広報課から回される提供資料を所定の棚に入れていく。七社分の紙に加えて、隣室にも数枚を持っていった。数名いる記者に挨拶をして配布していく。
今回のプレスは、秋の交通安全運動について。いたって平和な内容なのは、これが事前のリリースだからで、ひとたび事件事故が起きれば各記者は自分自身で情報を取りに行く。待つだけが仕事では無い。自分の足で情報を掴みとりに行く姿勢は時折、世間から冷ややかな視線を投げつけられることもある。
執拗な取材、人権を軽視した報道、それはひと昔前まで当然のように行われていた。今でこそメディア倫理が叫ばれて監査機関の目も、世間の目も厳しくなったが、当時はそれが普通だったのだ。

(探るのが仕事でも、怖いもんだよね)

もし、自分が彼らの目に留まっていたらと思うと、洸は肝が冷える思いがした。
殺人現場にいたことは警察側には勿論知られていたが、報道側には第一発見者の女性としか明かされていない。家で襲われたことも、被害者のプライバシー保護という観点からさして大きく取り上げられなかった。そして、結城に撃たれたことは、そもそも秘匿されている。
叩けば埃しか出ないような人間が、今、叩く側が集まっている場所で仕事をしているとは数奇なものだと、洸は己の置かれた現場に苦笑した。

「そういえば、あの事件どうなったんですかね」
「あの事件?」

コーヒー片手に、ニュース報道を流し見していた若手記者がふと呟いた。
何のことだと問いかけた中堅記者に、「ほら、あれですよあれ」と思案する素振りを見せる。

「あのー、ほら…夏前に起きた殺人事件」

ぴくり、と洸の身体が緊縮した。須臾に脳裏に蘇った陰惨な記憶に冷や汗が流れる。
夏前、殺人事件、転がる死体、生気のない瞳、血の海、きっとその中に佇んでいただろう、あの憎悪に塗れた瞳──

「夏前って……あーあの、港区のやつ?六十代の夫婦が殺された」
「あ、それ、それっす!」

明朗な声が洸を現実に引き戻す。自分に関わることではないとひとまず安堵した洸は、視線をゆっくりと彼らに転じた。

「あれって犯人捕まったじゃん。資産家の夫婦の子どもが保険金目当てで殺害したんでしょ?犯行に使われたナイフから本人の指紋も出てるって」

女性記者の言葉に、若手記者は頷きつつ「けど、妙なんすよ」と自身のノートを眺めた。

「当の本人が黙秘してるんです。取り調べでは確かに怨恨だったと証言しているにも関わらず」
「なにそれ、もしかしたら冤罪かもってこと?」
「いや、そりゃないだろ。物証も状況証拠もあるんだ。言い逃れなんてできないくらいにな」
「えー、でもならなんで黙秘なんてするんですか」
「俺が知るかよ」

資産家夫婦の殺人事件、確かにそれは洸があの被害を受けた頃にあった事件だ。自分自身が別の事件に巻き込まれてしまったため失念していたが、世間の関心の目はそちらに向けられていたのを洸も報道で知っていた。
港区に住む資産家夫婦が刺殺体で発見された事件。第一発見者は家の使用人で、犯行のあった時間帯は夕飯の支度のため外出していた。
事件の被疑者はすぐに特定できた。被害者夫婦の息子が事件後行方をくらませていたが、近くのコンビニエンスストアの防犯カメラに映っていることが捜査で判明し、逮捕へと至った。息子自身が犯行を自白したため事件は解決へと至った筈だが、記者の話を聞く限りまだ事件は終わりを見せていないようだった。

「刀海さんはどう思います?」
「え」
「なんで犯人が黙秘を貫いてるのか」

記者の問いに、洸は首を少しだけひねり、困ったように眉尻を下げた。

「……さぁ、分かりません。けど、」

「けど?」と目を丸くした記者達に、洸は苦笑しながら目を伏せる。
言うべきではない、伝えられない。そんな何かが、犯人にもあるのかもしれない。聴取では伝えることができなかった、何かが。

「信用していないのかもしれませんね。何もかも」

誰にも、自身の胸の内を伝えることなく死んだ人間を洸は知っている。それを仕組んだ人間の相貌が、暗闇の中でぎらりと照らされる。
もう幾月も経っているというのに、洸の心の奥底にはまだ結城亮の面影が居座っていた。





電灯がチラチラと点滅している。室内が仄暗いのは、既に日付を回ろうとしている時間に入り、作業スペース以外の電灯を消しているためだった。加えて、唯一残った電灯の一部も点滅し出している。
寂れた印象を醸し出す室内で報告書を一読した降谷は、手に持っていたペーパーをデスクに投げると天を仰いだ。

「……やはり、分からずじまいか」
「申し訳ありません」

傍らに直立する風見が渋面で頭を下げる。「君の責任じゃないさ」と乾いた笑いを漏らした降谷は、しかし目頭をぐっと抑えて嘆息した。成果の上がらない調査に身体が少し堪えている。

メスカル。組織の中でもコードネームを与えられる人間はたいそう優秀な人間だ。数が限られているため全員を覚えることは容易い、が降谷はそのコードネームの人物に会ったことはなかった。そのため、調査で判明した際も、どのような人物なのかその像を結ぶことは叶わなかった。
唯一、判明したのは、メスカルなる人物は二年前から組織に属していること。このことから、メスカルこと結城亮は、警察官になった後に組織に加入したことが分かる。公安お墨付きの捜査力、人心掌握力が買われて組織内での地位はうなぎ登りとなったらしい。
降谷も彼の名は小耳には挟んでいた。組織に年若い優秀な人材が入った、と。しかしながら、その人物が表の世界では何の仕事に従事しているかまで注視していなかった。ましてやその男が己の巣の中にいたとは、思いもしていなかった。
事件発覚後、降谷はメスカルの素性を探ろうとしたが大した成果は得られなかった。いつ、組織に加入したか判明したくらいで、動機も幹部との接触方法も分からずじまいだ。

