係を拗らせないため、挨拶程度の謝罪をする。これもそのうちのひとつ。
「いえ、僕の方こそ不躾なことを言いました」
そうすれば、相手も大概同じテーブルに立つ。互いに殴り合っていればなおさら、相手が拳を下ろして殴りかかろうとはしない。
もう外は濃紺に満たされて、薄っすらと茜色の残光が彼方に漂う程度となっている。子どもたちをもう家に返す時間だろう。
安室さんも拳を下ろしたところで、半ばほっとした心持ちになった私は、「そろそろ行きましょうか」と彼に背を向けた。
「気をつけて下さい」
刹那、背中にかけられた言葉に自然と足が止まる。え、と振り返った先、そこにいたのは安室透でもなくバーボンでもない男だった。
「貴女が今置かれている状況は作り出されたものです。偶然ではない」
怜悧な瞳は何を見ているんだろう。事件の真相を追う捜査官の瞳に、しかし微笑みを忘れない。曖昧な笑みを浮かべた私は、今度こそ彼に背を向けた。
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