ここ最近、ずっと夢を見る。それはいつも同じ景色で、過去の情景なんだけれど鮮明にその記憶を掘り起こすことができない。靄がかった景色に足りない頭を捻るけど、その先が見えることはなくて。
ただ、胸いっぱいにじんじんと痛みが広がる感覚だけは残っていた。

「洸おねーさん、どうしたの?」

ぼう、と焦点の合わない瞳が、ピントを調節して目の前に現れた女の子に合わせてくれる。丸い瞳、こてんと傾げた首、小柄な体、女の子の輪郭が浮かび上がって、不思議そうな相貌を向けている彼女に、にこりと口元を緩めた。

「んー、少し考え事かな?」
「洸おねーさんにも悩みがあるの?」
「悩み、てほどでもないよ」

へらりと苦笑して「ほら、続きを解こうか」と促せば、女の子、歩美ちゃんは素直に「はあい」と返事をして目の前の紙面に集中した。
カランと音を立てた氷が入るグラスに水滴が流れて、窓を見遣れば眩しいほどの外光がブラインドに遮られている。
夏だなぁ、とぼんやり感じつつ、一等、それを実感する歩美ちゃん達の持つプリントに視線を落とした。
夏休みの宿題、なんてやっていたのは幾年前のことだろう。算数ドリルとかあったな、とか、自由研究は絶滅危惧種の動物を調べたりしたな、とか、朧げになっている記憶を辿ってみる。基本的に一人で黙々と進めていたから、こうやって誰かと一緒に何かをするなんてことはなかった。共働きの両親は家にいない。人の家に呼ばれたり、公民館の教室に行こうものなら、目に見えて両親は顔を歪ませたため、そんな幼い希望は早々に捨てた。幸いにも、勉強についていけない頭ではなかったことだけは、人並み以上に学力のある両親に感謝している。遺伝ってすごいなぁ、ハハ。
「お姉さん、この漢字わかんない」と眉を下げた歩美ちゃんに、どれどれ、と身を乗り出す。漢字辞典とか、教科書の該当部分を一緒に探して別の読み方や例文なども教えていると、「精が出ますね」とテーブルの端に新しい飲み物が置かれた。

「梓さん、すみません」
「いえいえ、みんなきちんとお勉強しているご褒美です」

可愛らしいウインクと、茶目っ気たっぷりな笑顔に子どもたちも釣られて表情が華やかになる。
現在、歩美ちゃん含めた少年探偵団のメンバー、元太君、光彦君、コナン君、哀ちゃんの五人で夏休みの宿題に鋭意取り組んでいる。事の発端は、元太君が「一人だと進まねぇんだよな!」と言ったことで、光彦君と歩美ちゃんが、それじゃあだめだ、と見解が一致して、集まりやすいこの喫茶店が選ばれたということだった。コナン君と哀ちゃんは、曰く、巻き込まれた、とのこと。
その巻き込まれに私まで絡め取られてしまったのが昨日のことで。店に来た探偵団と博士に今日のことを聞いた矢先、子ども達から、教えてくれる先生が欲しい、との要望が上がり、本日休みの私に必然的に白羽の矢が立ったということだった。そりゃ、目の前でそれを言われたら断りにくいでしょう。
博士の家でも良かったんじゃ、と首を傾げたけれど、あいにく博士は本日外出しているらしい。プラス、ここだと安室さんのケーキが食べられるという元太君の希望だった。現金だな、この子。

とはいえ、うーんうんと悩みながらもまじめに取り組む三人を見れば、まあいいか、とちょっとした大人心が芽生えるというもの。死んだ魚のような目で漢字ドリルを埋めているコナン君と哀ちゃんの姿もなかなか拝めるものでもない。中身は頭脳明晰な高校生と並外れた知識量を持つ組織の元科学者だもんなぁ。
「コナン君と哀ちゃんはどうかな?」なんて、からかい半分聞くと、「平気だよ」と無邪気フェイスが返ってくる。作った声音だけれど笑顔が歪んでいる。ひくつく頬に吹き出すのを堪えた。対する哀ちゃんは、「見ればわかるでしょ」とこちらに一瞥もくれずに言い放ったので、ですよねー、と胸中で相槌を打っといた。

