感覚が研ぎ澄まされる。雑踏の中でも、必要な音を耳が広い、目はあらゆる事象を記憶する。刹那の光景すら、記憶する。そんな、まるで機械人形のような感覚に洸は支配された。
必要な情報が取捨選択される。女子高生達の会話、主婦の愚痴、観光客の奇異の目はぐるりと聳立するビルに向けられる。その中で、ひたりと洸だけに着く気配。雑居ビルに入れば出口に張り付く一人と中に入ってくる一人。
同じ服装の人間がいつまでたっても近くにいるのは不自然だ。それでも、洸自身が監視されている自覚がある以上、向こうも精度の高い尾行はしてこない。監視、ではなく保護が上回るという名目だ。
秋晴れが爽やかな空気を演出しているというのに、どんよりとした心持ちに陥った。
(空気、入れ替えたい)
澱んだ灰色を塗りつぶして、まっさらに、透明にしたい。
鬱屈した気分になるのは身体も堪えているせいだった。鋭敏になる神経に反して、精神は磨耗している。
事件の後から、洸はまともな睡眠を取れていない。悪夢は幾度となく洸を現実に連れ帰り、此処にいるという無情さを直視させる。その繰り返しに、洸の精神はすり減っていた。
思惑に押し潰されそうな心と身体を軽くするには、一番適した場所に行くのが良い。
大都会から離れた、喧騒が彼方にある、世界。
(振り切り方は習った)
澱んだ瞳に、仄暗い炎が灯った。
*
愛車を吹かせて環状線へ入る。平日の昼間というのに交通量は多いため、渋滞区画に入れば動きが鈍った。その間にもワイヤレスイヤフォンからは焦慮にかられた声が漏れていて、情報が入る度に降谷は嘆息した。
『こちらアルファ、ノーベンバーは虎ノ門から乗り換えを繰り返し今は浅草方面へ。一両目に乗り込んだのは確認できたが現在何両目かは不明』
『こちらチャーリー、誰か車両に乗り込んでいないの?』
『日本橋で降車をブラボー確認。だが、直ぐに他に乗り換えた。クソッ、なんで点検の振り切り方を知ってんだよ』
もともとは対二で監視をしていたが、地下鉄に乗った際、ドアが閉まるすんでのところで降車し一人が振り切られた。それを、偶然と捉えた二人目は繰り返される乗り換えの中で似たような手口で置いてけぼりを食らった。
公安捜査官の点検、即ちマルタイの尾行作業は捜査の基本中の基本だ。複数の捜査員でチームを組み、対象を追尾することは往々にしてあることだった。
しかし、ただの保護対象に突如として尾行を振り切られるとは捜査員も予想していなかったのだろう。初めに突然の降車で振り切られた捜査員も、まさか尾行を切るために彼女が降りたとは思っていなかった。しかし、結果として彼女は捜査員の目から逃れた。
流れてくる情報を統合した降谷は、ポアロでのアルバイトを切り上げ愛車を吹かせた。地下鉄を乗り降りしながら行き先を絞らせないように動く彼女の、しかし、その目的地を降谷は推察した。
「風見、彼女を最後に見たのは新橋だな?」
ワイヤレスイヤホンを通して部下へと通信を繋げる。降谷の問いに、風見が須臾に返答した。
『はい。デルタが確認しました。乗り換え口とホームに各ニ名配置しましたが、今のところまだ…』
「了解した」
通信を切ると、降谷はハンドルを握り直し、視線を上向けた。
環状線を見据えた先、聳立するビルを抜けた青い空が広がる場所がある。都心の喧騒から離れたそこは平日の人の出入りは休日のそれより少ないため、降谷自身時折訪れる場所だった。
まさか、と過ぎった可能性に、降谷はアクセルを踏み込んだ。
泣き出しそうな相貌が頭から離れない。誰もいないと絞り出した言葉は苦悶に満ちていた。痛い痛いと叫んでいるような、しかしそんな言葉は彼女から露ほども漏れでない。
