日が暮れないうちに話を済ませるにしても、あまり事務所から離れた場所はよろしくないだろうと思って、来た道を回れ右する。確か、事務所近くに公園があったからそこでもいいだろうと思い、十数分歩いた先の公園のベンチに二人で腰を下ろした。

「話したいことってなにかな」

開口一番、要件を問う。小首を傾げて、目線を向けて、微笑を湛えて。あくまで何も知らないふりをした。
いつも通りの私の調子にコナン君は、じぃ、と私を見つめた。丸い瞳が向けられるといつも少し居心地が悪くなる。
何もかも見すかすような瞳。暴くことができない闇なんてない、全ての謎を解き明かす瞳だ。その奥には、真実を探究せんとする鋼の意思が垣間見える。
嘘まみれの笑みに、彼の瞳は少々毒だ。
彼の視線から逃げたいために「コナン君?」と先を促す。すると彼は、ひとつ瞬いた後「洸さんはさ、」と前置いて、紡いだ。

「……ここにいるのに、どこか別のところにいるような気がするんだよね」
「別のところ…かぁ」
「うん」

コナン君の言葉を頭の中で反芻する。ここにいるけれどここにいない、別のところ。
言い得て妙だと思った。
マトリックスの世界ではないけれど、この世界は私にとって仮想現実、夢のような世界だ。確かに五感で世界を感じ取って、こちらも現実だと認識はしているけれど、刀海洸を形作ったのは紛れもなくあちらの世界。
私という個人はあちらで形成されたけれど、今の私個人はこちらにいる。

そこまで考えて、ふと思案した。

(そういえば、あちらでは今、私はどうなっているんだろう)

そもそも時間の進み具合は一緒なのか。一緒なら会社はどうなっているだろう。いや、私が居るとしたらそれは私ではなくないか?なんか、ややこしい。

錯雑とした思考にかぶりを振って、コナン君にからりと笑う。

「でも、私はここに居るよ、コナン君」

あちらの世界に私がいるのか、いないのか。今の状態はまさにシュレディンガーの猫かもしれない。私はいるし、いない。観測者が観測するまで私はどちらにもいる。
でも、確かなことは、今こちらの世界の私を彼は観測している。
量子力学によるとミクロな世界はマクロな世界の私たち、つまり観測者が観測することでその状態に収束されるらしい。私は、この世界のたくさんの人々が私という存在を認識してくれているから、存在していると言っても過言ではない。

「分かってるよ、そんなこと」

当たり前の私の答えに、ツンとした声音でコナンくんが応える。
私が何者かを知らない彼にしては、鋭い言葉だと思った。ここにいるけれど、どこか別の場所にいる。それはきっと、物質的な意味ではなく精神的な意味だ。
安室さんや梓さん、少年探偵団のみんな、私を案じてくれるキャラクター達と笑顔で接しながら、心の奥底でどこか線を引いている。
物質的に近くにいながら、精神的に私は今、彼らと遠い存在になっている。

(聡いなぁ、ほんと)

観察眼に優れている故か、人の心の機微に敏感すぎやしないかこの子。主人公補正があるから、とかそんなメタフィジカルな思考を働かせて首を振る。違う、現実は此処だ。

でも、もし…

(もし、私のこの存在でさえ誰かの掌の上だったとしたら)

カミサマと呼ばれる高位の存在によりこの世界に私が落とされたというのなら、私の歩く軌跡を物語化する何かがいるかもしれない。彼らにとっての私のような存在が私にだっていてもおかしくはない。
そこまで考えて、きゅっと心の臓が縮こまる感覚に陥った。ぽたりとこめかみを伝って落ちた汗がやけに冷たく感じられる。もう夏だっていうのに。

