住宅街から外れた町工場、それもつい最近閉められたばかりのそこに足を踏み入れる。幸いなことに電気がまだ死んでいないらしく、カチリカチリと行く手の電灯のスイッチを押しながら目的地へ向かった。カンカン、と無機質な音が工場内に響く。
工場の一角、休憩室か会議室だった場所なのか、三階の最奥の部屋に足を踏み入れた。部屋の隅には乱雑に長机とパイプ椅子が置かれている。角部屋ということもあり、窓が他の部屋より多く設置されているせいか、薄雲から漏れた月光が、室内を仄暗く照らした。
敢えて電灯は付けずに自然光だけで窓へと近づく。静謐な空気が流れる室内で深く息を吐き、ゆっくりと瞬いた。次いで、手にしたスマートフォンの時刻を確認する。

刹那、カン、と遠くから靴音が聞こえた。

生唾をひとつ飲み下す。バクバクと早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように息を深く吐いた。
近づく足音が現実を連れてくる。後戻りをしないと誓ったのは自分自身なのに震えが止まらなかった。
スマートフォンをポケットに入れる。足音が大きくなり、ガラリと扉が、開いた。廊下の電灯を背に入ってきた人物の相貌は影に隠れている。窓際に佇立していた私に、人影は一歩二歩と近づいて、止まった。

(私は、昨日に戻ることはできない)

脳裏に浮かんだ言葉を噛み締めて、前を見据えた。
薄雲が晴れる。月光は一筋の光となり、私と、そして……


「こんばんは」




──結城。




彼を照らした。
私が、弧を描いた口元を向けたのは、変わらない能面の彼だった。




『偶然ではない』

安室さんの言葉にずっとひっかかりを覚えていた。私が今いるこの状況は偶然ではなく、作り出されたものだと彼は言った。
それは、彼が発することで真実となった。私は彼を知っている。彼の真意はともかく、彼という存在は悪ではないことを知っていた。だから、その言葉に裏はないと確信した。
そこでもう一度整理した。何故私がこの状況に陥っているのか、をではない。ただあった事象を羅列した。
ピースをはめていく中で浮かび上がった注意すべき人物はやはり、溝口明彦、店長だった。私が何かに巻き込まれていることを知りながら、知らないふりをしている彼には、確実に嘘があるからだ。
私が渦中にいる状況を作り出そうとしている人間、または、渦中にいる状況を作り出すために私の情報を流している人間がいる。そして、それが出来るのは私を知る人間だ。
この二つの可能性に一番近いと考えたのが店長だった。店長は知らない人間と密に会い、連絡を取っている。それも、秋穂さんに隠して、だ。

そのことを真正面から問えばはぐらかされる。故に、私がとった行動は──


「まさか、店長が連絡を取っていたのが結城だとは思わなかったよ」


手にしたUSBメモリをチラつかせる。変わらない能面は私を静かに見据えていた。

昨今は便利な機械が巷にゴロゴロ転がっている。発信機から盗聴器まで、犯罪にも流用できそうな便利グッズが売られているんだから、悪いことを考える人間にとっては都合が良い。

あの日、家を飛び出した私が向かったのは大型電気店だった。購入したのは、電話の親機に付ける録音用アダプタ。
電話がいつかかってくるかは分からない。だから、店長の動きを私はつぶさに観察した。私が店に出入りする限り、必ず向こうからかかってくる時はある。何故なら、昔気質の店長は携帯電話を持っていないから。連絡手段は直接会うか、電話の二択。以前、店長に連絡が来たことを考えれば、その選択肢は一つに絞られる。
忙しなく働く二人と共にフロアで料理を出したり、厨房で洗い物に勤しんでいると、その時は訪れた。電話が鳴る。店長が受話器を取る。聞こえてくる声が何段階も低くなり、焦慮に駆られた声音が耳朶を打った。来た、と直感が告げた。

