洸が不眠症になった理由の最たるものは、結城亮だった。厳密に言えば、瞼の裏に映される彼の姿のせいだった。
初めてあった日のこと、追いかけっこをした背中、部屋で座卓越しに他愛もない話をした記憶、底冷えがするような瞳、そして、己を畳へと押し倒したあの惑った表情。
浮かんでは消え、見つめては遠のく過去の情景は、いつだって目を閉じれば洸の前に現れる。それはまるで、闇から手が伸びて己を縛っているような感覚で。
囚われている自覚はあった。身体は自由でも心はずっとあの時から何も変わらない。どれだけの労りの言葉を掛けられ、想いを注がれても常に暗闇の先に彼がいる。己の身体を食わなかった彼に、洸はずっと、暗闇の中で囚われている。身体の隅々まで侵されている感覚だった。
どうしたいか。その問いの答えは、であるからこそ直ぐに口に出すことができた。
「本当のことを知りたいです」
真っ直ぐに、降谷を見据えた瞳に濁りはない。偽りのない本心が曝け出された。
何故、彼は警察官という立場でありながら組織に落ちたのか。彼はどのような人物で、どのような略歴があるのか。
そして何故──
『俺を巻き込むな』
あの日、終わらせることなく、己に背を向けたのか。
「結城のことを知って、真実を確かめたい」
「知ってどうする?」
怜悧な瞳が洸を射抜く。
知ったところで現実は変わらない。結城亮、友人だと信じて疑わなかった人間に裏切られた事実は覆しようがなく、いかなる理由があろうとも現実としてそこにある。
それでも、洸は首を振った。
「どうもしません。ただ、知りたい…知らないといけないんです。私が前に進むためにも、今できるのはただ、理由を知ることなんです」
「知ればもっと辛くなるかもしれない。それでも君は知りたいのか」
「……はい」
知らない方が幸せかもしれない。そう思っていた時期は確かにあった。
しかしながら、知らないことで多くのことに巻き込まれ、当事者でありながら、まるで第三者のように外側の情報しか見聞きできていなかった洸にとって、知るという事は何よりも重要なことだった。
「現実がどうあっても、知らないわけにはいきません。知って後悔なんてしない」
知った上で、先を見据えなければいけない。
静かな決意が言葉には込められていた。
洸を数秒見据えていた降谷は、浅く息を吐くとゆっくりと瞬いた。こめかみを抑え、呆れた口調で呟く。
「君は危険を顧みない傾向がある。今回の件も、以前も」
「以前?」
小首を傾げた洸に降谷が「夜道を一人で帰っただろ」と不満を滲ませた様相で語った。
夜道を一人で帰り、偶然通りかかった安室透にも助けられたあの日。
その綺麗な事実の裏側の現実を降谷はさらりと打ち明けた。
「不審人物である君を調査するためにやったことだったが、結果的に君は、ただ危機管理能力のない一般人だった」
「……あ、やっぱりあのストーカーは公安の方だったんですか」
「なんなら、ファミレスにいた何人かもそうだ」
ぶちまけられる現実に苦笑した洸は、ジロリと向けられた鈍い視線に慌てて表情を取り繕う。
「当初は、君を組織の関係者と疑っていた。監視の目を付ければ尻尾を出すと踏んでいたが、蓋を開ければただの勘違いだったわけだ」
「結果的にはシロだったから良かったが」としかし、顔を顰める降谷に洸は合点がいった。
ああ、だから彼はあの時『ひどく不満げ』だったのだ。怯え、彼に助けを求めたただの一般人だったからこそ、あの時、降谷はひどくイライラしていたのだ。
組織の関係者ではなく一般人だったという空振り。
思わず、くすりと笑みが溢れる。あの時、降谷の心情を理解できずに戸惑っていたが、中身を開ければ存外単純なことだったのだ。
なんだそんなことだったのか。そんな言葉が表情に現れた洸に降谷は片眉をあげた。