代わりに紡がれたのは、あまりに自罰的な言葉だった。
「こんなところで何をしているんですか」
東京湾を臨む一角。某テレビ局、ショッピングモールの周りの観光客が点在しているエリアは遮蔽物がないため、天気の良い日は絶好の散策スポットとなる。臨海副都心、都心の喧騒を海ひとつで隔てたこの地は、大都会東京でありながらどこか長閑なひと時を感じることができた。
景色の良い眺めを、目を細めて堪能する男女、海浜公園を散策し、時折空を横切るカモメを指差す子どもと微笑ましく見守る母親。何もかもが、穏やかなひと時を演出していた。
そんな中で、降谷の声音はひどく凍てついていて、場の空気にそぐわない声色に彼女はしかし緩慢に振り返る。「散歩です」と、微笑した相貌に色は見えなかった。
こんなにも穏やかな相貌を見せる彼女が、己の部下を煙に巻いて今ここにいる。ただのいち民間人の筈だった彼女がやってのけた芸当。誰に仕込まれたのかは考えを巡らせるまでもない。彼女が命を落としかけた、その原因を作った張本人が、彼女がひと時の自由を謳歌するための術を教えたなどなんと皮肉なことだろう。
海風を肌に受けて、橋向こうに聳立するビル群を隠微な色を湛える瞳で眺める彼女を、降谷はじっと見つめた。
深淵の奥底を覗き見る探り屋の眼光が彼女に向けられる。ビル群から降谷に視線を転じた彼女は、降谷のその瞳に穏やかな笑みを寄越した。
「安室さんこそ、どうされたんですか」
「……仕事の一環ですよ」
追い詰めるのは自分の方だと言うのに、底の見えない彼女の顔貌にまるで自分が覗き見られているかのように錯覚する。
降谷の答えに彼女は「そうですか」と述べるだけで、何事もないようにまた景色に視線を移した。
横顔から見える彼女の口元は緩んでいた、というのに、それはまるで貼り付けられた仮面のようだった。
その相貌に、降谷の冷眼が緩んだ。
(………笑ってなどいない)
彼女から、日に日に笑顔が失われていく。
見ようとしなかった事実を、突きつけられた気がした。
彼女は今までも、屈託のない笑みを浮かべていたわけではない。そこにはどこか一線を引いた姿があったが、しかし、それでも彼女の心の見える笑みだった。少なくとも、初めてポアロで腰を据えた日、あの日から僅かながらの日々までは、彼女は降谷に彼女なりの笑みを浮かべていた。戸惑い、何かに恐れながらも浮かべる笑みは確かに彼女の本当だった。
それすら、徐々に薄れて行っている。否応無く監視の目と好奇の視線に晒され、曝け出される己の生活の中で、処世術として身体に無心になることを染み込ませていっているのか。色のない瞳が、彼女の心を体現しているようで。
徐々に、彼女の人間的な核が侵され蝕まれているように思えた。遅々として進まない捜査、緩まない疑念の瞳、そして権力による圧倒的な暴力。
「私、ここ好きなんです。視界が広くて遮蔽物がなくて、のんびりできるから」
ぽつりと漏らした彼女の言葉に降谷の思考は巡らされる。
発言一つをとっても、どのような意図が見え隠れするのかを推察してしまう。そんな自分を認めつつ、本音では僅かに嫌気もさしていた。
降谷は知っている、見ている。彼女を見ていなかったわけではない降谷は、彼女が変わってしまった、変わらざるを得なかった理由を知っている。故に、苦い思いが胸中に犇めく。
意図なんてない、ただ、発言した内容をそのまま受け取って欲しいだけだ。彼女は、そのような人間だ。そんなことは、もう理解しているというのに、降谷は発言をそのまま受け取ることを許されていない。
(風見を笑えないな)
