結城亮は、ひどく不器用な男だった。それすらカバー(偽人格)を演じていたに過ぎないかもしれないけれど、私から見た彼はひどく不器用だった。
警察の目を私に向けつつ、私の信用を得る。そのための接触だったとしたら、もっと大胆な行動に出ても良かったはずだ。手っ取り早くするなら、私に愛の言葉でも囁き、甘ったるい行動で溶けるほど甘やかしてしまえばずぶずぶと簡単に彼の深みに落ちていっただろうに、彼はそれをしなかった。
付かず離れず、絶妙な距離感で私に相対し、でも自分だけは特別だという刷り込みを忘れない。
そうして私は、確かに彼に救われていた。その言の葉が、掌が、私をあの現実から引き上げてくれていたのだ。
疑念の目も、かけられる嫌疑も、すべてから遠ざけてくれたあの声がまだ耳に残っている。
──あのまま、一線を超えていたらどうなっていたんだろう。
最後の夜、一人になりたくないと結城に縋ったあの夜。あの時に既に、彼が黒幕だということは分かっていた。分かっていて招き入れた。
どうせなら、目一杯困らせてやろうと駄々をこねてやったら、思いの外すんなり受け入れて、そしてあの言葉だ。
あの時の結城の相貌だけが忘れられない。
言い澱み、惑うあの表層はいったいなんだったのか。仮面を被っていたのかそれとも──
「刀海さん」
怪訝な声が現実に引き戻してくれる。思惟に浸っていた私の意識は声の主に向けられた。
「すみません、少しぼーっとしてました」
「大丈夫ですか?休まれた方が」
「いえ、大丈夫です。すみません」
案ずる瞳を向ける風見さんに微笑む。風見さんは何か言いたげに口の端を僅かにきつく結んだが、一つ息を吐いて話しだした。
「私から見た結城は、生真面目で…正直、怖いほど何も読めない人間でした。公安の人間としては優秀でしたが、優秀であるからこそ不気味というか」
「あまり話されたことがなかったんですか?」
「プライベートに踏み込むほどの関係ではなかったですね。私だけではなく、他の課員との交流もありませんでしたし。むしろ、刀海さんが、一番深く関わっていたかもしれません」
「私が?」
「仕事以外の時間は、おそらく、組織の関係者と会うか貴女に会いに行くか。貴女の監視も兼ねていましたから、かなりの時間を彼は貴女と過ごしていました」
そういえば、時間を割いてよく来れるなと感心していた。まさか、私の監視も兼ねていたとは。
こうして話を聞いてみると、本当に同僚とは必要最低限しか関わっていなかったのだと再認識する。確かに、結城から職場の人間の話を聞くことはなかった。結城の口から風見さんの名前が出てきたのなんて、風見さんとラーメン食べにいったあの日のことを話した時。
──ああ、そうだ。
「……風見さんは、結城が警察官になった理由とか知らないですよね?」
そういえば、あの後に結城と話した時、彼に問いかけた。風見さんに投げたのと同じ質問、何故警察官になったのか。
何気なく投げかけたあの質問に、結城は底冷えのするような瞳で答えた。何者も映さない、一切の光が消えた瞳は私に強烈な恐怖心を与えた。
『覚えていない』
あの瞳は、確実に何かを憎悪した人間の瞳だ。
「何故、ですか…そんな話をするほどの仲でもありませんでし、そもそも、警察官になった時点で組織の一員だったのか、それとも感化されたのかも不明ですからね」
「そう、ですよね…」
言われてみればそうだ。そもそも、いつ結城が組織の人間になったのか分からない。結城のコードネームは判明したけれど、それ以上の情報を掴むのは危険が伴うため、安易に踏み込めないでいるらしい。公安から追われることになったばかりの彼の詳細を探るのは確かに厳しいだろう。
過去を追うことはできない。ただ、あの鮮烈な憎悪の色は未だに私の網膜に深く刻まれている。何に対して、或いは誰に対して向けられていたのか。どす黒い感情が載せられたあの瞳の先に何があったのか。
(考えても仕方ないか)
それを知るすべは失われて、何もかも降り出しどころかマイナスに転じた今、結城のことを考えても大した意味はないのだけれど、真っ先にアイツがどうなったかを考えたあたり、私は囚われ続けるのだろう。
成功した刷り込みの影響は存外私を捉えて離さない。
「失礼します」
