暖かい思い出の中にはいつも祖母がいた。洸が手を伸ばした先にいつもいて、手を引いて、声をかけて、笑いかけてくれた。
おふくろの味というものを洸は知らない。その味はもう十年ほど、まともに口にした記憶はなかった。
それでも、それは仕方のないことだった。多忙な両親が気にかけるほどの優先順位の高さが自分になかった。ただ、それだけだ。腹にそれを落とし込むのに時間を要するほど洸は、自身の境遇を嘆いたことはなかった。
代わりに洸には祖母がいた。祖母が洸を見つめ、触れ合うことで洸はまるで自分の輪郭を確認できるような気がした。
相手が自分をどう見ているかで人間は自分を認識する。相手の中にいる自分はどのようになっているのか。相手が見る自分はいかなる存在か。そうやって、他者によって人間は形作られていく。自分自身だけで人間は構築されない。
なら、今の自分はいったいどうなっている?
ひどく冷徹な声が頭の奥で響いた。
「気が付かれましたか」
目を開けて、天井が視界に飛び込んできて、状況を認識するまでに更に上書きされた情報に、脳の処理スピードが追いつかなかった。
え、なんで安室さんの声が聞こえたの。
疑問に答えられることなく均整のとれた麗しい相貌が視界に飛び込んできたものだから、洸はただ目を瞬かせることくらいしかできなかった。「良かった」と目尻を緩める安室の柔和な笑みに状況を飲み込むことができずに眉を顰める。
(なんで、どうして私。というかここ…え、どこ?)
くるりと見渡しても見知った部屋ではない。殺風景と称して良いほど物がない部屋にベッドがひとつ。洸はそのベッドで目を覚ました。
「あの、私……ッ」
身体を起こして口を開いた洸はしかし、くらりと傾いた視界に眉間にしわを寄せ、こめかみを抑えた。ぐわんぐわんと酩酊するような感覚に短く呻き声が漏れる。
「まだ横になっていて下さい。いきなり起きると危ない」
「……いったい、なにが」
「覚えていませんか?倒れたんですよ、洸さん」
え、と洸から間の抜けた声が出る。顔をあげた洸が彼にどういうことかを視線で問えば、妙に強張った表層で安室が応えた。
「お台場で話をしていたら、洸さんが突然倒れたんです」
「お台場……あ」
おぼろげな記憶が鮮明になる。聳立するビルを海を隔てて眺めたあの場所で会話しながら、陰鬱な心持ちとなっていた自分に彼が近づいて、そして、視界は暗転する。歪んな視界に映った彼の焦った表情と自分の名を呼んだ声が耳に届いて、薄れ行く意識の中で──
(何か、言ったような)
嗚呼、迷惑をかけちゃう。そんな無感動な想いに口走った謝罪と何か。霞んだ記憶に無言となってしまった洸に、安室は「喉が渇いたでしょう。水を持ってきます」と扉から出て行く。おそらく部屋着の彼の後ろ姿を薄ぼんやりと眺めていた洸は、ふと気が付いた。
(というか、なんで病院じゃないの…?)
