真っ白いカーテンがたなびいた。ふわりとまるでヴェールのようなそれ越しに青空が視界に飛び込んで、そしてまた白に戻る。
隣で柔和に微笑む愛しい人は、力無い指先を私の頬に添えた。「大きくなったね」なんて、それ何回も聞いたよ。
でも、何回聞いても心地良い。
沢山手を繋いでもらった。沢山愛をくれた。無償なんてものは何一つないと、冷めた子どもだった私に与えられた眩しすぎる光と暖かい気持ち。嗚呼、大好き、と自然と頬が緩むそんな人間がこの世にいるなんて、と大層なことを思った。

信じられる、自分を預けられる存在。


(でも、どうして)


どうしてこんなに、涙が止まらないのだろう。


割り込むのは、違う景色。
静まり返った室内、無機質な空間、色のない血の繋がっているはずの両親。ベッドに視線を転じてもその景色にはノイズが乗って塗り潰されていく。待って、待って、と声を出したくても喉が枯れたように何も発することができない。
カチリと別の景色が映し出される。
手にした機械、嗚呼、あの時買った…それで、記録を取って、聞き覚えがあって、確認してもらって……それ、で……




「起きたか」

瞼越しに部屋の灯るさが視界に映って、うっすらと目を開けた。淡白な低音が耳朶を打って、意識が朧げながらも覚醒する。

「結城、まだいたの」
「寝落ちたから起きるまで待ってたんだろ」

視界に捉えた能面が僅かに歪んだ。そういえば、そうだっけ……いや、そうだったな。確か、夜も深まりを見せる頃に結城が来て、一課の捜査の進捗を何故か話してくれた。とは言っても、大した成果は出ていないようだった。
強盗グループのメンバーの死亡推定時刻から逆算して、現場付近の目撃証言を集めているらしいけれど、情報が乏しく、芳しい成果は出ていない。犯人の指紋もなし、遺留品からの手がかりも乏しい。
公安は犯人は例の組織の一員とみて捜査をするため、組織内に潜入中の捜査員に情報収集するよう指示を出したらしいけれど、組織内の情報を無闇に得ようとすると怪しまれ、潜入捜査に支障が出るため下手に動けていないらしい。
潜入中の捜査官って降谷さんなんだろうけど、結城の口ぶりからしてその事実を彼は知らなさそうだった。うーん、風見さん有能。

「結城の話、眠くなるんだよ。トーン一定だから」
「悪かったな……で、それは何だ」

悪びれた様子もなく肩を竦めた結城が、ぽたり、と目尻から溢れた涙を見て尋ねた。止まらないそれがTシャツにシミを作って、乾かない頬に眉尻が下がった。

「……さぁ、なんだろうね」
「大丈夫なら帰るぞ」
「うわ、ひどいな結城君。モテないぞ」
「モテて何の得がある」

軽口がスルスルと溢れる。くすりくすりと笑みを零せば結城の能面に皺が刻まれた。
「じゃあな」と、テンポの良い会話はおしまいだと言う風に、結城が腰を上げる。

「待って」

刹那、自分でもびっくりするくらい女々しい行動に出た。
無意識と言って良いほどに、自分の右手が彼に向かう。程良い筋肉がついた腕は、暖かかった。

「まだ、もう少しだけでいいから此処にいて」
「お前…」
「一人になりたくない……だから、お願い」

離れかけた腕を掴んで、まくしたてるように伝えて、でも最後は尻すぼみになる。ワガママな女だと自嘲しつつ、でも、その手を離したくなかった。

感情がたぶん錯綜している。

夢の光景が頭をちらついて、起きた瞬間、視界に入った結城の顔に、なんだか、また泣きたくなった。形容しがたい想いが胸を締め付けて、まだ、結城を帰したくないと強く思った。
夢でも現実でも泣いてばかりで、でもそんな私に結城は呆れるでも怒るでもなく、上げかけていた腰を下ろした。

「結城、優しいね」
「何でまた泣くんだよ」
「……わっかんないよ。なんか思い出して泣いてるんだよ、たぶん」
「思い出したのか」
「……分かんない。曖昧なの、ぜんぶ」
「……いいからもう泣くな」

