どうしてこの世界に来たんだろう。何度も反芻した問いに答えはなくて、いつだって堂々巡りだ。人生に悲観していたわけでも、死にたいなんて思ったこともなかった。極々普通の一般人で、ただ今を生きているだけの社会人だった。適度に働いて、適度に趣味に没入して、日々を生きているだけ。
性格はというと、とても事なかれ主義。何となく、適度に済ませる。可もなく不可もない凡人として、慢性的な日常を愛していた。家族、親類、友人、知人、誰との仲も悪かったわけではない。縁を切るとか、そんな対人関係においてのトラブルとは無縁の生活を送ってきた。
しかし、特段仲が良い人間がいたわけでもなかった。
踏み込まない関係を好んで、決して引いた一線を飛び越えさせない。私とお前の領分を履き違えるなと、いつだって曖昧な笑みがそう呼びかけていた。意識的にそうしたこともあるが、殆どが無意識だった。
それで生きていけた。そんな希薄な繋がりでも、困ることなく生活ができた。できるだけ迷惑をかけず、適度に優等生で、適度に遊ぶ。人生を左右する選択を迫られることも、命の危険が及ぶ状況も経験がない中で、私は対人コミュニケーションにおいて一番楽なやり方を選んだ。
(なのに、ね)
脳裏に浮かぶ仏頂面に苦笑する。
線引きしていた対人関係を踏み越えて、ちょっとだけ寄りかかってもいいんじゃないか、なんて宣えるような相手に、まさか強制的に連れてこられた世界で出会うなんて思っていなかった。
迷惑はかけられない。寄りかかっちゃいけない。鬱々として、八方塞がりだった私の心の扉をこじ開けて、ぶっきらぼうに手を差し伸べる。自分とお前は同じ存在だと、そう諭してくれた対等な存在、それはもはや、仲間とか友達とか、そんな青臭い括りにすらなるかもしれない。
けれど、そんな友達に頼り切っていても駄目なのだ。
(もう一度、整理しなきゃ)
カチリとボールペンの芯を出して、商店街で購入したA4のノートに情報を羅列していく。現段階で分かっていること、分からないことを改めて整理した。
一千万相当の商品が盗まれた強盗事件と密入国者を囲い、入国の手引きををしていたグループの摘発。この二つに絡んでいるのが、例のあの組織と思われる。
組織の一員だった高橋勇は密入国者の手引きをするグループの一員だったけれど、そこで得た金を組織に上納せずに横領していた。そのため、強盗事件を働き、取り分で金を補填しようとしていた。
(だけど、換金前に物が消えて、仲間も殺された)
この部分は高橋にとっても警察にとってもかなりの誤算だったはずだ。現に高橋は、その事実確認の為に私の家へと押し入ってきた。いや、何も知らないのはこっちも同じなんだけど。
高橋が私に目を付けたのは、私があの現場の第一発見者だったからだ。たまたまそこに居たという曖昧な理由はたしかに不審極まりなかったけれど、本当のワケを語るわけにはいかない。相澤智則を探る過程でたまたま高橋に行き着き、そして高橋の情報を結城が入手してあの現場へと向かった。一人で向かわなければ、あんな目にあうことはなかったかもしれないけれど今更そんなことを考えても仕方がない。
それよりも、だ。
(高橋が、誰から私の情報を入手したのか)
おそらく、その誰かが全ての事件の黒幕だ。
高橋が私に目を付けたのはその誰かのせいだというなら、何故そんなことをしたのか。単純に考えれば、その人物が犯人を知っているからだと推察できる。それも、高橋にその事実が知れたら立場を悪くする人間だ。だから、あの場にいた私を犯人だと吹聴して、高橋を唆した。高橋にその連絡を入れて、高橋は相澤に確認又は忠告の電話を入れたがその時には既に相澤は──
(……やめよう)
あの時の記憶を引っ張り出しても仕方がない。
気を取り直してノートを見つめる。
私が犯人と吹聴した人間。高橋に真犯人を知られたくないという思惑があることは容易に推察ができる、が、
それに、もう一つ。
「捜査の撹乱…とか」
ぽつねんと呟きながら、くるりとボールペンで囲んだのは警察という文字。
安室さんは私が相澤智則の会社に行ったことを知っていた。その情報は間違いなく風見さんにも行っている。
一連の事件の渦中に何故か佇立している記憶喪失の不審者。何故、こんな女が関わっているのか、過去を探っても何も出てこない不審者に何があるのか。私という存在は、事件に絡んでしまっていることで一層怪しさを醸し出している。
仮に私が犯人の立場なら、これほど美味しい状況があるだろうか。確かに、警察は殺人事件の犯人を追っている、が、無視できない存在がそこにいる。特に公安警察としては、初期の頃から私をマークしていた。調査しても何も分からない女が、組織絡みの事件に関わっているなんて、捜査員からしたら首を捻る状況だろう。
事件の真相を知る高橋は自殺した。話を聞ける人間はもういない、それこそ、犯人だけだ。もし、高橋を自殺に追い込んだのが犯人というなら、相当用意周到な人間である。
一ページ分の情報を俯瞰して、うーむ、と唸った。見ていてもまだ何も浮かばなくて、大きく伸びをした後に上体を逸らして仰向けになる。天井の木目を薄ぼんやりと見つめながら、ふと、先日のベルツリータワーの記憶が蘇った。
「作り出された状況ねぇ」
あの時、安室さんは私にそう忠告した。私の今の状況は誰かに作られたものだと。
分かってる、恐らくそれは、私を陥れた人間が作り出したものだということも推察できる。そこまでは理解できるけれど、その先が靄がかって何も分からない。
