白一色に染められた病室で思い浮かべたのは、祖母の姿だった。
晩年、肺を患った祖母は我が家で最後を迎えたいと両親に漏らしていたらしいが、両親はにべもなく断った。多忙な生活を送っている二人に迷惑をかけられないと悟った祖母は、ひどく儚く、悲哀を押し殺した相貌で頷いたらしい。
大学生となっていた私は、祖母の容態が良くないことを聞き、直ぐに地元へ帰省した。期末考査が迫っていた時期、落とせない科目がいくつかあるその時期に帰省した私を祖母は弱々しい笑顔で叱った。ダメでしょう、きちんと自分のことを考えなさい。
穏やかで、暖かい祖母の声は久々に聞いて、嗚呼、そういえば全然帰っていなかったな、とその時になって自分の薄情さに自己嫌悪に陥った。じくりと傷んだ胸の内を見透かしたように祖母は笑っていた。
祖母は、自分は大丈夫、と言い続けた。見舞いに来続けようとする私に、もう戻りなさい、と諭す祖母に対して、私は明確なノーを突きつけるように病室に通い続けた。
ねえ、おばあちゃん。どうしてこんな殺風景な場所にいるの、あと少し、て分かっているのに。どうせなら、あのい草の香りが鼻を抜けて、風が草花を揺らす音が鼓膜に優しい、あの場所にいれば良かったじゃない。もっともっと、ワガママなんて面倒くさいものではないその細やかな願いを、外に吐き出して、思いを吐露してしまったらいいのに、なんで。
苦しい。そう感じた私は…祖母の悲哀なんてこれっぽっちも分かっていなかった私は、一度だけ聞いた、聞いてしまった。
──戻りたくないの?
その問いは祖母をひどく悲しませた。
『……戻りたいねぇ』
万感の想いが込められた一言だった。たっぷりと間を置いて吐露された言の葉には祖母の哀の想いが載せられていた。
その一言を聞いた瞬間、私はひどく後悔した。嗚呼、なんて必要のないことを聞いてしまったんだろう。不必要な言葉だ。言わなくても分かるじゃないか、おばあちゃんは帰りたがっている。当たり前だ。住み慣れた土地、思い出の詰まった家、見慣れた景色。もう、長く見ることができないその郷里の風景をどれだけ…。
祖母のその一言が私にもたらしたのは、果てしない後悔だった。
哀しげに呟いたその相貌から逃げるように、私は一度、期末考査のために大学へと戻った。後ろ髪を引かれるような思いだったが、祖母にあのような顔をさせた事実から逃げたかった。
そして、その一週間後、
祖母は、亡くなった。
一報を聞いた私の胸に、更に深い後悔の楔が穿たれた。事務的な処理をするように通夜と葬式の日程を話す母の言葉はあまり耳に入ってこなかった。頭にそれらの情報は入れられても、機械信号のように処理される。
しかし、通話ボタンを切った刹那、自然と涙が溢れた。
──うそだ、うそだうそだ。
漏れる嗚咽を抑えて、でも抑え切れずに私はひとり哀哭した。
後にも先にも、それだけだった。あれだけ、全身の水分がなくなるほど泣いて泣いて泣いたのは。
押し寄せた後悔、悔恨の念は今も消えない。
あんなこと言わなければ良かった。ちゃんと謝れば良かった。
無償の愛を向けてくれた唯一無二の家族に、私は取り返しのつかないことをしてしまった。
大切で、愛しくて、胸を開けて話すことができる。もうあの暖かい、温もりに溢れた人はいない。
溢れる後悔と押し寄せた絶望。
もしかしたら、これは、そう──
私への罰だったのかもしれない。
*
秋の便りが届き始めていた。茹だるような暑さに辟易する夏が一歩一歩遠のいて、代わりにやって来るのは細やかな虫の音。草花も衣替えの時期に差し掛かっている。人々の装いも、色味に変化が広がっている頃合いだった。
地下鉄を乗り継いで地上へと出ると陽光が降り注ぐ。見上げれば蒼天が視界に広がり、胸までスッと清々しくなるような天気だった。堀の周辺を走るランナーの顔も晴れ晴れとしている。門の近くでは、ツアーガイドがにこやかに何かを話し、老齢の団体がしげしげと興味深そうに門の端から端を眺めていた。
穏やかな一日、それを体現するような日だった。
