またこの夢だ。幾度となく見てきた光景が再び目の前に現れる。真っ白な部屋、ベッド、カーテン、窓の向こうには限りない青が広がる。
ぽつねんと佇立する私に、柔らかな声が掛けられる。柔らかく、しかしどこか弱々しい。生の終わり、先細る灯火を体現するかのような声音に空へと向けられていた視線は室内に落とされる。「洸ちゃん」と、緩んだ目元と暖かな視線が私を優しく包み込みこんだ。
──嗚呼、私はこの光景を知っている。
静かに忍び寄る絶望に気づかないふりをして、ただ陽光が降り注ぐ状態かのように振る舞った。大丈夫、私は大丈夫、とそれは互いが己にかけた呪いだった。
その優しさが、首を締めた。ゆっくりと、真綿で締めるように、優しく、緩やかに。
やがて、辿り着いた絶望が私の目の前に具象化した時、私の胸に残っていたのは、果てしない悔恨だった。
そうだ。私は昔から、そう誰にだって、そうやって、曖昧に笑って、距離を取って。その結果の無慈悲さを知らなかったわけじゃないのに。
逃避して、見ないふりして、
どこかで、私は、諦めていた。
「おばあ、ちゃん」
求めることは、尊くて、残酷だ。
*
まず最初に、聴覚が働いた。パタパタと靴音が耳に届いた。次いで、瞼越しに光を視認した。重苦しい瞼を必死に上げて、網膜が外界を認識し始める。
目の前に飛び込んできたのは、白。真っ白な天井。仰向けの身体はピクリとも動かなかったけれど、徐々に脳が信号を伝達して神経が機能する。
眼球を動かして、部屋を見渡すと右手に窓が見えた。真っ白なカーテン、白が覆う室内、記憶とリンクするその光景でひとつ違ったのは外の色だった。どんより灰色。澄み切った青は灰に塗りつぶされていた。
それでも、リンクする光景が多いということは、示す現実はひとつ。
「生き…てる……」
信じられないくらい、私の意識はクリアだった。
私の意識が戻ったことで、看護師さんは慌てて医師を連れてきた。そこで、私は今私が置かれている現状の説明を受けた。
身体に四発の凶弾を受けていたこと、出血が酷かったけれど一命はとりとめたこと、此処は警察病院で、自分が昏睡状態に陥っている間、知り合いの刑事が来ていたこと。
一から説明を受けて、取り敢えず現状を理解した。理解したところで、いの一番に浮かんだのは私を置いて行った彼の後ろ姿だった。
(結局、何もわからずじまいになっちゃった)
なぜ、どうして、と重ねた疑問に答えは出ず、結局私は置いていかれてしまった。
その現実に、胸がじくじくと痛みを覚え始めていた。
しばらくは安静にしていないといけない。医師からの説明を受けていた最中、扉がノックされてガラリと開いた。その先に、見知った顔がひとつ、そして知らない顔がひとつ。見知った顔、風見さんは私の姿を見るや否や、あからさまに安堵した様子を見せた。嗚呼、心配かけたんだな、と会釈をして曖昧に笑う。
そしてもうひとつ、知らない顔の人は、部屋へ入ると医師に退出を促した。硬い声音に、医師も素直に応じて「失礼します」と場を後にする。
風見さんがいてくれるとはいえ、全く知らない、とはいってもその佇まいから、ごく普通の警察官、とは一線を画す立場の人だということは理解できた。肌に感じる空気が、やや刺々しい。
初めまして、と笑顔の牽制球を投げれば、男性はそれを硬質な顔面で受け止めた。
「突然申し訳ありません。私は、風見の上司にあたる人間です」
やばい、なんか偉い人だ。
「風見さんの?」と問えば、能面の上司さんは無言で頷いた。
「警視庁公安部公安総務課長、有崎正親です」
「総務、か、ちょう…?」
なんか偉い人どころじゃない。めちゃくちゃ偉い人だ。
公安総務といえば、確か公安部の中でも華型の課でその総務課長は出世コース間違いなしのエリートだとか聞いたことがある。
そんな総務課長が直々に一小娘に面会に来たということは勿論公にできない秘すべき事柄があるからで、それが何なのか、否応無しに察しがつく自分自身に嘆息した。
「傷の具合はいかがですか」
「痛みはありますが特に問題はないです。抗生剤を点滴投与しつつ安静にしていれば、いずれ退院できると先生も言っておられました」
経過の話をしにきたわけじゃないだろう。にこりと答えた私は、それで、と切り出した。
「いったい、どのような御用向きで来られたんですか」
ストレートに問いかけた私に、風見さんが僅かに顔を歪ませた。何かを言いたげな表層をしたけれど、傍の総務課長が黒縁眼鏡をくいっと上げ、私に返した。
「お詫びをするためです」
「お詫び、ですか」
「風見とそして私の部下でもあった、結城亮の凶行を謝罪します。本当に申し訳ありませんでした」