謎に包まれた組織の人間。追い込むには時間がいる。

「……彼女の様子は」

気味が悪いほど顔の見えない相手。その男の陰に隠れた女の相貌が、ふと降谷の頭によぎり、風見へと訊ねた。

「怖いくらいに静かです。穏やかで、逆にそれが不安です」

風見の表情が目に見えて曇る。隠すことのできていない憂いに降谷の目が自然と細められた。

彼女、刀海洸。半年ほど前に風見の協力者である溝口明彦からの情報で知ることとなったひとりの女。記憶喪失と自称しているが、実際のところそれはほぼ確実に虚言だ。それが嘘であると証明する証拠を風見も降谷も入手することはできていない、が、不審点がいくつかあげられた。
最たるものは、彼女のホテルでの宿泊記録だ。
チェックアウトの記録は、紙面上でも防犯カメラでも確認できた。であるにも関わらず、何故か、チェックインの記録はどこにも確認することができなかった。信じられないことに、ホテルの防犯カメラだけではない。チェックインされたと思われる日から数日前までの、周辺地域の監視カメラを駅の周りを中心に調べたが、どこにも彼女の存在を確認することができなかった。

彼女は、突如として、ある日を境にこの地に現れた。
そう説明するしかできない状況だった。

『夢みたいなんです』

その状況に降谷は在りし日の記憶を思い起こす。
満点の星空の下、どこか遠くを見つめて、憂いた色をその瞳にたたえた彼女は諦念に笑った。視界の端に捉えた彼女の横顔は、ひどく歪んでいて。

『ちゃんとここにいるのに、夢を見ているようなんです』

滔々と語る彼女に、息を飲んだ。

まるで、此処は自分の居場所じゃない。夢の世界である。そうこれは、


──現実ではない、別世界。


そう、告げているような。

(……馬鹿馬鹿しい)

らしくない思考に降谷はかぶりを振った。

そんなことが、ありえるわけがない。

マトリックス。見ている世界が仮想現実だというなら、彼女の本体はこの仮想現実を認識、或いはコントロールする、言わば神の立ち位置にいるとでもいうのか。

マトリックスがフィクションではなく──

(現実になっているとでも?)

再びかぶりを振る。そんなことが、ありえるわけがない。

人間は認識している世界しか知覚し得ない。認識外に世界があると仮定したところで無意味だ。何故なら、知覚できない事象は己の選択に左右されることはない。

「……引き続き、彼女の監視は続けてくれ。不審な点があれば直ぐに報告をするように」

止まらない無意味な思考に三度かぶりを振って終止符を打つ。ここのところ、メスカルを追うために組織内で神経を尖らせているせいか、妙に考え込むことが多くなっていた。
気を取り直した降谷の言葉に、風見が押し黙った。怪訝に眉を潜めた降谷は、口を真一文字に結んだ部下に「風見」と促したが、彼は尚、苦悶の表情を浮かべた。

「降谷さん、自分は、本当にこれで良かったのか、まだ疑問が残ります」

押し殺した感情は、彼の迷いの表れだった「疑問、だと?」と続けた降谷に風見は肯首する。

「彼女を監視し続け、飼い殺すような……いくら彼女が我々の立場を理解していると言っても彼女は民間人です。それを…」

先を紡ぐことができず、風見は閉口した。

刀海洸は、元公安警察官、結城亮に協力者として関わり、裏切られ、殺されかけた。
その事実を知った公安警察は、彼女の身を保証する対価としてその事実を隠蔽した。当の本人がそれを了承したため、隠蔽というほどの隠微さはなくなったが、事実として公安警察はその事件を闇に葬り去った。
加えて、身の保証というものにセットとして、行動の監視、が含まれることに対しても彼女は特段不快感を示すことはなかった。ただ、告げられた事実を噛み砕く。咀嚼する。その程度にしか受け止めていないようで、しかし、その内実は驚くほどに空虚に見受けられた。
受け入れる、というよりは、諦める、に近い何かを降谷は感じていた。

『切り捨てられるべき人間ですから』

降谷の脳裏に在りし日の彼女の姿が投影される。
己を切り捨てる。己を軽んじる。それにより、自身の脆弱な心を守ろうとする。その言葉に対して、反射的に抱いた嫌悪感、不快感に降谷の掌は動いた。
彼女の頬を打った感触は今でも忘れてはいない。
しかしそれは、物理的な痛みだけではなかった。降谷の言動は、彼女の内側を深く抉り取った。

『誰もいないのに』

吐露された言の葉には彼女の万感の思いが乗せられていた。漏れたのは、もしかしたら奥底に溜めていた、痛みだったのかもしれない。

切り捨てられるべき人間。果たして、何故彼女が己をそのように定義したのか。

夢のような世界。切り捨てられる。


──現実ではない。


(考えるな)

思考が枝葉のように伸びる。無意味だと、降谷は思考を遮断して、風見に向き直った。

「風見、囚われるな。彼女は白だと断言はできない」

冷然とした声音で部下に言い放つ。自戒を込めた降谷の言葉に、風見はぐっと奥歯を噛み締めた。

「しかし、彼女は実際に被害を、」
「分かっている。だが、それでもだ」

泣き出しそうな彼女の相貌を黒く塗り潰し、降谷は、怜悧な瞳をたたえた。


「お前のその甘さは、いつかお前を殺すぞ」


その忠告は、部下へと向けたものかそれとも自分へものか。

迷いが生じる己の心内に、降谷は背を向けた。


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