「ねぇ、洸お姉さんもこの教科書使ってたの?」

ペラペラと教科書をめくっていると、ふとコナン君がそう問いかけてきた。「私?」と問い返して彼に視線を転じれば、邪気のないように見えるまなこが私に向けられている。無邪気なふりをしても中身は高校生ということが分かっているので、うーん、と考え込むふりをした。

「どうかなー…まだ記憶が全部戻ってるわけじゃないからね」

へらりと曖昧な笑みを浮かべれば、コナン君は「ふーん」と意味深な声音を返したけれど、それに動揺してしまうほど子どもではない。というより、この数ヶ月で私の豆腐メンタルはかなり鍛えられた。鋼とまではいかないけれど、いやどちらかというとスライムみたいなものか。叩かれても引っ張られても伸縮して元に戻る、そんな感じ。

「あー!元太君、これはダメですよ!」
「なんだよ、別にいいだろ、このくらい!」
「えー、これじゃ何のことか分からないじゃない!」

コナン君と私のえもいわれない空気を唐突に割いたのは元気の良き三人の声だった。光彦君の声を筆頭に、元太君が抗議の声を上げて、歩美ちゃんは光彦君に追従する。
一体なんだろう、と顔を覗かせてみれば、三人は元太君のノートを指差して何やら言い合っていた。

「どうしたの?」
「あ、あのね、洸お姉さん!」
「これ、なんて読めますか?」
「ん、んん?」

ノートを見開きにして、バンっ、と目の前に出されて思わず少し仰け反る。
ノートがどうかしたのか。どれどれ、とまじまじと見たら、どうやら元太君のノートのようだった。

「えっと…英語のq…?」

何故か、羅列されている英語に、言葉にしながら首を傾げる。なぜ、小学一年生が英語を学んでいるのか。いや、たしかに元の世界では、学習指導要領の改定で小学校から英語が取り入れられるとかあったけど、あれは確かまだ先だ。あと、一、二年生は対象外だったはず。
ノートに英語を書いている理由が分からなくて、一体なんのノートなのかと表紙を確認すると──

「そう見えますよね!」
「でも、これ数字の九なの!全然見えないよね!」
「……え、九?」

ええ、数字だったの、とよくよく見てみる。確かに、九にも見えるけれど、どちらかというと英語のqの方がしっくりくる。

「元太君、数字の九はもう少しこの縦の線を斜めに書いた方が分かりやすいかなぁ」
「なんだよ、姉ちゃんも読めねぇのかよ」
「ほら、元太君!きちんと書かないと人に読んでもらえないんですよ!」
「英語と数字がいっしょに見えちゃうなんて、恥ずかしいんだから!」

私に続いて元太君に指摘する二人に苦笑する。あるある、私の友人も字が汚いわけではなかったけど、英語が数字に見えたり、カタカナのカが象形文字に見えたりとなかなか癖のある字を書く子だった。
だから、元太君の気持ちもとても分かるんだけど、残念ながらそれは直さないとテストで痛い目を見ることがある。実際、友人は痛い目を見ていた。違うんですこれは!、と泣きついた先で、穏やかな年配教師に、人に読まれる字を書いてね、とバッサリ切られていた。そうだね、読んでもらわないと意味ないよね。
改めて元太君のノートを見てみる。数字を書く練習とかあるんだ。あ、でも足し算の問題もある。
じぃ、と問題を眺めていると、

(……あ)

ひとつの問題の箇所に私の視線は釘付けになった。

「……元太君、これさ」
「ん?なんだよ、姉ちゃん」
「この足し算の問題の答え……」

私の人差し指が示した問題に他の二人の視線も転じた。

「あ!元太君これもダメです!見にくいですよ」
「ほんとだー!つながって見えちゃう」
「そうか?」

そうだよ!、と二人揃って元太君に突っ込んでいたけれど、正直子ども達のやりとりはあまり耳に入ってこなかった。

その文字は、見覚えがあった。


「一と三は離して書かないと、これじゃあー」


『To.Bって何だろう』


「英語のBみたいに見えるでしょ!」


木霊した歩美ちゃんの声に、風見さんに見せてもらった写真の文字が脳裏に浮かび上がった。

元太君の書いた十三。数字の一と三は走り書きをしてしまったのか雑に綴られている。その二つが、隙間なく書かれているため一見すると英語のBのように見えてしまっている。

(……いや、仮にあれがBじゃなくて数字の十三だとしても、それこそ意味が通らなくない?)