私を陥れることが《できる人間》
(考えろ)
こちらに来てからの私の行動を時系列にして俯瞰する。出会った人間の挙動をパズルピースのように付け合わせて行った。
ここに来て、住み込みのバイトを始めて、就籍許可のために動いた。店長、秋穂さん、風見さん、安室さん、コナン君、少年探偵団のみんな、哀ちゃん、阿笠博士、梓さん、蘭ちゃん園子ちゃん、結城、高木刑事佐藤刑事、出会った人は片手では足りない。
さまざまな人と彼らに関連する出来事を組み合わせる。
その中で、浮かび上がる疑問点がきっと──
『貴女が今置かれている状況は作り出されたものです』
「……あ」
カチリカチリとピースをはめていく中、警告するアイスブルーの瞳が見ていたのは、何だったのか。
(偶然では、ない)
その言葉を反芻する。
彼は、店長からの連絡を受けてあの時来てくれた。店長はそのことを知る術がなかったというのに。
店長はこの数ヶ月、かなり外出をしている。風見さんと結城の公安警察だけではない、誰かと出会っている。
(……宮島だから、M)
カレンダーに記されたMという単語。宮島という知人に会うと言う割りに、何でもない、と動揺を露わにしたあの相貌。動揺という点で浮かんだのは、いつだったか、電話口で店長が焦っていた時のこと。あの相手は、誰だ。
(……まさかなんだけどさ)
疑念が膨らみ、嫌な予感に生唾を*み下す。全身に広がる悪寒は思考まで麻痺させるようで、思わず身震いした。
けれど、この状況を打開する為の糸口、試す価値があることがある。
置き時計の時刻を確認する。時計の針の単身は七と八の間だ。
手近にあった鞄を引っ掴む。崩れた化粧は気にせずに、家を飛び出した。
*
「あら、どうしたの、洸ちゃん」
びくり、と大げさというほど肩が震えた。ギギギと取り付けの悪いロボットの首が回転するみたいにぎこちない動きで首を向ける。秋穂さんは、そんな私を見てさらにきょとんと首を傾げた。
「何か用でもあった?」
「…盛り付けのことで聞きたい事があったんですけど、店長も秋穂さんもどこ行かれたか分からなくて」
「あら、ごめんなさいね!」
「呼んでくれれば行ったのに」とクスクス笑う秋穂さんに内心、そりゃそうだな、と頷く。わざわざ、厨房の奥、住宅廊下になっている場所に入るなんてことはしなくてもいい。というか、したこともなかった。
へらりと笑って、すみません、なんて悪びれもなく宣う。焦る心は体の奥底に沈めて、厨房へ戻るために秋穂さんに背を向けた。
「そういえば、秋穂さん」
唐突に、思い出したように、秋穂さんを呼んだ。
緩めた口の端、いつも通りの笑顔を貼り付けて振り返る。視線が合う刹那、目を薄っすらと細めて、紡いだ。
「前、秋穂さんが会っていた男の人ってどなたですか?」
刹那、目の前の彼女は明らかに硬直した。瞳孔が開いて、大きな目が私を見つめる。急なこの質問に混乱しているのか目を瞬かせた。「え」と無理に作られた笑みに、邪気のない微笑みを返す。
「あの時、秋穂さんすごく不安そうな顔をされていたから、なんか気になってて」
実際、秋穂さんは彼と話している時ひどく憂いを帯びた表情をしていた。愁眉をたたえた相貌に胸が騒ついたのは事実だ。
店長を尾行する過程で安室さんに出会い、そして帰路に着いたあの雨が降っていた日。店の前で見知らぬ男性と秋穂さんは話していた。それも、表情から推察するに『良くない』話だ。
じい、と向けられる視線に秋穂さんがあからさまに目線をそらす。閉口し、沈黙が流れる空気は心地良いとは言えないけれど、ここで下がったら何のために聞いたのだということになる。
「秋穂さん」と促したと同時に、沈黙が破られた。
「調べものを、してもらっているの」
精一杯といった声音だった。拳を握りしめた秋穂さんは私に向き直ると眉尻を下げてそう答えた。揺らぐ瞳に「調べものですか?」と尋ねるとコクリと頷く。
「人にはあまり詳しくは言えないんだけれどね、ちょっと知人のことで気になることがあって……専門の人に調べてもらっているの」
詳しく言えない、というところで、秋穂さんはこちらへ明確な牽制球を投げた。内容を聞くのは野暮だとやんわりと示された拒絶。下がった眉尻は彼女の心情を如実に表していた。
温厚で懐の広い秋穂さんにしては珍しい態度に、追撃は憚られる。
「そうですか…」
「ええ、だから…ごめんなさいね。気を使わせちゃったけど、大丈夫だから」
「いえ、なんだかすみません。不躾に聞いてしまって」
謝罪の言葉を口にすれば、秋穂さんは「いいのよ」と笑って、奥へと戻って行った。後ろ姿を確認して、私の視線は廊下の一点へと転じられる。
気付かれていない。
その事実だけを確認して大きく息を吐き、私は店へと戻った。
作り出された状況、考えられる可能性。
先入観を捨てて、物事を一から俯瞰した時、見えてくるものがある。
人間は理解したくないものを排除しようとする。見たくないものは見ない。聞きたくないことは聞かない。正当化された自分の意見に満足して思考を停止する。
全部を捨てて、己の双眼でしかと見る。
情理に囚われずに、公正な思考で判断する。
そこからきっと、真実が見えると信じて、今はただ、自分の選択を生きるしか出来ないのだ。
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