録音した音声を聞き、店長と件の人物が落ち合う場所を聞けば、後は尾ければいい。そこでまたボイスレコーダーで声を取り、なんなら隙があれば動画を撮影すればこちらの勝ちだ。あとは、然るべき機関に情報を提供してお縄についてもらえば。
そんな、稚拙な考えを上回る事実があるとも知らずに、私は家に帰り、録音したアダプタの声を聞いた。

「びっくりだよね、結城の声が聞こえるなんて」

ケラケラと笑う。無感動に笑う。笑っているのに心の中はすっからかん、何もない空洞だった。

「あんまりにもびっくりしてさ、聞き間違えかと思ったから、ちゃんと確かめてもらったんだよね」

笑いながら、ぺらり、と突きつけたのはコピー用紙。声紋分析結果、と記されたそれにも、結城は表層を崩しはしなかった。

声紋。指紋と同じように人には特有の波長がある。それを、民間の声紋分析機関に依頼すれば、当人の声かどうかを調べてもらえるのだ。
幸いなことに、私は結城の声を『持っていた』
彼と初めて対峙したあの日、逃さないために録音した音声データと、電話口の声を照合した結果、それは悲しいことに一致した。

一致した、すなわちそれは、私の知りたいことを意味していた。

偶然ではない作り出された状況、私の知る人間、私を知悉した人間の所業。
思えば、そんな人間は限られていた。だからこそ、想定できた筈だった。いの一番に疑って然るべき人間を見落としていた。

「結城」

だって、疑うことすらなかった。そうでしょう?いつだって寄り添って、軽口叩き合って、そんな信頼関係が実は砂上の楼閣どころか全て虚構だったなんて誰が信じる?信じられる?

けれど、真実は残酷だった。

「貴方が、仕組んだことなの?」

疑問はもはや疑問じゃない。ただ、問うた声はやけに震えていた。

沈黙が流れる。月光に照らされた結城の相貌は変わらない能面のままだ。光が灯っていない瞳が私を見据えて、静かな色の中に内面を暴くような獰猛さを兼ね備えていた。

「否定したところで意味はない」

能面は狩人の瞳を湛えていて、感情が一片たりとも乗らない声に背筋が震えた。
これが、結城、結城亮という存在。
仮面の下に見えていたのはこの顔だったのかと、少しだけストンと腑に落ちた。
以前、なぜ警察官になったのかと結城に問うた際に見せられた氷のように冷たい眼(まなこ)。なぜそんな目をするのか分からずに、違和感と僅かな恐れを抱いたあの時の感情が蘇る。
これが、結城本来の顔だとしたら──

「溝口明彦はどこにいる」

冷然とした声が肌に刺さる。身体に刻まれる、命の危険への恐怖が全身を震わせた。
きっと、今の結城なら私を殺すことも造作無い。それほどまでに冷徹な瞳が私に向けられていた。仄暗い瞳のどこにも光は見えない。
怖い、と純粋に感じた。

けれど、それ以上に──

「教えない」

きっぱりと言い放った声、震えてないかな。

怖い、けれどそれ以上に胸を締め付ける感情があった。
青い空、臨海副都心で見上げた夏空と私の手を引いてくれた温もり。涙を流して震える身体を抱きしめてくれた体躯。分かりづらい優しさを見せてくれた、暖かい人の心が、今はただ哀しかった。
本当に暖かかった。心が、満たされて、ただ本当に、暖かかった。だからこそ…

恐怖以上にただ私は、哀しかった。


「……ねえ、どうして私だったの」

こみ上げる哀切を無視して問い掛ける。泣きたい衝動を押さえつけて、努めて冷静な声音を出した。
対する結城の声に、色は乗らない。

「都合が良かった。それだけだ」
「……身元不明、記憶喪失、身寄りのない女は都合が良いって?」
「理解しているなら聞く意味がどこにある」

言葉が棘となって心臓に刺さるようだった。

「答え合わせをしたいだけだよ」

にこりと、曖昧な笑みが自然と出た。口元が弧を描く私とは対照的に、結城は片眉すら動かさない。

「……初めて結城が私に接触したのは、図書館だった。あの時から、私に目星をつけてた」

「あの時は逃げられちゃったね」と肩を竦める。
滔々と語り出した私に結城は口を挟まない。否定がないということは肯定だろうと捉えて、話を進めた。

「初めてまともに話したのは、トロピカルランドの時だった。今思えば、私なんかが追いかけても逃げられた筈なのに、結城は私をわざわざ待った。しつこいから根負けしたみたいに言ってたけどそんなわけないよね」

