身体の内側から腐っていくような感覚に浸っていた。全ての言葉と挙動が偽りに見えて、差し出された手すら、縋ったら腐り落ちてしまうのではと錯覚するほど、自分は汚泥の中にいた。
信じることは尊くて残酷だ。自分が選択して、信じたとしてもそれが報われる保証はない。仮に手のひらを返されて否定してしまえば、それは自分自身への否定につながる。

誰かを信じて
自分を預けて
未来を共に見ようとする

それを足踏みしてしまう人間は、きっととても弱くて脆い。
だからわたしは、まだ泥沼の中でもがいている。



「以上が、私が知り得る皆さんの情報です」

物音ひとつ立つことがない空間で、テーブル越しに向かい合っている降谷は洸の話を黙って聞いていた。黙考しているように思える表層は気味が悪いほど静かだった。
洸が話し終えると、降谷はしばらく視線を落として瞳を閉じた。数秒、そのままじっと目を閉じ、薄っすらと瞼を上げていく。
はぁ、と大きな溜息が漏らされた。

「恐ろしいほど、筒抜けだな」

額に手を当て、項垂れる降谷に言葉をかけることも出来ず、洸は苦笑した。
降谷の反応は最もだ。秘匿された機関に所属していることはおろか、本名、偽名、トリプルフェイスの顔の概要、過去の一部など、部下にさえ話したことのない情報まで知っているのだ。
もはや知悉し過ぎている。
どこからその情報を入手したか。それがまさに気になるところだろうが、残念ながら洸がそれを話すことはない。

「知ってはいますが、活用する場面も何もありませんので…」
「分かっている。利用しようと思えばいつでも出来たはずだが、君はしなかった。しかし、これは少々厄介だな」

項垂れていた顔を上げ、ふと思案顔になった彼の目色を伺い、洸は小首を傾げた。「厄介?」と問いかければ、ああ、と彼は洸と視線を合わせる。

「正直、今この事実を上に報告すれば、君の自由は間違いなく制限…いや、なくなる。それくらい君の持つ情報は危険だ。更に、君がその情報を奴らに渡す、その意思がなくとも無理矢理吐かされたら──」
「下手したら殺されるとか?」
「………可能性はないとは言えない」

降谷の顔に影が落ちる。言い淀んだその言葉に洸は苦笑した。

「誰にとっても幸せな結果になり得ない情報を知っているんですよね。知っていることを相手に知られたら、どう転ぶのか分からなくても良い方向には決して行かない。嫌なもんですね、ほんと」

肩を竦めてみせたが、内心、胸中には複雑な思いが錯綜していた。
公安にとっても不安材料にしかなり得ない。むしろ、公安にとっての方が、自分は厄介な人間かもしれない。
洸が知り得ている組織の情報で最も高レベルなものといえば、宮野志保と工藤新一の情報程度だ。如何せん、終わっていない物語のため細部はまだ作者の脳内にしか描かれていない。それを除けば、知っているのは公安警察にとって既知の事実ばかり。
対して、組織から見て警戒すべき人間の情報は持っている。公安警察、工藤新一と宮野志保、そしてバーボンと降谷零。組織側に洸がくみすれば、降谷零と潜入生活は終わりを告げ、全てが泡沫となって消える。
公安警察としては、洸を野放しにしておくのはあまりにと危険と言えた。

「それを、誰から教えられたかは言えないんだろう?」
「言えないというより、説明ができないという方が近いんです。言ったところで、どうにかできるものでもないですし」
「そこの部分は、詮索しなくとも差し支えないということか」
「まぁ、そうだと思います」

淡々と回答する洸を降谷はじっと見据えたが、揺らがない瞳に一度浅く息を吐いた。気を取り直すように水で喉を潤し、静かに目を閉じる。
そんなサマも絵になるなと、ぼんやりと彼を眺めていた洸に降谷は再度口を開いた。

「教えられない、というのは分かった。なら、君はいったいどこから来たんだ」

どこから、と言葉を反芻する。瞳を伏せた洸は数秒思案した後、「詳しくは言えませんが」と前置いた。

「出身は地方都市です。共働きの両親と二人の兄、妹、の六人家族。それに、」

懐かしい情景が胸を掠めて、同時にちくりと穿たれた悔恨が痛む。

「数年前まで、祖母が近くに住んでました」

陰った声色に降谷の目色が鋭くなった。が、洸は陰鬱な面持ちをすぐに切り替える。「どこにでもある普通の田舎の家庭で育ちました」と、にこりと外行きの笑みで表層がコーティングされた。

「東京に遊びに行こうと思ってあのホテルに泊まったんです。宿泊記録については私自身、何をどう説明すればいいか分からないので保留にしてもらって良いですか?」
「それも、説明をしなくても差し支えないことか」
「したところで、意味がないと思います。私にもどうしようもないことなので」