セキュリティカードをかざしてロックを解除する。警備係にぺこりと会釈をして中へ入り、専用のエレベーターに乗り込むと九階のボタンを押した。広報部のフロアを尻目に、真っ直ぐ向かった先のドアノブを回す。
「おはようございます」と、室内でパソコンとにらめっこしていた男性に会釈すれば、忙しいのか、軽く頭を下げたのみでふたたび画面とにらめっこをした。
そういえば、明け方に渋谷で傷害事件があったな、と忙しなくキーボードを打つ男性に哀れみの視線を送る。他は朝イチで出していたはずだ。若そうな彼はきっと上司からの怒号の電話で起こされたに違いない。
ひとり納得して席に着く。窓から入る外光が、新しい朝を告げていた。
洸が退院したのは、秋にかかる時節だった。入院中に見舞いに訪れた知人友人に祝われながらの退院だった。
中でも、毛利家は家族ぐるみで見舞いに来たため、扉が開いた瞬間、洸の表情筋はピシリと固まった。元警視庁捜査一課、現在はその名を知らない人間はこの世界にはいない名探偵の毛利小五郎がいきなり現れたことに面食らっていた洸に、蘭は申し訳なさげに頭を下げた。
『ごめんね、どうしても行くって聞かなくて』
曰く、巷で噂の超有名人が来れば、変わりばえのしない入院生活に華を添えられるだろうとのことで、理由を耳打ちされた洸が小五郎を見上げれば、胸を反らせて得意げな視線を投げかけられた。
目上の人間はとりあえず立てておけば間違いはない。にこりと最上級の笑みを湛えて、声をワントーン高くした洸は「あの眠りの小五郎…本物なんですね!」と彼を見上げた。卒なく場をやり過ごす彼女の処世術。ニコニコ、興味津々、そんな様相を呈していた彼女に勿論毛利小五郎は得意満点な笑みを向けて、自身の自慢話を豪語……しなかった。
毛利小五郎は、満面の笑みを見せる洸の顔をじっと見つめた。その様子に洸の胸に一抹の不安が掠める。失敗したか、選択を間違えたか、作り笑顔すぎたか。
さて、この顔に対してはどう動くのが適切か、と、思考をフル回転させていた洸に、小五郎は口元をふと緩めて、掌を彼女に向けた。
ぽすん、と頭部に暖かな感触。
『よく、耐えられましたね』
眠りの小五郎、彼は名推理なんてものを展開する探偵ではない。愚鈍とさえみえる描き方をされる場合もある彼からの労りの言葉に、不覚にも洸の目頭が熱くなった。不意打ちだこんなのと毒づく。けれど、そういえば彼は存外鋭いキャラクターだったと、己の浅慮な対応に恥のような感覚を覚えた。
『……お気遣いありがとうございます』
思いもよらない人物からの優しさに、プツリと張っている糸が切れそうで。自身を保つためのそれをこれ以上触れられないように、洸はただ、曖昧に微笑んだ。慣れ親しんだ、他人と一線を引いた笑みに何故だかとても哀しくなった。
退院後、洸が公安総務、有崎課長の計らいで勤めることになったのは、都内の民間企業ではない。公的機関、それも機密性の高い機関だった。
警視庁。日本の心臓、東京を管轄する日本最大の人員を誇る警察機関。管轄エリアは東京だが、事件の内容、そして部署によっては国内外へ捜査を展開することもある。都内の各警察署、所謂所轄の人間、さらにいえばノンキャリ組の人間が最終的な出世コースとして目指すのがこの警視庁、所謂本庁だ。
そんな場所での仕事とは、と洸は首を捻らせた。今から警察学校へ通って警察官になれとでもいうのか。
怪訝な顔つきになった洸に、連絡係の風見はそんな彼女の考えを見透かしたように「さすがに学校へ行くことはありませんから」と肩を竦めた。が、ならばいったいなんの仕事だ、清掃員だろうかと思考を巡らせる洸に彼が伝えたのが、現在彼女がいる場所での仕事だった。
「……あー、ほんと最悪!抜かれるどころか置いてけぼりかよ」
盛大な悪態が室内に響き渡った。声の主は先ほど洸に軽く会釈した若い男性だった。大きく伸びした後に、バタンとノートパソコンが閉じられる。会社支給の年季の入ったそれをバッグに突っ込んだ彼は、くるりと洸に向き直った。
「すみません、えっと……」
「刀海です」
視線を彷徨わせた彼に被せるように伝えれば、彼はばつが悪そうに後頭部をかいた。
「あ、そうですね。重ねてすみません…苛立ってましたよね、俺」
