心ここに在らず、という状態で数日を過ごした。朝起きて店に行って仕事をして、接客はもちろんスマイル百点で通したけれどそれも上辺だけ。頭の中は安室さんに告げられた事実でいっぱいだった。
店長から聞いた。私の焦眉の急を店長から聞いた。知るはずのない人から聞いた。反芻しては首を振り、ちらりと店長を見やっても視線は交錯しない。いつと通り、普段通りの面持ちで黙々と作業に勤しむ店長に変わったところなどなに一つはなかった。出会った時から変わらない表情筋の動きが小さい相貌は今日も変化はしていない。
分からないことが多すぎて、理解も納得もまるで追い付かない現状に焦燥感だけが募る。今までも自分が置かれた現実を理解していたとは言い難かったけれど、新しい情報がこんなにも私を殴ってきたことはなかった。
吐きたいため息を飲み下して愛想笑いを浮かべる日々の中で、頭の中はずっと事件のこと、安室さんの言葉でいっぱいで。テーブルを拭きながら言葉を反芻させる。
『家に強盗が入ったかもしれない、と言われました』
店長が、安室さんに連絡出来た理由。家に強盗が入るという事態を知る由もなかった店長ができた理由。単純に考えれば、第三者からその情報を受け取ったから、だ。
では、その第三者とは誰か。
(高橋達は…あり得ない。家に押し入って盗品のありかを聞き出そうとしていたのに、店長にわざわざ連絡する必要がない。そもそも、二人に繋がりは……)
はた、と引っかかりを覚えて、テーブルを拭く手が止まった。
連絡、繋がり、といえば店長が以前受けていた電話だ。私が安室さんと『偶然』出会う前に聞いた、誰かのと電話。
(そういえば、あれは誰との電話だったか未だに分かってない。でも、友好的な相手じゃない)
これ以上は無理だ、と電話相手に店長は懇願していた。切羽詰まった悲痛な声はいつも一定の声音で話す店長にしては不自然で、その相手を探ろうとして尾行した先で安室さんにつかまったのだ。迷惑極まりない。
苦い記憶にかぶりを振る。いかんいかん、明後日の方向に思考が走って行ってしまうところだった。
テーブルを拭き、定食を出し終えて、店の看板を準備中に裏返して中へと戻る。「まかないは置いてあるから」と朗らかな笑みで伝えてくれた秋穂さんに、はあい、と間延びした返事をして、厨房内へと戻った私は再び思惟に浸った。
今日の定食のメニューはイワシの梅煮。小鰯は骨まで柔らかくなっていて、食べやすく梅との相性も抜群だ。
はくり、と口に運びつつ、思い出すのは先日の安室さんとの会話だった。
『いったい誰からその情報を受け取ったのか』
安室さんはしきりにそう問いかけてきた。私一人ではここまでたどり着けなかった事を指摘する彼は確かに正しい。その読みも勘もひとつとして間違ってはいない。悔しいほど観察眼に優れている彼は、私という人間をよく見抜いている。
ここまで来られたのは、結城のおかげだ。私と偶然出会い、秘密を共有し、共謀関係になりながらも私のことを案じてくれる彼がいるからこそ、私は今腐らずにここにいる。
ただ、その事実は決して漏らしてはいけない。迷惑をかけられるわけがない。
(店長のあの電話相手が分かればいいのに)
相手が分かれば点在している事象が繋がるかもしれない。なぜ、高橋達が私のことを知っていたのか。誰からそれを聞いたのか。
それだけではない。高橋の自殺の原因は、遺書と向けられたメッセージの相手Bとは何なのか。
店長が、私が巻き込まれているこの事態に関わっていることはほとんど証明されたようなものだ。けれど、店長個人に話を聞いたところで意味がない。直接行動をとればおそらく情報は顔も知らない、誰か、に行くのだろう。そうなったら、相手は必ず警戒する。こちらが分かっていない体で情報を入手していかないといけない。
「はー…。しんどい」
んー、とひと伸びして天井を仰ぐ。
だいたい、私はただの一般人だ。ちょっとだけ、この世界の情報とか秘密を知っているだけで、頭脳明晰な名探偵でもないし聡明で勇猛果敢な警察官でもない。ごくごく普通の人間。羅列された情報を眺めてみても、結局点在する事象を繋げることはできず、憶測を交えた主観にしかならない。客観性ってなんだっけ、と首を捻ってきた人間だ。
「大丈夫?疲れちゃった?」
おっとりとした声音が背中にかけられたため、姿勢を戻して振り向く。安心できる相貌に自然と顔が綻んだ。
「いえいえ、まだまだ大丈夫ですよ」
「そう?大きな伸びをしてたから、疲れがたまってるかと思って」
「そんなことないですよ。秋穂さんこそ、あまり無理はしないでくださいね!」
へらりと笑えば、秋穂さんは「私は平気よ」とくすくすと悪戯っ子のような笑みを零した。
いつも通り、場を和ませる優しい笑みにほっとしつつ、けれど心の中には黒い靄がかかる。疑心暗鬼な顔がひょっこり顔を出して私に囁くのだ。
──この笑顔は、本物?