真実を言わない。しかし嘘も吐いていない。答えられるところは答えて、あとはだんまり。この世界とかあちらの世界とか、そんな不必要な情報は一切口にしない、できない。
淡々と紡ぐ言葉に感情は載せられず、問われた事に対して情報を提供するまるで機械のような応対に、降谷がまたひとつ溜息を吐いた。

「ホテルの件は置いておくにしてもだ、君のその素性を証明する物を君自身は何故持っていないんだ。記憶喪失などと嘘を吐く理由は?」

真っ当な質問一つさえ答えられない現状に、洸は困ったように眉尻を下げた。

「証明できないから、記憶喪失になったことにしたんです」
「……言っている意味が理解できないんだが」
「私も話していて訳がわかりません。ただ言えるのは、私は私の持っている情報を悪い人達に話すつもりはないということだけです」

はっきりと断言できるのは自分は敵意がないということくらいで。そのための情報は開示できても、それ以外、自身にまつわる情報は説明しても証明はできない。
洸の話に降谷は眉間に深い皺を刻んだ。
当然といえば当然の反応だった。
組織について、そして降谷の情報を知り過ぎている不審人物が、知り得ている事柄を開示しながら自身のことについては何一つ証明できないと言う。
そもそも、記憶喪失ではないなら身元を明かすことはできるはずだ。明かすことなく記憶喪失という設定のまま生活するメリットがどこにあるのか。

(意味がわからない、よなぁ)

思惟に浸る降谷に洸は内心、少しばかりの罪悪感を覚えた。いくら思考を巡らそうとも人智を超えたあり得ない事象が起きている。そんなことに思い至るのは、小説家希望の空想家くらいだろう。
小説、という単語に洸はふと、在りし日の情景を思い出した。

「……マトリックス」

ボソリと洸が呟くと、降谷の鋭い視線が向けられた。「そんな話もしたな」と溜息交じりの言葉が吐かれる。

「あの場に降谷さんが来られた時には正直怖いと思いましたよ」
「……俺の素性が分かっていたのなら、ある程度予想はついていたんじゃないのか?」
「可能性を考えていても、現実にそれが来たらやっぱりびっくりしますから。深夜前のど田舎に国産のスポーツカーが来たら身構えませんか?」
「……字面だけ見れば滑稽だな」

洸の問いかけに、降谷が僅かに相好を崩した。少しばかりあがった口角に洸も破顔し、二人して笑みを溢す。
緩んだ空気に幾分か心中が穏やかになった洸は、眉間の皺が薄くなった降谷に問いかけた。

「降谷さん、人間ってどうやって生きていると思います?」
「なんだ、藪から棒に」
「いいから、ね?」

軽やかな声で促された降谷は、ふむ、と顎に手を当てて考え込んだ。

「心臓が動いて、脳が正常に作動する。人体構造に不備がなければ生きていると言えるだろう」
「生命活動って意味ではそうですね。けど、それだけじゃただの動物と同じです。人間は、です」
「言語によるコミュニケーションを取りながら社会生活を送るということか?」

降谷の答えに、洸は満足そうに頷いた。

「社会で暮らして、他人と共同生活をする。自分自身が、他人と自分を認識して生きていると客観的に知覚できて初めて人間は生きることができると思うんです」

生きる、という概念すら他人がいないと知覚できない。生まれた子どもが、親からの声、視線、向けられる全てを以って個人を認識するように、生きるということは他人を認識して自分を知覚することで成り立つ。
人間が生きるというのは、他人との生活を通じて生を感受することの繰り返しだ。生を受けてから自身の行動に対するアクションを受けて、思考し学び育つ。

「それで?」と降谷は続きを促した。洸は、視線をわずかに落として応えた。

「私は、今、その積み重ねたものを証明できないんです」

自嘲じみた声音が彼女の心情を体現する。
自身が培った経験、見聞きしてきた凡ゆる物事とそれを証明する人間が、今この世界にはいない。洸が以前出会った、母に良く似た精巧な作りの人形のような人物は洸に言った。あら、どちらさま、と。
確かに此処にいるのに、此処はお前の世界ではない。洸は、常にそう突きつけられているような心持ちになっていた。

降谷は洸をじっと見つめた後、視線を外して目を閉じた。

「……俺は君の素性を調べたことがある」

低く呟かれた言葉に洸がピクリと反応した。が、降谷は構うことなく続ける。

「ホテルの宿泊記録だけじゃない。各交通機関の防犯カメラの映像や、君の名前で行方不明者が出てないか。以前、君が行った地方都市の住民票記録、凡ゆる角度から調べを進めたが君は……いなかった」

瞬いた降谷が洸に視線を転じた。その瞳には、探り屋としての冷徹さではない、真実を追求しようとする件の名探偵にも似た澄んだ焔が灯っていた。

「この事実を、君自身、説明する術がないということか」

小さな名探偵を彷彿とさせる瞳に洸が一瞬、戸惑いを見せた。逡巡するように伏せられた瞳が心情を物語る。
説明する術がないというのは嘘だ。しかし、証明する術がないというのは真実で。