現実と認識しているこの世界は作られた幻で、
私もただのプレイヤーに過ぎないとしたら

──なんて、残酷なんだろう。

ここに確かに私はいる。けれど、どこか別の場所にいるようだ。コナン君のその呟きは、私の中に一抹の不安を抱かせた。


「ねぇ、ひとついい?」

神妙な顔つきでコナン君が私を覗き見る。交錯した視線、瞳の奥にいた工藤新一が、私に語りかける。その瞳に、心臓が一つ跳ねたけれど、「なあに?」と笑みを湛えた。

「前に言ったよね、洸さん。僕の質問にひとつだけ答えてくれる、て」

あ、それ、ここで来るか。もう随分前のことになったから、てっきり彼も忘れているかと思っていた。
かつて、私の家に設置されていた盗聴器。公安が仕掛けたものの可能性を考えていたため、取り外しに協力してくれたコナン君に口止めをした際、条件を出された。それが、その問いだった。
こちらの微かな動揺を悟っての問いかけなのかと思うと、やっぱりこの子には底知れない畏怖を感じざるを得ない。
コナン君の、否、工藤新一君の瞳は真っ直ぐで、拒否することは許さないと言っているようだった。

ひとつ、息を吐く。彼の問いはきっと私にとってとても不都合なものだ。「そうだね」と続けた私に、やはり工藤君は口にした。

「今、それを聞いても良い?」
「………良いよ」

間をおいて頷く。私の答えに、工藤君は少し目を丸くした。聞いておいてその反応はなんだと苦笑する。

不都合な問い。それでも了承の意を表したのは頃合いだと思ったからだ。
このまま、中途半端に彼らに関わって、心配させて迷惑をかけて。好奇心旺盛な彼をイレギュラーと絡ませる必要はない。
少なくとも、この事件に、私の秘密に彼が手を伸ばすことは牽制した方が良いと思った。

視線で彼に先を促す。私の視線を受けた彼は徐にポケットに手を突っ込んで立ち上がると、私の真正面に立った。
私の穏やかな相貌に不審そうな目を向けながら、それでも彼は視線を外さなかった。

「洸さんさ、」

形の良い唇が、真実を紡ぐ。



「記憶喪失なんかじゃないよね」



分かりきっていたその問いを、彼は私にぶつけた。問いの答えは勿論分かりきっているという、確信めいた声音だった。
それでも、これは私が首を縦に振らないと成立しなかった問いかけだ。のらりくらり、会話の節々で探ろうとしていた彼は、真っ向からの勝負を私に挑んだ。

ふふ、と思わず声が漏れる。そんなことを聞きたいのか、という風に、首を僅かに傾けて彼に返した。



「そうだよ」



さも、当たり前のように。するりと零れ落ちた感嘆詞に彼は面食らったのか、二の句を告げることができずに閉口した。そりゃそうか、今まで重い口を閉ざしたまま、必死に真実を隠そうとしていた人間がケロリとした顔で、嘘でした、と宣ったのだ。何言っているんだと訝しむのが普通の反応かもしれない。

あくまで穏やかな表層を崩さない私に固まっていた彼は、ハっと意識を再度私に向けて尋ねる。

「なら、…なら、どうしてっ」
「ひとつだけ、て言ったでしょ?私は答えたよ。だから、あとは君が推理するんだよ、コナン君」
「……そんなの…」

引かれた一線に、彼の相貌は曇った。それでも、私は揺るがない。ひとつだけ、だ。それ以上答える気は無いし、答えられることも少ない。

不気味なほど綺麗な笑みを保つ私に、彼はキラリと瞳の奥を光らせる。

「……このことを、刑事さん達は知ってないよね?」

かさりと動いた右ポケット、彼が手を突っ込んでいるそこに視線を転じて、私は更に口角を上げた。
ごめんね、その手は以前『私も使ったことがある』

「ということは、この会話を今誰かが聞いている状態ではないんだね」
「……なんのこと?」

あ、声が少し怖くなった。
緊張が滲む視線と声音。動揺が見て取れるところは、やっぱり彼はまだ大人の庇護下にある高校生なのだと感じさせる。
おそらく彼は、リアルタイムでこの会話を誰かに聞かせるほど、非情な人間ではない。