「洸」と、柔らかな声音が脳を麻痺させる。暖かな掌が頭に添えられた。
ずるい奴だ。効果的な言葉、声音、タイミングまで調整してくる。どんな女でもこんな声を掛けられたら落ちるに決まっている。いや、すでに何人か落として情報を得たことが絶対にこの男にはある。手慣れやがって。
なんだか無性に腹が立ったので、私を撫でる結城を上目遣いで、しかし、挑戦的な瞳をたたえて見遣った。

「じゃあ、目一杯甘やかして」
「は?」
「あやして、機嫌とってよ」
「お前さ、ガキじゃないだろ」
「良いじゃん。泣いてる女子を慰めるくらい簡単でしょ、公安サマなんだから」
「公安サマってなんだよ……お前、本当にどうした」
「別に。良い子ちゃんをやめて駄々っ子になってみただけ」

いつもの私なら、結城を引き止めることだってしない。迷惑をかけちゃいけない、相手との線引きを明確に。私の行動規範に照らせば結城をさっさと返すのが、刀海洸という人間だ。
けれど、今私は、結城から離れたくなかった。

不満と侘しさが綯い交ぜになった顔になる。もっと愛らしく強請ればさっさと首を縦に振ってくれたろうか。いやないな、結城に限って。
こんなの、まるで私じゃないみたいだ。

「ぜんぶ、結城のせいだよ」

勝手に人のせいにして、でも絶対にそうだと決め付ける。結城のせいだ。私を、こんなに弱くて、脆くて、狡い人間にしたのは結城だ、とまた涙が溢れてくる。なんで泣くんだと自問しても、知らないとしか私は答えてくれない。
泣き顔を見られたくなくて、見上げていた彼の顔から逃げる。俯いた先、畳にシミが出来た。

「洸」と、徐に結城が私を呼ぶ。あったかい感触が全身に伝わる。体温が心地良い。鼓動に胸がいっぱいになる。ジャケットから仄かに煙草の匂いがした。ちょっと甘ったるい。知らなかった、結城ってこんな煙草吸うんだ。
結城の知らないところをまた見つけて、くすりと笑う。私の知らない既存のキャラクターじゃない存在。でも、日々彼の新しい面を発見していく。

──I can’t go back to yesterday ? because I was a different person then.

ふと、いつか見た文が頭に浮かんで、自然と口が動いて、言葉を紡ぐ。

「私は昨日に戻ることはできない。なぜなら、昨日の私は別の人間だったから」

ぽつり、と呟いた私に結城が怪訝そうな声音で「どうした」と尋ねる。

「知ってる?不思議の国のアリス、ルイスキャロルの名言だよ」
「なんだよ、急に」
「別に。ちょっと思い出しただけ」

トロピカルランドで、安室さんは私に別の文を教えてくれた。カップに書かれた不思議の国のアリスに出てくる言葉群。なんだか、どきりとする言葉が多くて、他のカップの言葉も調べてみたのだ。その中で、印象的だったのが、これだった。
私という存在はその瞬間しか存在しない、なんてどこかで聞いたことがある。昨日の自分と今の自分は違う存在、もっと言えば、一秒前の私と今の私も違う。常に私という存在は更新されて別物になっていく。

「いろんな経験を積んで知らないことを知って、日々人間ってアップデートされていくんだな、て」

そうやって、何かを学んで知って、その積み重ねが生きるということなのだ。なんて、大した人生も生きていない小娘が言っても諸先輩方からすれば、まだまだ、なんだろう。
けれど、小娘なりに考えて、この考えに行き着いた。
いろんな感情、いろんな考えを見て感じて知って、抱え込んだ情報に翻弄される。中には、知らなくてもいい、知らない方が幸せだったこともあった。

胸に秘めた何かも、愛を感じる心も、愛を与える存在も、もしかしたら知らない方が、幸せだったのかもしれない。

結城の腰に回した手に意味もなく力がこもった。熱を感じて、鼓動を感じて、えもいわれない感情に固く目を瞑り、指先に力が入る。
でも、入れていたはずの力は、ふと押された両肩に霧散した。「え」と瞬いたと思えば、視界は天井を捉えた。正確には端正な結城の尊顔と天井、だ。