沈黙が走っていた室内に、聞き慣れた音が響いた。聞き慣れてはいたけれど、風見さんがいる時に来ると思っていなかった人物だったため、分かりやすく肩を震わせた。びくり、と緊縮した私に風見さんは一瞬視線を寄越したけれど、表層を取り繕い、何食わぬ顔で「どうぞ」と答える。
ガラリとドアを開けた先、私服姿、ラフな格好をしているところを見ると今は、安室透、ならしい。金糸のような髪が印象的な彼は風見さんを見ると会釈をした。なんだこの図、違和感しかない。というより、なんでこのタイミングできたんだ。
「傷の具合はどうですか」
「随分と良くなりました。痕はまぁ、残るみたいですけど幸いなことに神経を傷つけていたわけではなかったので、良かったです」
「そうですか」と、返した安室さんは手土産だと紙袋を差し出してきた。何だろうと開けてみれば、紅茶の香りが鼻を抜けて、次いで甘い匂いが広がる。
「……シフォンケーキ?」
「試作品ですが、作りすぎたので持ってきました。梓さんも一緒に作っていましたけれど、外せない用事があるとのことで僕だけ来たんです」
梓さん、と聞いてドキリと心臓が鳴る。脳裏に勝手に、梓さんの他にも色んな顔が思い浮かぶ。園子ちゃん、蘭ちゃん、秋穂さん、店長、──コナン君。
(……今さら、なに感傷に浸ってんの)
こちらに来させないために突き放したのは私で、あの顔をさせたのも私。
全ての優しさを見ないふりをして、真実に辿り着くために切り捨てて、たった一つの灯りも消してしまった今、何かの優しさに気を緩ませてしまいたくない。
私を心配してくれていた凡ゆる人の眼差しが、今はひどく煩わしかった。
「……みんな、心配しています」
「え」
「梓さんだけじゃない。園子さんも蘭さんも、子ども達も誰もが貴女のことを案じています。もちろん、溝口さん達も」
「……そうですか、すみません。また、迷惑かけちゃいましたね」
へらり、と眉尻を下げて笑む。
だめだなぁ、昔から言われているじゃないか。迷惑をかけさせないで、て口酸っぱく言われてきたから、手のかかることをしないためにはどうすればいいかを常に考えてきた。
相手の好意、優しさ、微睡みに沈むようなその暖かさは毒だ。求めた結果、こんな結末を招いてしまったのだ。
だから、笑え。
「……何故、笑えるんですか」
道化師のように貼り付けた笑みは、風見さんの静かな声音にピシリと固まった。「え」と目を丸くしたのは、彼のその瞳に、押し殺した怒りが見えたからだ。
私を真っ直ぐ射抜く視線に込められた怒気に、生唾を飲み下す。
「人に迷惑をかけただの、このことを公表しないだの、貴女は、何故今、笑うことができる」
圧倒的な怒りの感情がピリピリと肌に刺さる。彼が怒る意味は良く分からないけれど、それはとても今の私にとって嫌なものだと感じた。
「貴女はもう知っているだろう」
「なにを」
「我々公安が、貴女に何をしてきたのか。溝口夫妻を利用して貴女を監視し、貴女の家に盗聴器を仕掛けたのも我々だ。必要なら尾行もした。その事実を貴女は良く知っているはずだ」
風見さんの告白に面食らう。
面と面向かって聞かされたのは初めてだった。けれど、唐突に、その事実を打ち明けられる理由がわからず困惑する私に風見さんは続けた。
「貴女を疑い、非合法な捜査をした上に、貴女を傷つけた。結城亮が組織の一員だったとしても、公安に関わった、関わらせたことで貴女は今の状況になっている」
「………何が言いたいんですか」
嫌だ。その先を聞きたくない。そんな言い草をしないで、と心では叫んでいるのに、表情はもう、作り込まれた人形のように動きはしなかった。
「我々の責任だ、全て。貴女の人権を無視した我々の行為が招いた結果に対して、何か言うことはないんですか」
けれど、人形でも感情はあって。押し殺していたそれが、表層に吹き出た。
風見さんの問いかけに、思わず声が出そうになった。は?とそれはドスの効いた声が出そうになった。
何度か目を瞬かせて彼の言葉を咀嚼する。噛み砕いた言葉は苦くて、吐き出したくなった。
「基本的人権の尊重がなされていないことに怒りを覚えるべきと言いたいんですか?」
だからなのか、問いかけに対して問いかけで返してしまって、且つ、それを吐き捨てるように言ってしまった。もっと取り繕えると思ったのに、思いとは裏腹に言葉はどんどん溢れ出す。
「不審な人間を調べるのに一番合理的で確実な方法を選ばれて、結果、私が危険因子ではないと判断してもらえたので特段なにかを糾弾する気は起きませんね。結城の裏切りだって想定外でしょう?」