居住まいを正した七三の髪をした男が、私に深々と頭を下げた。これでもかというほど深々とそして長々と下げられた頭。その姿に若干動揺の色を見せた風見さんもすぐに同じ姿勢をとった。
公安警察官、結城亮は捜査中の組織の一員だった。
この事実が明るみになったのは、私が店長に頼んで、風見さんにボイスレコーダーと固定電話の音声記録、そして声紋分析結果の資料を渡してもらったからだった。
あの日、結城の元へ行こうとしていた店長を呼び止めて、私が知り得た全てを伝えた。勿論、店長が風見さんとも、組織の一員としての結城とも繋がっていることも含めてだ。
店長はたいそう驚いていて、でも直ぐに苦悶に顔を歪めた。すまない、といつもは硬質な顔がくしゃりとなったのを見てしまったら、もう何も言うことはなかった。
私を利用していた結城に協力することは、店長にとっても苦痛だったはずだ。だから、何度も電話越しに彼に懇願していた、これ以上は無理だ、と。
でも、それでも人を殺めることのできる人間から完全に逃げ果せることはできないと判断するのがマトモな人間の思考だと思う。側にいた風見さんだって知らなかった結城の一面。一市民にどうすることもできない。下手をすれば、秋穂さんに被害が及ぶ可能性がある。
だから、全部を終わらせる、と伝えて証拠品だけは店長に預けた。
私が店長の代わりに結城に会えば私が死ぬだけではなく店長に危害が及ぶ。風見さんにことの顛末を全て暴露して、秋穂さんと店長を安全な場所に避難させるくらいの時間稼ぎなら出来た。
結果、結城亮の凶行により私は重傷を負った。
「……謝らないで下さい。分かっていて、私は彼に会いましたから」
分からずに会ったわけではない。暴露すれば彼は私を消さざるを得なくなる。それを理解した上で私は会いに行った。
形式上だとしても、公安総務課長なんて大物に謝られる必要はない。
私は、全てを終わらせるために会いに行ったのだ。文字通り、全てを。
それに、この謝罪が私が重傷を負ったからというだけのものでないことも薄々勘付いている。
「私の責任です。だから………結城亮という公安警察官が一市民を撃って重傷を負わせた、なんて事実はなかったんです」
黒縁眼鏡をかけた瞳の奥がぎらりと光った。
「私は、よく分からない怪しげな組織の一員に目を付けられて、殺されそうになっただけです。だから、有崎さんに謝罪していただく理由がありません」
「ッ、刀海さん!」
「風見」
有無を言わせない声が風見さんを制する。有崎課長の声色に風見さんがぐっと押し黙った。対する私は、総務課長をじっと見据える。
公安警察官が一市民に重傷を負わせて逃亡した、なんて事実が明るみになれば、世間から受ける非難の嵐がいかほどのものになるか想像がつかないほど一般世論に疎くはないつもりだ。ましてや、なぜそんなことになったのかをマスメディアが追求してみろ、ややこしいことこの上ない。物語の都合上よろしくないことは承知している。
誰も、この人を試そうとしているわけじゃない。本当に、これが最善だと思っている。おそらくこうすることが、私にとって一番都合が良い。
「……分かりました。ありがとうございます」
課長は、今度は浅く頭を垂れた。公安警察の華型部署の長としては、存外、真摯な人だと感じた。
「……でも、ひとつだけ良いですか」
だからこそ、気がかりになっていることを話すことができた。
「何でしょうか」
「溝口明彦さんと秋穂さんの身の安全は保証していただけますか」
元公安警察官、そして現組織の一員の人間と接触していたとなれば、もうごく普通の人間には戻れない。その身に危険が及ぶことは十二分に考えられる。見返りといえるのか分からないけれど、そこだけはきちんと保証してほしかった。
私の問いかけに、総務課長は頷いた。
「勿論です。協力者の身の安全の確保は我々の任務の一つですから。ただ、この土地以外の場所で生活していただくことにはなります」
「そうですか…」
やっぱり、同じ場所にいることは危険なのだろう。とはいえ、公安の保護下で過ごすことができるなら致し方ない。
「溝口夫妻のことは我々に任せて下さい」
「店長も秋穂さんもその方が安心です。お願いします」
「はい………あと、もう一つ」
「…何でしょう?」
ひとつ前置いた総務課長に首を傾げれば、少しばかり硬い声音を向けられた。
「……貴女の身もこちらが保護することを決定しました。就籍許可も直ぐに降りるでしょう。勤め先もこちらが斡旋します、ご安心を」
決定事項の伝達。だからこそのこの声音だ。決定権はこちらにあるという様相、有無は言わせないと言わんばかりの態度だった。
