生きてきた中で、意識が飛びそうになるほどの痛みに見舞われたことなんて一度もない。運動会でコケた、部活で捻挫した、あって突き指程度の痛みにしか慣れていない私に、この痛みは少々、堪えた。

「…ッ、いっ…あ」

肩が焼けるようで、感覚がそこの一点に集中する。痛い、と脳が信号を出して出し続けてそれを遮断したいのに、そうもいかない。理性は送られ続ける危険信号を受け止めすぎて機能しなかった。
ぐらりと体が揺れる。それでも、両脚に力を込めて踏ん張る。もはや力を込めることができているのか分からないほどの尋常じゃない痛みが肩口に走っているけれど、それでも私は結城を見据えた。
結城は、仄暗い瞳を私に向けていた。瞳に残る光は淀んでいて、私を見つめるそれはひどく物悲しい。何色にも染まっていない、色。冷徹で冷酷な、ひどく化け物じみた双眼がそこにはあった。

「……お前がそこまで調べているとは予想外だった」

硝煙が薄く立ち込める。手にした鈍色の凶器、銃口をこちらに向けながら、結城は問うた。

「いつから気付いていた」
「……いつ、だろうね。当ててみたら?」

ニヤリと虚勢が顔に貼り付けられる。脂汗がこめかみを伝う程度には、痛みが酷かった。
結城は片眉を僅かにあげたけれど、すぐに能面をかぶり直した。問い直そうとしない辺り、そんな瑣末ごとはどうでも良いと判断したのだろう。実際、どうでも良いと思う。私がいつから気付いていたところで、今のこの状況が変わるわけじゃない。

激痛に息が荒くなる。赤が広がる傷口を片手で抑えて、結城を見据えた。

「……どうして、高橋を殺したの」

ひたりと、静まった声色で問えば、平坦な声が非情な男の心理を告げる。

「厳密に言えば殺しはしていない。誘導しただけだ」
「……誘導?」
「組織への上納金を横領するような人間を生かす意味はない。他の奴らのように、直ぐに殺しても良かったが、使い所があったから泳がせた。あとは、自分で始末をつけさせただけだ」

淡々と、事務的な会話をするように自分の行為を語る結城にぞわりと背筋が粟立つ。予想していたことが現実のものとなり、感情の置き場がわからなくなった。
あの凄惨な殺人現場を作り出したのは他ならない結城で、あの場に私を誘導したのも彼だ。この分だと、あの時警察に一報を入れたのも結城ではないか。
全部、全部仕組まれていた。全ては、捜査の目を私へ向け、利用しやすい私を取り込むため。そして、組織の膿となりえる構成員はトカゲの尻尾切りのように始末する。

『人生に絶望した』

そんメッセージを残して自殺した高橋は、何を思っていたのだろうか。痛みが、苦しみが、死が這い寄る中で何を。

「もう一度聞く、溝口明彦はどこだ」

再度問われて、それでも口を噤む私に結城は小さく舌打ちをして、乾いた音が二発、また響いた。絶叫に近い声が喉奥から漏れて、二本足で踏ん張っていた身体は無様に地に付す。
自分の身体が赤に染まるのが、なんだか信じられなかったけれどこれは現実だ。
肩が、太ももが、腕が、いたい。痛過ぎてもはや意味がわからない。自分の置かれた状況を認識したくないほど、痛みが酷かった。
巡る血潮が体内から溢れていく。底冷えする感覚が身体を支配して、地に伏した身体をなんとか動かして上体だけは上げたけれど、下半身はもはやピクリとも動かなかった。

「馬鹿な女だ」

背筋がゾッとする声音、低く冷徹な声色が男から発せられた。その顔はたくさん見て、たくさん話した筈なのに、どうしてだろう、ひどく彼が遠い。鼓膜を刺激する深い絶望の声音が、あまり現実的じゃなくて耳を塞いだ。

「このまま、知らないふりをしておけば済んだ。わざわざここに来なければ、死ぬことはなかった」

淡々と事実を述べる彼の心境がつゆほども分からない。けれど、思えば私は彼のことを何一つとして分かっちゃいなかった。
そうだ、私も彼も、お互いのことを一つとして話したことはない。異世界からやって来てしまったこと、組織のことを知っていること、多くの人の過去を知ってしまっていること。ひた隠しにしている秘密は決して彼に伝えてはいない。
そして彼も、何一つ過去を私に話したことはなかった。


──嗚呼、だからなのか。


「……馬鹿、じゃない、の」

納得して、思わず口の端が僅かに上がる。片眉を上げ、怪訝な顔になった彼の相貌を鼻で笑ってやった。
なんだ、結城でも分からないことがあるのか。
そう考えると存外気持ちが良かった。