「…貴女は」
「自分を軽視しているわけじゃないです。客観的に見ても、手続きを踏んで人権を尊重してなんて悠長なことをする暇があったのなら、手短に確実な方法を取ってもらった方が良かっただけです」
今更だ。今更、なんだ。なんだってんだ。
「正攻法で上手く行くほど、社会は人に優しくないですし、人も社会に優しくないですから。疑わしい人間を監視するなんて、当たり前でしょう。皆さんはそれが仕事なんですから」
そんなことわかってる。
「貴方は、貴方の信念を持って私を疑った。そこに感情を持ち込まないでください」
むしろ、謝られる方が癪に触るじゃないか。
最大多数の安寧のために切り捨てるべきマイノリティがいるのなら意思決定者はそれをせざるを得ない。国民感情としてそれが容認できないことであり、それが公となれば糾弾されることだと理解はしているけれど、私個人としてはそこで彼に詰問するような感情はなかった。民主主義はマイノリティを排除しない、マイノリティを掬い上げるという構造は平時において言える構造であって、私にそれが当てはまるとは露ほど思っていない。
大局的に見て、切り捨てられる必要がなかったのに切り捨てられた時には、声を上げるだろう。今回は、声を上げる必要がなかっただけ。そんなこと、言われなくたってわかってる。
それに──
撃たれた銃槍をするりと撫でて、自嘲気味に片口を上げる。
「私は、切り捨てられるべき人間ですから」
自分で吐いて、なんて寒くて格好悪い、虫酸が走る台詞だろうと反吐が出そうになった。馬鹿馬鹿しくて、でも今はそんな馬鹿馬鹿しさを吐き出したい程度には、自暴自棄になっていた。
吐露した言葉に風見さんが息を呑んだのが見えた。見開かれたまなこに一瞬同様が走る。
嗚呼、優しい人だ。人間味のある人だなあ、なんて思わず笑ってしまって。そんな私に風見さんは苦悶にぐっと言葉を詰まらせ、しかし直ぐに「貴女はっ、」と言葉を吐き出そうとした。
その刹那だった。
ふと、目の前に影が落ちた。風見さんと私の間に入った影に顔を上げると、
パシン、と──
乾いた音と共に視線は横へと逸れる。まっすぐ向いていた筈の顔は横を向いて、右頬には鋭い痛みが走った。その痛みに、ぽかん、と目を瞬かせる。なに、と霧散した思考が戻って来る頃には、右頬に鈍い痛みを感じるようになっていた。じんじんと痛む頬に手を添えて影を仰いだら、彼がひどく底冷えのする瞳を湛えてこちらを見下ろしていた。
「そんなことを気安く言うな」
トリプルフェイスの顔を持つ男に垣間見えた素顔。冷たく、射殺すような瞳と共にある、降谷零という人間の顔は、私をありのままの顔で見ていた。
「切り捨てられるべき人間だと?傲慢にもほどがある。自らの価値を貶めて自己保身に走る浅ましい考えを、さも当然のように語るな」
ズキリと胸が痛んだ。その言葉、声音、視線、全てが私を暴いていく。
彼の言葉は正しくて一ミリも間違っちゃいない。だからこそ、その言葉は心に楔のように突き刺さり、私を揺さぶってくる。
曇りなきまなこが、私の心の奥底を暴こうとしていた。
納得していた、理解していた、つもりだった。仕方ないと目を瞑り、大丈夫と耳を塞ぎ、どれだけ自分の身が壊れようとも知覚さえ遮断して傷ついていることがわからないふりをした。疑われ、利用され、傷ついたところで結局私は大丈夫。世界から隔絶された人間なんてただのドールで、廃棄処分されてしまえば元の自分に還ることができるだろうとか、そんな曖昧な未来があると自身を納得させていた。
すべて、自分の責任だと。そうすれば、全てを耐え忍ぶことができると。
そうしないと、駄目だったのだ。そうでもしないと、だってこんなの、耐えられるわけがない。
此処にいるべきではない私は、大丈夫。
世界と繋がっていない人形は壊れたところで支障はない。
自己否定を繰り返していれば、どんな仕打ちもどんな冷遇も、いつか来る終わりまで耐えることができる。
そう思って、そう認識した。
裏切られても、傷付いても、私という人間はそもそも此処にはいるべきではないのだから、それは全て瑣末ごとだ、と。
なのに、この人は、ずるい。
「なら、どうしろって言うんですか」
拳が震える。声も、震えて、全身が暴発する感情を押さえ込むようにわなわなと震える。爪先が食い込むほど握った拳の行き場はなかった。