「いえ、たぶんお忙しいと思いましたので……その、他はもう第一報が来てましたから」
「そうなんで、すよ、ね……あーちくしょう、昨日飲みすぎた…」
声にならない呻き声を上げ、頭を掻き毟る彼に洸はくすりと笑みをこぼし、部屋の隅に備え付けられている流しへと向かう。
「まあ、とりあえずどうぞ」
カップにインスタントのコーヒーを淹れ、茶菓子付きで室内の真ん中に配置された長テーブルへ彼を手招きすれば、もう一つ、盛大な溜息を吐いた彼はトボトボと近づき、茶菓子をひとつ頬張った。名古屋の実家へ帰省していた他社のベテラン男性からの手土産という、小倉トースト味のクッキーということで、洸も彼の隣に座ってひとつ口に含んだ。
「昨日はどこかで飲まれていたんですか?」
何気なく聞けば、コーヒーを勢いよく置いた彼は「そうなんですよ!」と憤懣に満ちた相貌で語り出した。
「あんの上司、人にしこたま飲ませといて何言ってんだって感じで!俺かなり弱いんですよ。だから無理だっつってんのに…。帰った記憶も曖昧で、気付いたのはその張本人からの電話。何やってるんだ?!じゃねえよ、お前が数時間前に飲ませたばっかだろ、てね。あー……最悪」
「このご時世に、アルハラ、パワハラまがいのことをするなんてある意味すごい上司さんですね」
「本当です。どっかへ飛ばすために何か不祥事でもでっち上げてやろうかと思いますよまったく。あ、それかボイスレコーダーで証拠を入手するとかですかね」
ははは、と冗談めかした笑いを零す彼に、洸の心臓が僅かにどきりと鳴った。
「お、重役出勤の若手君じゃん」
「お目覚めは何時でしたか〜ってな」
「からかいすぎると可哀想でしょ、でも超ウケるわ」
複数人の笑い声がしたかと思えば、ぞろぞろと室内に人が入ってくる。洸と彼の視線もそちらへと転じられ、面々から揶揄する声をかけられれば彼はひどく顔を歪ませた。「うるせえよ、です」と、そっぽ向いた若手に、中堅からベテランはくつくつと笑みを零し、ある者は背中を叩き、またある者は頭を撫で繰り回す。
「そんな口は俺達を抜いて、紙面のトップ飾る記事書いてから言おうな?」
「あと何年後になるか…まあ、その時は私達もここにはいないけどね」
「せいぜい頑張れよ、期待のエース」
「ちょっと!皆さん俺のことなんだと思ってるんっスか!」
一気に賑やかになった室内に、洸はそっとその場から離れて、再びカップを三つ分用意した。
部屋の片隅から見る室内の光景。間仕切りはあり、他の机の様子が見ることができないようになった独特の空間に最初は面食らったが、すぐにこの光景にも慣れた。
公的機関には大概、記者クラブがある。各都道府県の県庁や市役所のほか、貿易関係、農協関係、経団連など設置されていて、その数は多岐に渡る。
例に漏れず、警視庁にも記者クラブがあった。新聞系列とテレビ系列に分かれているが、どちらも正式なクラブだ。
洸のいる部屋は新聞系列が集まる部屋。各社とも、二人ないし三人体制でクラブに加盟しているため、常に誰かが室内にいることが多いが、第一報が入れば誰もが現場へと向かうか担当部署へ話を聞きに行く。出入りが激しいクラブの一つだと洸は聞いていた。
「どうぞ」と人数分のコーヒーを長机に置けば、若手の記者を揶揄っていた中堅勢が洸に向き直る。
「ありがとう、刀海さん」
「いえ、皆さんお疲れだと思うので」
「いや、割とあることだから平気ですよ。どこかのペーペーにとっては想定外だったようですけど」
「しつこいですから!」
「……割とあることなんですね…」
苦笑を漏らした洸に、無精髭を生やした三十代半ばの記者が豪快に笑った。
「まあ、慣れていきますよ、刀海さんも」
慣れて良いものか。内心、そう思いつつも彼に合わせて洸も笑みを浮かべた。
警視庁記者クラブ。そのクラブ員と担当部署との連絡調整、連日報道される各紙面のスクラップ作業、提供資料の送付、配布などの雑務を引き受ける仕事。
洸の新たな就職先、それは警視庁内にある記者クラブの事務員だった。
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