そもそもここはどこだ。ひどく殺風景な部屋には男性用のスーツと黒地のパーカーが掛けてあるが、これといって特徴的な物は置いていない。強いて言うなら、部屋の隅に置かれているギターバッグが目を引く程度だった。
が、そこで洸は目を見開く。
(ギターバッグ……)
彷徨っていた意識が収束してクリアになる。置かれた状況がどのようなものかを認識し始めた。
はっきりと思考できるようになった頭で洸は部屋の隅々に視線を走らせた。スーツ、黒字のパーカー、側にはツバ付き帽子、殺風景な部屋に散りばめられた情報に今度は生唾を飲み込んだ。
「ここって…」
「僕の家です」
答えが扉から返ってくる。水の入ったコップを片手にした安室が、笑みを湛えながら室内へと戻ってきた。
視線を転じた洸は、いつも通りの安室透を演じながらコップを差し出した彼に内心恐れを抱いた。
何故、こんな場所に自分がいるのか。
安室透の家ではない。ここは、降谷零、の住み家だ。セーフティハウスのひとつなのかもしれないが、少なくともこの場所が彼の根城であることは、部屋に置いてあるギターバッグが証明していた。
ここが降谷零の自宅である。そう認識すると同時に湧き上がる疑問。笑みを絶やさない目の前の安室透に何をどう推測すればいいのか、洸には分からなかった。
そもそも倒れたというなら、何故、病院に自分はいないのか。わざわざ、降谷零が己の根城に不審人物を招き入れる必要はどこにあるのか。否、そもそもそのような必要性に迫られることがあったのか。
(私、気を失う前に何か…)
手繰り寄せようとした記憶に待ったをかけるように、安室の穏やかな声が耳朶を打つ。
「洸さん、大丈夫ですか」
「……え……あ、はい。すみません。ちょっと、驚いているというか状況が掴めていないというか。でも、そうですね…すみません、ご迷惑をおかけしました」
しかしひとつ分かるのは、気を失ってしまった自分を介抱してくれたのは彼ということで。「気になさらず。疲れが溜まっておられるんでしょう」と答えた安室に眉尻を下げた。事実、件の事件以降、洸はまともな睡眠を取れていない。身体的、精神的に擦り減っていった結果だった。
渡されたコップに入っている水をこくりこくりとゆっくり喉に流しいれる。そんな洸を安室はただ見つめていた。居心地の悪さに水が喉を通りづらくなった洸は視界の端で彼を捉えたが、その後ろにぽつねんと置かれたあのギターバックに視線を取られてしまった。
ごくり、と喉を潤して、コップをベッドサイドのデスクに置く。
「気になりますか。あれ」
洸の視線に気づいた安室が同じようにギターバッグに視線を転じた。「安室さん、ギターお好きなんですか」と、何気ない風を装って問うた洸に、彼は「えぇ」と、彼女に振り向いた。
「大切な物なんです、あれ」
ゆったりとした声音と、細められた瞳に心臓が波打つ。「大切な物?」とおうむ返しに洸は聞き返した。
知っている。知っているが、知らないふりをしなければいけない。
胸をざわつかせる洸とは反対に、安室は滔々と紡いでいく。
「古い友人……いえ、幼馴染の物で。もう、彼は亡くなっているんですけどね。遺品というか、形見というか、時々これで懐かしい曲を弾いていると無性に昔が懐かしくなるんですよ」
立ち上がり、ギターバッグを人差し指でツゥと撫でた仕草に目を奪われる。どくんどくんと心臓の鼓動が速まるが、洸に抑える術はなかった。
聞いてはいけない、そう直感的に感じていた。
「その人は安室さんにとって大切な人だったんですね」
「そうですね。今でも、夢に時々出てきます」
「………そう、ですか」
まるで、彼の輪郭が明瞭になっていくようで。意図せずして、自分が彼を暴いているような感覚に理不尽な罪悪感が芽生える。
いったいこの状況は何なのか。一秒でも早く、彼の目の前から姿を消したい衝動に駆られていた洸を他所に、安室は話を止めなかった。
「夢って、人間が記憶の整理をする過程で投影される副産物のようなものだそうです。レム睡眠の時に見た記憶のフィルムがまるで映画のように投影されていく。僕にとって、あいつの記憶は整理できないほど多いものなのかもしれません」