(──に決まってんでしょう)
ぎろりと睨みつければ怖い怖いと引っ込むけれど、その口元は歪んでいる。
後ろ暗い心情が胸にある限り、私の弱い心は時折問いかけてくる。本当、なんてどこにもないと嘲笑されている心持ちになってしまう。
それでも、秋穂さんのこの笑顔は本物だと一本曲がることなく信じることができるのは、透析治療のために付き添いで行った病院での出来事があるからだ。
あの時、秋穂さんは私を案じてくれた。同時に、伝えてくれた。大丈夫だと、不安に思うことは何もないと。その姿は、私が憧憬してきた大切な人に重なった。あれが嘘だとしたら、私はもう何も信じられないだろう。
確かに、店長に不審な点は沢山あるけれど、秋穂さんがそこに関わっていると信じたくない。愚直すぎるかもしれないけれど、仕方がない。
人柄を信じる信じないを見る相手なんてこの世界で限られている。既存のキャラクターである、梓さんや園子ちゃん、蘭ちゃんなどは裏を取らなくても無関係だと分かっていて、それは安心材料になりつつも、どこか侘しさを覚える。手前勝手な思考だと分かりつつ、それでも私は、私自身が、私自身の手で─
私の知らない誰か、と結ぶ絆が欲しかった。
「お前、透析の時間だろう」
他愛のない話に華を咲かせていた私達に奥から顔を出した店長の声が入り込んだ。その声に二人そろって時計を見上げる。秋穂さんは「あら、本当だわ」と焦っているようでいない声をあげると、奥へと走っていきすぐにお気に入りの赤いバッグを手に戻って来た。そっか、今日は透析の日か。
「行ってらっしゃい」とかけた声に笑顔を返してくれた秋穂さん。だけれど、はたり、と気づきを覚えたような相貌になり、動きが止まった。壁際に張り付いた視線に、なんだろうと私も同じように視線を合わせる。
「あら、また宮島さんと出かけられるの?」
ちょっと尖った声。秋穂さんにしては珍しい声に眼を瞬かせる。あれ、秋穂さんが少し怒ってらっしゃる?と奥から顔を出した店長を見遣ったら、店長が*の字に眉を曲げて後頭部をかいた。
「また、て言ってもひと月だろう」
「別に文句はありませんよ。ただ、ここ最近よく外に出かけられると思っているだけです」
「じゃあ、行ってきますね」と店長の弁明を軽やかな足取りでシャットアウトした秋穂さんをぽかんと見送る。つまりあれか、外に出かける回数の多い旦那さんに不満というか、あれは…
(やきもち…て感じなような)
鴛鴦夫婦にもいろいろあるらしい。
いってらっしゃいと手をひらひら振った私は改めて秋穂さんが見ていた場所に視線を戻す。
壁掛けカレンダーの写真は、手前がスイカ、奥が海の写真が印象的で、もうそんな夏を感じる季節なんだと視覚で伝えてくれている。
その写真の下、日付が並んでいる中の今日から四日後の部分に小さく記された文字。
「M…?」
Mって、宮島だからMなのか。友人と会うなら普通に、宮島、とかでいいんじゃないかと思ったけれど、あれか、最近よく外に出かけるから秋穂さんにわかる単語で書きたくなかったのか。お母さんに嘘がばれたくない小学生かと若干呆れた。
自分にだけわかる符牒のようなやり方だな、とちらりと店長に視線を転じる。
(……あれ?)
けれど、その相貌に、妙な違和感を覚えた。ばつの悪そうな顔でもしているかと思っていたけれど、予想とは違っていて。
(……動揺、焦り…?)
下唇を僅かに噛み、しかし目は揺らいでいる。秋穂さんに旧友との飲みがばれてしまった。というには些か表情が硬すぎる。
私と視線が合うと、それは顕著に表れた。「店長?」と問えば、すぐに視線を逸らして汚れてもいない洗い場を付近で拭き始め、話すことはありません、と背中で語ってくる。そのまま「何でもない」と返されれば、それが答えのようなものだった。
(何でもない、は何もないときに使わないからなぁ)
改めて日付欄に記された、Mの字を見つめる。この文字が何かに結びつくのか分からないけれど、店長の反応との関係性がやけに気にかかった。
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