「この…愚鈍」

私は物語の主人公みたいに、優れた推理力も体力も知力もない。形成逆転の一発なんてものは存在しない。
嘲笑と共にニヤリと歯を見せつけてやったのは、ただの虚勢だ。痛くて、苦しくて、本当は泣きたいくらいの状況だけれど、それでも笑ってやろうと思った。

泣いてなんか、やらない。

「ッ、アぁっ!」

乾いた音が響く。結城がもう一発私の足に風穴を開けた。正直もう鈍い痛みしか感じない。脳が自動的に痛みをシャットダウンしているのだろうか。
浅く漏れる息と生唾を飲み下して、薄れゆく視界を必死に保つ。あ、これはマズイ。意識がいつまで持つだろうか。
上体を保つこともできなくなって、ずるりと体が地に落ちる。かつんかつんと革靴の足音がコンクリートに響いて、一歩二歩と結城が近づいてくるのが見えた。

「馬鹿な奴」

そんなこと、わかってる。

「……理解しがたいほど愚かだ。利用されているのが分かった時点で、お前は王手だった。お前の勝ちだった。知らぬ存ぜぬを通すことも、俺の情報を公安に明かすこともできた」

最適解を述べる結城に言うことはない。それが正しい判断だ。自分を陥れようとしていた人間が分かって、その証拠も手に入れたのなら、あとは然るべき機関に保護を頼んで、犯人が出没する場所を伝えれば良い。
けれど、ただ、それだけのことができなかった。

口の端を上げて、肩を僅かに許して笑いを漏らせば、結城が怪訝に眉を顰める。

「本当に…馬鹿…」

どうするべきか、そんなことはどうでもよかった。

「人を利用するやり方も…欺く方法も、分かってる、くせに」

どうしたいか、それしか考えていなかった。

「私の気持ちひとつ、分かんないなんて…馬鹿じゃないの」

嘘から始まった関係が、本当になってしまったことで、抜けない楔が穿たれた。
始まりから終わりまで、確かに虚構の関係だった。それでも、そこにただひとつ真実があった。
与えられた感情、景色、救われた心と身体が、もはや正常な判断を私から奪っていた。
赤子は、生まれた瞬間からそばにいる親を見て育つ。どれだけの理不尽が与えられようと、ただ傍で自分を見つめる人間を簡単に切り捨てることはできない。

どれだけの仕打ちをされても、
どれだけの悪意をぶつけられても、

「ばぁか」

私は、もう戻れない。


全身の感覚が薄れていく。吹く風すら熱気を伴う夏だというのに、身体が芯から冷たい。どれくらい時間が経っているのか、それすらもう曖昧で、外界から隔絶された空間にいる心持ちになった。
そんな中でも、タンタン、と靴音だけはやけに耳について、不明瞭な視界の先の彼が自分に近づく姿を視認する。

「……ねぇ、結城」

覇気のない声が喉から溢れて、自嘲に歪んだ口元で紡いだ。

「終わらせてよ、ぜんぶ」

全て分かった上でここに来たのは、信じたくなかったからだ。
一縷の望みにかけて、そんな切望は絶望に変わると心の何処かで理解した上で、それでも私はこの場に来ることを止められなかった。焦り顔で止める店長に伝言を残して、然るべき場所へといってもらってここまで来た。
そして、絶望へと舵を切った船が行き着く先なんて、決まってる。

「運命共同体、なんでしょ…なら、この関係も、ぜんぶ、はやく…もう、」


──疲れたよ。


万感の想いが言葉に乗った。
疲れた。そう、疲れたのだ。疑い、欺き、心に溜まる澱みに苛まれながらそれでも見つけた一つの光も、実は幻だった。

もう、誰かを求めるのは嫌だ。

世界が私を捕らえて離さないなら、終わらす方法はひとつだ。

このままでも、どうせ終わるけれど、ならせめて──


「結城が終わらせて」


引き金を引くなんて、簡単でしょう?

溢れた笑みは、今までで一番綺麗なものになったと思う。曖昧な笑み、やり過ごすためのそれではない。純粋に溢れたものだった。
私をこんなに弱くして、変えた張本人にこの世界を終わらせてもらえるなら、悪くない。私の物語は、これが結末だったんだ。
神様に落とされたこの世界、無理やり紡がれた物語、その終末が決まっているとしたら、きっと今だ。身体の感覚が薄れて、もう、意識もはっきりしない。

ただ、聞こえた音だけは、やけにクリアだった。


「……馬鹿か」


僅かに震えた声が、耳朶を打って、にべもない答えが鼓膜を震わせた。


「俺を巻き込むな」


──嗚呼、つれないな。


悲しいくらい、いつもの声音だった。

遠のく靴音が終わりを告げる。待って、と手を伸ばしても、もう何も見えない。視界が霞むのは意識が遠のいているせいなのか、それとも瞳に張った薄い皮膜のせいなのか分からなかった。


「ひどい、男」


意識がぷつりと切れる時、何故か、懐かしい声が聞こえた気がした。


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