落ち着け冷静になれ。行き詰まっているからって何でもかんでも疑義を挟むな。
「洸さん?」と声を掛けられて、硬化していた身体がびくっと震える。声の主、コナン君に視線を転じると「大丈夫?どうかした?」と首を傾げられた。顔が強張っていたようで、はっとした私は咄嗟に口元を緩める。

「何が?かな?」
「洸さん、なんだか怖い顔してたよ?」
「え、そうかなぁ?」

すっとぼけてみせるけど、やっぱり彼には逆効果みたいで。細められた瞳にへらりと笑ったら、光彦君が声を張り上げた。

「ほら、元太君の字があんまりにも汚いからですよ!」
「俺のせいかよ!」
「ごめんね、洸お姉さん」
「いやいや、怒ってないからね?元太君も、練習すればいいだけだから」

やいやいと賑やかしをしてくれる三人に内心ホッとする。「いい加減、宿題に集中しなさい」と哀ちゃんの一喝が入るまで騒ぐ彼らに和みつつ、胸の奥に覚えたつっかかりに、気持ち悪さが拭えなかった。





(どうしてこうなった)

茜さす空が一日の終わりを告げている。夏特有のむわっとくる風は夜が近づくにつれて少しは冷えてくれるかと思ったけれど、そんなことはなく肌に嫌な感触を与える。そうだ、夏って朝昼晩構わず暑いから夏なんだ。何いってるんだ私。
動揺が思考回路を鈍らせているらしい。

「洸さん、どうかした?」

くるんとこちらを振り向き、こてんと小首を傾げる様は実に愛らしい。小学一年生の児童なんて自動的に可愛い部類に分類される生き物だから、中身がどうであれ外見はその部類に当てはまるのだ。

「んー?何でもないよ?」

嘘だ、何にもなくはない。頭の中は、また事件のことでいっぱいだ。
けれど、こちらの出方を伺うコナン君に焦慮を悟られまいと平然を装う。
夕焼け小焼けでまた明日、夕刻に差し掛かった頃、ポアロから帰路に着いた私と子ども達。子ども達はそれぞれが別れを告げながら家路に着き、哀ちゃんは阿笠博士の家の前で別れた。コナン君は、そもそもポアロの真上が事務所なんだから着いてくることはなかったのに、僕ちょっと散歩、なんて見え透いた嘘を吐いて私に着いてきた。要は、話があるということだろう。
なんでこの子は首を突っ込もうとするかな。

「ねぇ、コナン君そろそろ帰ったら?蘭ちゃんも心配するよ?」
「日が落ちるまでに帰ったら大丈夫」

にこりと向けられた笑みに眉尻を下げる。日が暮れるのはまだ先とはいえ、自分一人だけ帰ってこの子を放っておくのは少々気が引けた。

「コナン君、散歩ってどこまで…」

そう振り返った刹那、彼の小さな掌が私の袖をつかんだ。え、と頭にクエスチョンマークが浮かび、何か言いたいことがあるのかとしゃがんで目線を合わせる。

「ごめんね、洸さん」
「え」
「散歩っていうのは嘘。本当は、洸さんと話がしたかったんだ」

困ったように笑うコナン君が、なんだか切なくて。その相貌に、自然と口の端が結ばれる。

ベルツリータワーではまともに喋る時間はなかった。寧ろ私がそれを避けた。コナン君自身も、あの事件以降、私に話しかけるのをどこか躊躇っている感じがする。
絶対に諦めない、と彼は言ってくれた。陽の光の下で、隠された真実を見つけ出し、人に光を当てる彼に縋りたくなったことが、ないとは言い切れない。
そんな強く凛としている彼に、こんな顔をさせているのだと自責の念が胸にこみ上げる。

「……いいよ、少し話そうか」

だからなのか、少しだけ、少しだけ。そんな顔をさせる私の後悔を、拭い去りたかった。


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