「無意識に、その人との思い出を夢の中で思い返しているのかもしれないですね」
「そうですね……ところで、洸さん」
ピリッと空気が軋んだ。弧を描きながら、ワントーン下がった声音に身構える間もなく、洸は投げかけられた問いに、戦慄した。
「降谷、て…どなたのことですか」
それは唐突で直球すぎる問いだった。
ひょっとすると、先ほどまでの会話は自分が取り繕う間を与えないための時間だったのかもしれない。悠長に脳内でそんなことを思い浮かべた一方で、洸の表層はぴしりと硬化した。
「え」と彼を凝視し、そのまま固まる。
なぜ今、それを。どうして、彼が自分から。
目を見開いた彼女の様子に、彼はしかし笑みを崩さない。
「洸さん、気を失われる前に仰ったんですよ、降谷さん、て。いったいそれは、どこの誰のことだろうと思いまして」
「それ、は…」
「無意識下での発言は、何か、を取り繕う間がないものなんです。夢見中の寝言なんてその最たるものですね、記憶の中の情報の整理を無意識下で行っている。以前、僕が洸さんの家に見舞いで訪れた際にも何かうわ言を言っておられました」
さらりさらりと湯水のように溢れ出す情報に、背筋に嫌な汗が伝った。
何かを言った気がする。それが、まさか彼の本名だったとは。洸は自分自身を呪いたくなった。
無意識下での発言は無防備になる。身体的にも精神的にも摩耗してしまった神経が、気の緩みを生じさせたのかもしれない。
ここで洸が取るべき正解は、いつも通りの笑みを浮かべて、こう答えることだった。「さあ、誰でしょう。よくわかりません」
刀海洸は記憶喪失の哀れな一般人。この設定を貫き通すためには、降谷という人間を、知人、ましてや友人にもしてはいけなかった。
しかし、唐突に投げられた剛速球に構えの姿勢をとっていなかった彼女は、捕球することもできずに見事にその球を食らった。
「………」
結果、彼女は口を噤んだ。脳の処理が追い付かず視線を外したその姿は、さぞバツが悪そうに安室の、否、降谷の目に映ったに違いはなかった。
「洸さん、もうひとつ質問です」
答えに窮してしまった洸に降谷はさらに問いかけた。
「僕の職業は何でしょう?」
「………私立探偵以外にあるんですか」
「それは実は隠れ蓑で、本当は何か危ない仕事をしている輩、だったらどうします?」
降谷の問いは、肉を切らせて骨を絶つようなものだった。決定的ではないにしても、警察庁警備局警備企画課に所属する公安警察官、降谷零が虚像ではなく実像として浮かび上がっている。
降谷零を知る人間なら、少なからず反応を示す問いで。
確信のある声音と、覚悟を持った問いに、洸の退路は断たれたのも同然だった。
(どうしよう、どうすればいい…)
思考がまとまらない。何か案を打ち出そうとしても、現状、警察機構の庇護下に置かれている洸に彼の詰問から逃れる術はなく、今のこの場をやり過ごしても逃げ切れる保証はない。
洸の反応に確信を持ったのか、降谷がこの日初めて、
安室透、の仮面を取った。
「洸さん、貴女は」
──記憶喪失じゃありませんね。
逃げ場はない。そう宣告するような冷眼と底冷えのする声音が洸を捉える。無意識に身体を後方へと下がらせた洸が視線を彼の後方にある扉へとスライドさせた刹那、降谷が洸の手首を掴んだ。
「ッ、いっ」
「申し訳ないが、貴女が知っていることを話してもらう必要がある」
「わたしは、……何もッ、」
「この状況で、その反応で、何も知らないとシラを切るなら、こちらとしても貴女をただの被害者として処理はしない」
この状況、という言葉に洸は気づきを覚える。
ああ、そのためにわざとこの場に連れて来たのか。逃げられないようにするための空間に連れ込み、自分の過去の一部を曝け出し、反応を見た上で判断する。洸が、まっすぐな問いかけに一瞬躊躇することを見込んだ、彼の完璧な作戦だ。
(……こんな形で、ばれちゃった)
あんまりにもあっけないものだった。ただの気の緩みから、あれよあれよと暴かれ、追い込まれた事実に洸は嘆息した。
手首の痛みに耐えながらうすぼんやりと状況を見つめる。そんな洸に降谷は更に畳みかけた。