薄く、目を細めて、口元を歪めた。

「例えば、君の知っている刑事さん達にその『ボイスレコーダー』でとった私の発言を聴かせて、私が取り調べを受けることになったら、ね、君も困るんだよ」

端整な相貌に、亀裂が入る。大きく見開かれた瞳に酷薄の笑みを向けた。

この言葉は、言うべきではないのかもしれない。口にしたら戻れない、呪いのような言葉だ。今までの関係を、根底から揺るがして断ち切ってしまう。

ただ、これ以上、逃げ続けたくなかった。

だから、紡ぐのだ──その名を、




「工藤新一君」




周りを流れる空気が、一気に張り詰めた。紡いだその名は、確実に彼の心の臓に深い楔を打ちこんだ。
なぜ、どうして、動揺が現れている相貌にそれでも私は微笑みを絶やさない。感情をそぎ落とした笑みはさぞ不気味だろうと自嘲する。
決して知るはずのない真実。それを目の前の人間が知っている。それは、どれほどの衝撃、恐怖だろうか。私なら怖くて逃げる。
それくらい、この言葉は暴力的だった。

しばらく沈黙が続いた。ひゅっ、と息を呑み、そして気を取り直すように一呼吸置いた工藤君は、絞り出すような声を出した。「なにを言ってるの…?」と。
その顔貌にはもう、幼気な小学一年生はいない。
そんな彼に私は敵意を放つ。

「私はね、迷子なの。記憶はあるけれど、どうしてここにいるのか分からない。ただの迷子だから、だから、私に牙を剥くなら、容赦なく私は私を守るために君に牙を剥くよ」

笑顔を崩さず、彼との間に太く切れない一線をぐりぐりと引いた。

彼が私にくれた好意も善意も全てを自ら零して、踏みにじる行為。それでも、私がこの世界と彼らと向き合うなら、いずれ避けられなくなる言葉だった。
工藤新一、その名を彼に向ければ私はもう、彼にとって救うべき対象ではなくなる。バーボンという顔が割れた安室さんがコナン君にとって敵になったように、得体の知れない女、として私への不要な接触は避けるようになる。
この先、私が事件に関わる、或いは巻き込まれる可能性があるのなら、主人公である彼が私に関わる機会は少ないに越したことはない。

「取引だよ、工藤君。この情報を人に言われたくなければ」
「僕は、江戸川コナンだよ。新一兄ちゃんじゃない」
「……なら、どのようにしてその姿になったのかを、君の知り合い全員に話してみる?話すだけでも価値はあると思うよ」

情報は暴力だ。唇を噛む彼の喉元に私はナイフを突きつけた。

全てを話せば、もしかしたら楽になるかもしれない。君達は虚構で、キャラクターで、偶像で、そんな私の中の事実を彼らに話して、そして、証拠として私の情報を開示すれば私は楽に生きられるかもしれない。
けれどそれは最終手段だ。
絶対的なイニシアチブ。握っている情報の価値の高さをひけらかして、今は、こちら側へ来ないように忠告することしかできない。いやー

(……したくない、の方が正しいのかも)

全てを開示する覚悟なんてものは、私になかった。

「君は君の秘密を守り抜こうとする。なら、私だって私の秘密を守るだけだよ」

話はこれで終わり、という風にベンチから立ち上がり、コナン君の横を通り過ぎる。
既に、西の空の茜色は薄くなっていてもうすぐ濃紺の夜がやってくる。夏休み中の小学生はもう家に帰る時間だった。心配性の蘭ちゃんに迷惑をかけるわけにもいかない。
言いたいこと、言わないといけないことは伝えた。これ以上、私が伝えること、伝えられることはなくて。壊してしまった関係性を修復する術だってない。崖っぷちで、後戻りなんかできない。

それをする資格も、もうない。

(ずるいなぁ)

掌の上で情報を転がして、とってつけたような理由で相手を拒絶して。
エゴにまみれた選択に、口元が自嘲に歪められた。


「………洸さんは奴らの仲間なの?」

やけに、神妙な声が耳朶を打った。
背後からかけられた声は、私の動きをぴくりと止める。すぐに振り向けなくて、一瞬、顔に被せる仮面をどうしようかと逡巡したけれど、すぐに取り繕ったような笑みを貼りつけて振り向く。

「なんのことかな」

そう、おどけた調子で紡いで。答えを濁しつつ、ニコニコ笑顔は崩さずに、視線だけ彼に向ければ、

(……ああ、この子は本当に)

一つ、心臓が跳ねた。


「……分かった」


揺るぎない瞳の奥に灯っていたのは、柔らかな炎だった。


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