「結城…?」
「お前さ」

口を開いた結城はしかしすぐに閉口した。逡巡するように右へ左へと動く瞳孔は迷いの表れ。猪突猛進ではないけれど、やるべき事言うべき事を心得て、理解し納得している結城にしては妙な態度だった。あの結城が何かを言い淀むなんて、私が被害を受けた時くらいじゃないか。

「結城、なあに?」

だからちょっとだけ得した気分になって、あやすような声音で結城に先を促す。涙に濡れた頬に結城の掌が添えられて、親指がするりと目尻の涙を拭う。くすぐったいのは、身体か心か。胸に感じる情動はいったいなんだろうとぼんやりと思案しながら、端正な相貌に微笑んだ。

「……もし、俺が」

そうして、結城が紡いだ言葉は、熱のあるものの筈なのに、なぜか冷たかった。


「今ここで、お前に手を出したらどうする」


きっとその理由は、頭の片隅を過ぎった胸糞悪い記憶に起因するものだ。嫌な記憶と蓋をして、背を向けた先にいた結城に慰めてもらったのに、現実にそんな事を言われれば、嫌でも思い出してしまう。
肌を這う怖気が立つ感触はきっと忘れられない。
それでも、

「なら、抱いてみる?」

微笑みを崩さずに結城に問い返す。笑みの下にどの感情があるのかは悟らせない。頬に添えられている結城の掌に自分のそれを被せて、絡めた。

「構わないよ、私は。どうせ何もない人間なんだから。それに、」
「……なんだ」

それに……そうだ。

「……こんな行為に、意味なんてないから」

自嘲に歪んだ口元に、結城が目を見張った。
身体を重ねることで塗り替えられる記憶もない。事実は事実として存在するし、あの時の私は紛れもなく私だ。今の私はあの日から上書き保存されているだけで、名前をつけて別名保存された別人ではない。
こんな行為に意味を見出しちゃいけない。

それでも、拒む事をしないのは、

(……私もずるいなぁ)

「結城に食べられるなら、まぁ悪くはないから。食べたかったらどうぞ」

一つ屋根の下、男女が密に出会っていて何も起こらないのは、実はまあ不思議ではない。可能性なんて万に一もあり得なかったからこうして何度も出会っていたわけで、だからこそ問いかけてきた結城の方が答えに窮しているようだった。了承されるなんて思っていなかったんだろう。
自らを差し出す私に目を細めて、感情を見定める瞳が私を見下ろしている。静かに、結城は私をただ見つめた。

「……馬鹿か、お前は」

はぁ、とひとつ息を吐いた結城が私から離れる。上体を起こして、「やめるの?」と戯けた調子で問えば、いつもの淡白な声音で返された。

「誰が食うかよ、腹下す」
「聞いておいてそれはひどいなぁ」

ケラケラと品なく笑う私に結城は嘆息すると腰を上げた。リュックを引っさげて何も言わずに玄関へと向かう結城の後を追う。バツが悪いのか何なのか知らないけれど、随分と素っ気ないものだ。

「結城」

靴を履き終えて、ドアノブに手をかけようとした彼の背に呼びかける。感情の読めない能面が振り返って、その顔に精一杯の笑顔を向けた。



「さようなら」







見込み捜査で動いて誤認逮捕、起訴までやってから裁判でひっくり返って逆転無罪、なんて話はこの日本であまり聞かない。検察が起訴すればほぼ百パーセント有罪になるのがこの国だ。仮に逆転無罪になっても、名前も職業もつまびらかに晒されては、社会生活はしばらく穏やかに送れなくなる。
だから、捜査は慎重に。証拠が出てくるまでは犯人扱いしてはいけない。

では、証拠が出てきてしまったら?

(……時間だ)

スマートフォンの画面が指定時刻になる。静まり返った住宅街を進んだ。一歩踏み出すたびに、やけに胸が凪いだ。夏の夜、薄い雲が月光を隠す中、目的地の前に辿り着いた。
店舗から出てきたその人は、夏だというのにしっかりとフード付きのジャンパーを着ていて、陰っているその相貌に口を開く。

下準備は整えた。
もう、後戻りはできない。



「店長、どこに行かれるんですか」



ざわりと、空気が軋んだ。


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