「俺達が何者かということが分かっているのなら、何をできるのかも知っているだろう。こちらとしても、追い詰めるようなマネはせずにことを運びたい」
公安警察には違法で危険な作業も付き物だ。彼が本気を出せば、洸を独房へぶち込み社会生活を二度と送れなくすることも可能だった。
追い込みをかける降谷に、洸も諦念を覚え始めた。
(……これで、もういいのかな)
すべてを正直に話す。それは洸にとっても、肩の荷が下りる話でもあった。
吐いてしまえば楽になる。曝け出せばあとは彼が引き受けてくれる。物語の仔細、江戸川コナンは工藤新一で、灰原哀は宮野志保で、自分は組織に関する情報をある程度知っている。それを話せば、あとは公権力に庇護されてただ漫然と生きて行けばいい。
確かにそれは、非常に楽だ。何に抗うこともなく、何の責任も負わず、ただ流されるままに生きることが確かに楽だった。
「………分かりました」
磨耗した精神は限界を告げている。なら、いいじゃないか。卒なくこなして、なんとなく頑張って、その結果がこれなら、もういいじゃないか。
ぽつりと、了承の意を表す。無意識に漏れた言葉は、過去の事件と今のこの状況、全てを投げ出したいという身勝手な想いの表れだった。
どうせ、自分にはもう何もない。
どうせ、自分には誰もいない。
迷惑をかけることも無く、ただ流されて仕舞えば──
『……分かった』
しかし洸は、脳裏に浮かんだ小さな名探偵の姿にハッとした。
──違う。
緩んだ己の心に首を振る。
失意の底に沈んだ自分の手を引いて、見守ってくれた優しい瞳。自らの正体を告げられ、その真実を問うことすら許されず、しかし相手を信じることを決めた小さな背中。
それを、裏切ることが本当にできるのか。
グッと拳を握った。
(無責任じゃん、そんなの)
暴いた責任は、放棄することはできない。
絶句した彼の姿。暴かれ、それでも自分を真摯に見つめ続けた名探偵の瞳は決して揺らいでいなかった。
自分にはなにもない、誰もいない。
そんな言い訳で逃げるなんて、許されない。
全てを打ち明けて、物語を書き換えて、彼と彼女の秘密も、何もかもをぶちまけるなんて、あってはいけなかった。
「すみません、安室さん……いえ、降谷さん」
仄暗い瞳に光が灯る。降谷、という単語に反応した彼を洸は真正面見据えた。
「………私は、伝えて良いことしか伝えられません」
「……それは、言えない何かがあるということか」
「今は、言えないんです。でも、降谷さんと、貴方の属する組織、追っている組織について、私は概要程度は知っています。ただ、それをどうして私が知っているのか。そもそも、私は何者なのかという問いには、私自身答えられないんです」
オーディエンスからプレイヤーに。読む立場から動く立場に。そんな非現実的な事象を伝えたところで、得になることはない。
江戸川コナンは工藤新一が幼児化した姿で、彼が物語の主人公。それは、この世界において不必要な情報だ。
「それだけは、ダメなんです」
逸らされない視線に気圧されながらも、洸は決して彼から視線を外さなかった。鋭い眼光が射殺さんばかりに洸に注がれるが、降谷はひとつ瞬くと硬い声音で返した。
「………分かった。理由は聞かない。ただし、貴女が知っている俺達の情報は、全て話すように」
「それは、大丈夫です」
ハッキリと意志のこもった声音に、降谷は三拍ほど置くと腕の力を緩め、洸を解放した。
僅かに跡の残る手首を摩る洸に、ひとつ長い溜息を吐く。
「………ようやく、だな」
「え」
ぽつりと、吐き出された言葉に反応すると、降谷は洸に一瞥をくれた。
「貴女……も、もういいか。君からようやく話を聞ける。のらりくらりとかわされた分、聞きたいことは聞くからな」
その声音は、年相応か、幾分か幼いそれで。
今まで、安室透というヴェールに包まれて隙間からしか見えてこなかった、降谷零、が具象化したように洸には見えた。
「……ええ、言えることしか言いませんがよろしくお願いします」
──自分も同じようなものか。
内心、そうひとりごちた洸は、僅かに明瞭になった己の輪郭に、胸の内に仄かな温かみを感じた。
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