思えば、違和感を感じることはいくらでもできたのだ。

「他の人間を頼らないように私達を共犯者という括りにしたのも、相澤智則の情報を渡してくれたのも結城だった。高橋に辿り着いたのは私自身だけど、あれも辿り着かなかったら誘導するつもりだったんでしょ。事件現場の場所を教えてくれたのも結城。今思えば、真っ先に疑うべきは結城以外にいなかった」

「それでも、できなかったけどね」と苦笑する。
作り出された状況、偶然ではない。なるほど確かにそうだ。私が今置かれたこの状況は全て、結城がいないと成立し得なかった。
でも、そもそも私は彼を疑うということを失念していた。

「すごい人心掌握術だよ。見事なもん。どう考えたって、高橋が私の情報を得るためには私自身の行動を知っていないと無理があるから、考えられる人間は限られてくるのに、私は結城の可能性すら考えなかった」

むしろ、良くしてくれた秋穂さんまで疑ってしまっていた。私のことを気にかけ、手を差し伸べてくれたあの優しい瞳を、私は疑ってしまったのだ。
疑心暗鬼に憔悴した人間を懐柔するのは、さぞ簡単だったろう。

「高橋が私の家を襲った時、店長に連絡を入れたのも結城でしょ?」
「……何故そう思う」
「やだなぁ。結城以外に誰ができるの。わざわざ、高橋に私を襲わせといて」

ケラケラと溢れた乾いた笑いに、結城がピクリと眉を動かした。気付かないとでも思ったんだろうか。

「結城にとって一番都合が悪いのは、私に疑われること。そして、私が一連の事件から要観察対象として外れることも避けたかったんじゃないの?」

始まりは、二つの事件だった。密入国者を引き入れるブローカーが摘発された事件、そして一千万円相当の高級ブティクが盗まれた事件。
ちょうど、私がその時期に記憶喪失者として現れたため、店長経由で公安の風見さんと結城、そして、組織に入り込んでいる安室さんにも私の情報がいった。
要観察対象となった、ひとりの女。

「事件に絡んだ殺人事件まで起きて、事が大きくなって、色んな目が私に行くようになった。風見さんにも、一時期は気を許してもらっていたのに、また疑われたりしてさ」

高橋という組織に絡んだ人間が襲った、記憶喪失の女。怪しいことこの上ない。

「高橋に私の情報を流して、さらに、高橋が私を襲ったことで、私への疑念は深まる。被害者だといっても、では何故被害者となったのか、てね。何も出てこないから、余計疑いの目は向けられる。けれど、私に死なれたらそれこそ本末転倒。だから、店長に連絡を入れて、誰かしらに助けを呼ばせた」

店長が安室さんを呼んだのは、以前私が安室さんに世話をされたからだろう。

「見事、高橋達は捕まり、私は被害者なのに疑われる。踏んだり蹴ったりだよ、まったく」

もはら乾笑しか出てこない。何も否定の言葉を差し込まないところを見ると、このふざけた私の見解は間違っていないようで。その事実が余計、自嘲にも似た笑みを浮かべさせる。

結城は、一言も返すことなく私を見据えていた。現実を映すその瞳が、彼の無情さを私に嫌というほど伝えていた。

「………もう一つ、確認したい事があるの」

青白い月光を浴びる彼に、縋るような思いで問う。

「高橋を殺したのは、結城なの?」



刹那、結城の腕が、腰の後ろに伸びて──




「……そうだ」





一発の銃声が、響いた。



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