「怒ればいいんですか、泣けば気が済みますか、感情を爆発させればいいんですか。そうやって、私が《何か》を喋ったら恩の字ですか」
僅かに動揺が走った彼の瞳に、私は口角を上げた。
「ああ、そのために怒ってくださったんですか、ご愁傷様です」
「……そうやって、わざとこちらを煽るマネをして、自分を傷つけて何になる」
「……っ!」
悟ったような口ぶりに思わず声を荒げそうになった。それが、彼の戦略なのかそれとも、本当の気持ち、なのかなんて私には分からない。分からないからこそ、どうしようもなく、どうすれば良いかわからない。
感情が錯綜して、もはや自分が何を言いたいのか、何を感じているのか、何を欲しているのか。何も、何も分からない。
「っ、仕方ない、じゃない…、これしか方法なんて、もう」
誰かに頼るなんて、迷惑をかけるなんて、できない。
「なに、を頼っていいかなんて、そんなの」
知らないし分からない、だから。
「わかるわけないじゃない…私には、もう…」
こんなに無力な自分が嫌になって。
信じることのできない自分が、嫌になって。
「誰もいないのに」
信じることを諦めてしまった自分の存在が、滑稽に見えた。
*
《誰もいないのに》
そう吐露した彼女の姿が、己と一瞬重なった。脳裏に張り付いた彼女の相貌に、降谷はふと目を細めた。
誰もいない。その言葉がいったい何を意味しているのかは分からない。身内がいないのか、友がいないのか、或いは信頼できる人間が誰一人としていないのか。意味するところは定かではないが、ただひとつ言えることはあの言葉は恐らく彼女の本音、ということだった。
彼女に出会った頃、一度だけ彼女が見せた涙がある。自分と小さな探偵から向けられる奇異と懐疑が入り混じった視線から一転、無垢な瞳と案じる言葉をかけられた彼女はそこに安堵した。その事実を指摘すると、彼女はほろりと大粒の涙を流した。呆然と目を瞬かせながら流された涙は、演技という言葉が介在する余地がないほど、澄んでいた。
あの涙に多少なりとも動揺したのは否めない。例え、彼女の存在が不気味なほど不明瞭で、怪しいものだったとしても、あの涙に恐らく嘘はなかった。泣いて、泣いて、大丈夫だと笑いながらそれでも涙を流し続けた彼女の心はきっとまだ泣いている。長雨の降り続く心中で、傘もささずにただ涙している。
「大丈夫、か」
病室にほど近いベンチに座り、降谷はぽつりと呟いた。時計を見れば時刻は午後七時半。あと少しで面会時間は終わる。
聞きたいことは山ほどあった。問い質したい事実もある。傷病者であろうと、己が守るもののためにそれを実行できる立場にあったが、降谷の足は動こうとはしなかった。地に貼り付けられたように動くことはなく、重苦しい心持ちに目頭を押さえて天井を仰いだ。
彼女の相貌と声音が頭から離れない。脳裏に刻みつけられた悲哀に歪んだ表層が、降谷の思考を鈍らせる。誰もいない、その言葉の意味を考えてしまう。
自分より先に逝ってしまった級友達。明日を共に見ることを当たり前と思っていた自分は、その事実に時折孤独を濃く感じてしまうことがあった。眠りに落ちた時、特にそれを深く感じてそして憔悴しきった顔貌に笑うのだ。
懐かしい思い出を手繰り寄せても、先を紡ぐことはできない。過去を振り返り続けて足踏みする時間は降谷に一秒たりともないことは、自身が一番よく理解している。
それでも、自分の人格を作り出したと言っても過言ではない旧友達とのひと時は、降谷零が進み続ける道を照らしていた。
誰もいない。それは確かに深く濃く孤独の色を自身に塗りたくる。
(だが、……違う)
押さえていた目頭から手を離し、降谷は息を深く吐いた。ひとつ瞬いて、脳裏に部下の顔を思い浮かべる。
確かに誰もいなくなってしまった。自分の道標となっている彼らは、一人としてこの世界にはもういない。
それでも、自分を知る人間は確かにいる。開示できる情報が少なく、時に無茶な命令を下す自分を支えんと粉骨砕身して尽力する部下達が自分にはいる。逝ってしまった級友とはまた別の関係だが、それでも、自分が立ち回るために踏み台になろうとする、そんな絶対とも言える信頼を置いてくれている人間達がいるのだ。
誰もいない。
その言葉に込められた万感の想いの真実はいったいどこにあるのか。
泣き出しそうな彼女の相貌が降谷の脳裏から離れなかった。
58
Act.2 了