矛盾を孕んでいるのは自分も同じだ。部下に対して叱責の言葉を投げかけたと言うのにそれは自分自身に返ってきている。
不審人物として要観察、監視対象となっている事実を受け入れているようで疲弊している彼女に、どんな言葉をかけることができると言うのか。
疑い、暴き、他人を侵食する術を覚えてきた自分に。
「……そうですね。ここは、本当に落ち着きます」
故に、当たり障りのない言葉しか出てこない。
手すりに手を置き、肌を撫ぜる海風に目を細める彼女の隣に立ち、降谷は同じ景色を眺めた。
「考え事をしたいときはここに来ることがあります」
苦笑しながら紡いだ言葉に、隣の彼女が目を瞬かせた。見開いたまなこに、「どうされましたか」と問えば、「いえ」と、その瞳を伏せて彼女は薄く笑んだ。
「似たようなことを言われたことがあったなぁ、て」
哀の色が濃い言の葉は、今日初めて見せた彼女の本音のような気がした。吐露された感情は誰との思い出だったのか、容易に想像がつく己の勘の良さに苦い思いが胸中に広がる。
彼女の精神を蝕む現実を降谷は理解していた。理解していて、しかしなにひとつ──
「安室さん」
凛とした声が降谷にかけられる。降谷は視線を海面から彼女へと転じさせた。
鬱々とした気分に陥っていた降谷に、彼女は「すみませんでした」と、唐突に頭を下げた。行動の意味を図りかね、「洸さん?」と疑問を呈する降谷に彼女は眉尻を下げる。
「あの時、手を出させてしまってごめんなさい。自罰的な言葉って聞いていて気分が良いものじゃないですから」
「………いえ、僕の方こそすみません。洸さんが一番傷ついていたのに、更に貴女を傷つけた」
彼女の謝罪に降谷は首を振りながらも、胸中には複雑な想いが湧いた。
同じだ、あの時と。どこまでも彼女は頑なに自身を硬質化させる。
自罰的な言葉は彼女の保身だ。自らを守るために自らの価値を下げる。仕方がないと目を瞑り、本来向けられるべき怒りを内に閉じ込める。外へと伸ばされた手を掴んだ相手に裏切られ、その硬質さは更に増している気がした。
どこまで彼女との会話を重ねても、一線を引いた姿を見せられる。踏み込まない、踏み込ませない。曖昧で不透明な関係を好む彼女はしかし、ひどく傷ついていて。
穏やかに微笑んだ彼女は視線を再び海向こうのビル群に向ける。淡く、儚い、物憂げな横顔に降谷の胸が騒ついた。
「洸さん」と、徐に動いた腕が彼女に向けられる。今、降谷が取るべき行動は彼女の存在を探ることだというのに、心の奥底がそれを拒否していた。
緩慢に伸びる指先。
「………ッ、洸さん?!」
しかし、伸ばされた手が彼女に触れる刹那、ぐらり、とその体が揺れ、瞳から光が消えた。
華奢な身体が傾き、手すりにもたれかかる。そのまま地面へとゆっくり落ちかけた体躯を降谷は支えた。意識が朦朧としているのか、消失はしてないものの力が入らないのだろう。彼女は降谷に体を預けたまま、動けずにいた。
血の気のない相貌に降谷はスマートフォンを取り出す。大事を取り救急車を呼ぶか、頭によぎった思考はしかし彼女から発せられた声に須臾に霧散した。
「……ごめ、な…さ…」
──降谷さん。
「………は…?」
──今、なんと言った。
当惑、その一言を体現する声音が降谷から出た。ぴしりと身体が緊縮し、眼球が彼女を捉える。
いったい、何が起こった。
今、何を言われた。
彼女は、いったい。
──なにを口走った?
津波のように押し寄せる疑問が、降谷の思考を侵食していく。
腕の中で意識を完全に失った彼女の相貌を凝視しながら、降谷はスマートフォンを握りしめた。
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