「……マトリックス、みたいなものなんです」

だからこそ、曖昧で遠回しに返すことしか洸にはできなかった。

「君にとって、この現実は夢だとでも?」
「いえ、現実です。ちゃんと私は此処にいて、降谷さんと話していますから。ただ、ネオのように目覚めて、意識が他の場所に現出する可能性もあるかもしれない」

降谷は片眉をあげた。本日何回この顔を見ているだろうと苦笑する。
洸の言葉は、洸側の人間に理解はできても、物語の構成員にとっては不可解極まりない。自分自身が、ひとつのお話の中のキャラクター、などとこの世界の誰もが知らない。仮に、仮定をしたところで構成員にそれを証明する術はない。

「私が育った場所が、仮想世界、だなんて言ったら笑いますか?」

洸の問いかけは、真実でもあり、しかし嘘でもあった。
現象学によると、人間の主観と客観を一致させる論拠は存在しないとされる。今、見えている世界が本物か。それは現実に存在しているのか、単なる自分の妄想なのか。

彼女にとって、現実はこの世界で。
しかし、紛れもなく此処は物語という仮想世界で。
果たして、夢を見ていたのは『どちらでなのか』


──現実は、いったいどちら?


「下らない」

洸の問いを、降谷は一笑に付すことすらなくぴしゃりと跳ね除けた。
予想通りの反応に洸は力なく笑った。眉尻を下げて、ですよね、と消え入るような声で呟いた洸に、降谷は鼻を鳴らした。

「仮に、君が今見ているものが現実ではないと思い込もうが、君の知覚、判断、意識が君自身のものであることは疑いようがない」
「それは……そうですね」
「可能性の話をしたところで詮無いことだ。それに、」

降谷の瞳がしっかりと洸に向けられる。アイスブルーの瞳の奥にある芯の通った意思に、洸の心が震えた。

「君がネオであったとしても、今俺の目の前にいる君は紛れもない現実だ」

揶揄うような、あやすような、そんな温かさを感じる。とくんと胸のあたりを温める降谷の言に、洸は自分がどんな表情をすればいいのか分からなくなった。が、僅かに緩められた緊張の糸に、目頭が少しばかり熱くなった。
あちらかこちらかが、現実か仮想か。
そんなことは瑣末なことだと取り合わない姿にどこか救われた。
例え、彼が意図せずその発言をしたとしても、言葉尻の強さは洸の耳朶を打った。
「そうですね」と久し振りに洸は、ごく普通の、ありふれた笑みを浮かべることができたような気がした。


洸の話を飲み下した降谷は「君の話を一応は理解した上でだが」と前置くと、彼女に視線を合わせた。

「訳がわからない、というのが素直な感想だ。あり得ないほどこちらについて知っているが、その情報源は言わずとも差し支えがない上に、自分の身の上も探る必要はないと言う。普通に考えれば、君のいうことを鵜呑みになどできない」
「そう、ですね」
「………だが、今は置いておく」

降谷の淡白な声に顔を伏せていた洸は「え」と驚きに染まった相貌を彼に向けた。
目を瞬かせる洸に降谷はさらりと答える。

「君の素性を明かすことに労力を費やすより、君をどう扱うかを先に決めた方が良さそうだからな」
「……私の話を信じるんですか?」
「安易に信じるのは危険だが、少なくとも君と言う人間は信用に足るとは思っている。不満か?」
「め……めっそうもないですけど…その、意外というか」

意外性のある答えに口籠る。
信用、信頼、荒唐無稽な話を聞かされながらしかし洸を信用するという彼に、洸は戸惑いを隠せなかった。

──だって、こんなにあっさり。


「誰かを信じるなんて、怖いじゃないですか」


漏れた言葉が心内を如実に語る。
尊くて残酷な信用という諸刃の剣。それは時に自身を強め、そして時に自身を引き裂く。
言葉にして、洸はハッとした。

(怖い…?怖がってるのは)

──私?

誰かを怖がっているのではない。厳密には、彼の手によって崩れ去った、信用、という砂上の楼閣の事実を知る目の前の男が、今度は逆に洸を信用するという事実そのものが洸にはひどく恐ろしく思えた。
信用は生死に関わる、信用していた己を傷つける可能性もある。
しかし、それでも、洸のことを信用に足ると彼は判断した。

ぽこり、と汚泥に気泡が入る音が聞こえたような気がした。

「……君は、」

降谷は洸をしばらくの間見つめたが、硬質な表情を見せると顔を背けた。思案顔になった降谷に、「降谷さん?」と洸が小首を傾げる。
沈黙を数秒流した降谷はひとつ瞬くと、「ひとつ、確認したい」と、洸に向き直った。


「君はこの先どうしたい」


真っ直ぐに問われた先、洸の脳裏に浮かんだのはある一人の男の後ろ姿だった。


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