ご安心を、とは身の安全だけではない、私の今後についてだ。身の安全だけではなく、私という異物をこの国の国民として保証する。しかし、勿論放し飼いというわけではない。だからこその、斡旋、なのだろう。
好意的に捉えれば権力が私を守り身元を保証してくれている。穿った見方をすれば、信用を置けないから手綱を握られた。
「ありがとうございます」
ただ、私は存外あっさりと状況を受け入れた。
異を唱えることも、反論することもなく謝意を述べた私に総務課長は目を瞬かせた。七三頭の能面に走った僅かな亀裂に、力無い微笑を向ける。
拒否権がないからとか、仕方がないとか、そんな理由じゃない。単純なことだ。
(……どうだっていいよ)
彼ら公安が、組織を探るために私にしでかした何もかも、今となっては詮無いことだ。盗聴、尾行、凡ゆる詮索。極め付けは、その捜査員の一人が裏切っていて、撃たれて殺されかけた。
その全てが、どうでもよかった。
これが、落とされた世界での物語だとしたら致し方ないじゃないか。私も、もしかしたら彼らさえも登場人物の一人かもしれない。
世界に操られる人形に、思考する余裕はなかった。
*
「──以上が、結城について我々が調べた結果です」
傍で話し終えた風見さんが直立の姿勢をとる。座って下さいと言ったのに、頑なに立ちの姿勢を崩さない彼の生真面目さに笑ってしまったけれど、受けた報告にその笑いは直ぐに引っ込んだ。
「……メスカル…ですか」
「件の組織で使用されているコードネームのようです」
「で、頭文字のMをとって、溝口さんには宮島と名乗っていたと」
どうせならもっとマシな偽名使っとけばよかったのに、と一笑に付したい気持ちはあるのに、残念ながら笑いの一つも出てこなかった。
嗚呼、本当に彼はそっち側の人間なんだな、と改めて状況を俯瞰する。
風見さん含めた公安警察官、おそらく安室さんも関わっているだろう、彼らの調査の結果は私にも伝達された。一市民の扱いを受けるどころか情報を開示される側になっている現実が正直意味がわからないけれど、私の存在はまだ彼らにとってグレーなのだろうと思い込んだ。
結城亮、26歳。出身地は東京。両親と年の離れた兄の四人家族。両親は健在で、現在は脱サラしてIターンで地方で農業を営んでいる。兄は大手通信会社でシステム管理、保守業務を担当。幼少中高と都内の公立校に進学、大学は県外の国公立で国際政治学を専攻し、卒業。警察学校で首席となり、交番勤務、警備課勤務を経て公安へ配属。
経歴としては何ら不自然のない、至って平凡な彼がいったいどこで黒の組織に使嗾されるに至ったのか。そもそも、どの時点で組織との繋がりがあったのか。そこの部分はまだ分かっていないということだった。
「高橋勇が拘置所で自殺した際、メッセージを当てたのも結城だったのでしょう」
風見さんは懐から写真を取り出して、机の上に置いた。とんとん、と指を指した箇所に記されていたのは、あのTo.Bの文字。
「……これって」
「Bだと勘違いしていましたが、これはおそらく数字の十三です」
「十三……あ」
はた、とピースがはまったように気づきを覚えた。メスカル。頭文字はM。アルファベットの並びで何番目かというと──
「高橋の取り調べを最後に担当したのも結城でした。その際に、何かを高橋に伝えたのかもしれません。真相は分かりませんが」
「そうですか」
沈黙が流れる。報告を終えた風見さんは相変わらず直立不動の姿勢のままだった。
総務課長が訪れた日以来、風見さんは足繁くこちらに通ってくれた。仕事は山積みだろうに、ほぼ毎日顔を出してくれる彼に「いいですから」と毎度断りを入れているのだけれど、好きでやっていることだ、と頑なに通うのをやめようとはしなかった。
何か思うところがあるのだろうけれど、それを尋ねたところで意味はない。もし、自責の念を抱いているのなら私が許しの言葉を投げたところで、彼は己を良しとしないだろう。
彼を見上げれば、憂いを帯びた瞳とカチリと視線が合う。目尻を下げて口元を緩めて、風見さんに問いかけた。
「ひとついいですか」
「なんでしょうか」
「立って話してもらうことでもないので、ちゃんと座って下さい」
「しかし」
「ね?」
だめですか、なんて首を傾げれば、風見さんはバツが悪そうにしつつ椅子に腰を下ろした。
「なんでしょうか」と問いかけられた私はひとつゆっくり瞬く。瞼の裏に見えた背中に湧き上がる情動を噛み締めて。
「風見さんから見て、結城はどんな奴でしたか」
どうでもいい、なんて言って、私はまだこの幻想に囚われている。
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