「言っておくが、あの時伝えた言葉は真実だぞ。危機感のなさに対しても正直苛ついたからな」
「それは、すみませんでした…」
「回避できる危険な状況を回避せず、そこに突っ込んでいくことは褒められたことじゃない。勇敢と蛮勇は違う。君の行動は後者だ」
結果的には良かったというのは、組織側の人間ではなかったことだろう。しかし、洸自身の行動に関しては不満はある。渋い表情が降谷の心情を深く表していて。
そんな複雑な心境故の渋面だったが、その渋面に洸は眉尻を下げた。
「自分のことが大切じゃないわけではないんです。痛いのは嫌ですし、死ぬのも嫌です。私はただの一般人で特別な知識があるわけでもない。危険と向き合った時に何かできるほど自分に自信はありません……それでも、」
テーブルの下で両拳を握りしめる。
「私は、知りたいんです」
震えるそれを、深く握りしめた。
あの日、自分にトドメを刺すことなく遠のいた靴音。悲しく、哀切を匂わせる背中に伸ばした手は届かなかった。
知りたい。彼のことを知って、その上で会って話したい。我儘で強情な女の戯言であっても、それが今、洸が唯一この世界に生きる意味となっていた。
産み落とされた子が探し求める意味を、彼は持っている気がしたのだ。
じっと降谷の鋭い視線が洸に向けられる。居竦まるようなそれにしかし洸は真っ直ぐ応えた。
数秒見合った二人のうち根負けしたのは降谷で、「分かった」と呆れ混じりのため息を漏らした。
「君がそうしたいなら止めはしない。どうせ止めても無駄だろうしな」
「……そうですね」
朗らかに、しかし引く気は一切ない声音に、降谷はジロリと鈍い視線を遣った。
「ただ、ひとつ条件がある」
「条件?」と傾げられた首に、降谷が頷く。
人差し指をひとつ立てた彼が宣った言葉に、しかし洸は目を見開くことになった。
「君の監視に俺が付く」
「………は?」
素っ頓狂な声を出した洸に反して、降谷の声はいたって冷静だ。
「今までは部下達が付いていたが、次からは基本的に俺、もしくは風見か直属の部下に付かせる予定だ。異論があるか?」
有無は言わせない。そう宣言する声音に洸の声としりすぼみになる。「え、いや…異論というか」と、前置くと、睥睨する降谷におずおずと尋ねた。
「他の皆さんもですけど、降谷さんお忙しいじゃないですか。安室透にもなって、バーボンにもなって、その上私の監視とか…その、一応、信用というか…私が敵じゃないことは理解してもらえているんですよね?」
「そうだな」
「なら、」
どうして、という言葉は飲み込まれる。
監視という単語に拒絶反応が出たわけではなかった。臨海副都心で倒れるまで公安捜査員の点検行為を受けていた身としては、ただの監視は洸にとって、さしてどうでも良いことだった。
問題は降谷自身、そして部下の風見、その直属の部下など比較的体の空かない人間達が付くということで。
煩わしい思いをさせるのは本意ではない。
組織の一員ではないと理解した上で、自分に付く理由は一体なんだと首を捻らせた洸に、降谷は長く深い溜息を吐いた。
「君は話の文脈を読み取る努力をしているのか」
「えぇ…」
軽く頭を抱える素振りを見せる彼に困惑顔になった洸に、降谷は目を眇めた。
「知りたい人物に接触して大怪我をした人間が再びその人物に会おうとしているのに、野放しにする警察官がいると思うか」
「まぁ…それは、そうなんですけど」
「忙しいやらなんやらを君が気にする必要は一切ない。四六時中君の側にいるのは効率的ではないので、必要に応じて別行動もとる。君もある程度の自由は得られるだろう」
「いや、でも」
「加えて、君の人探しは俺の目的とも同じだ」
ひとつ声音を低くした降谷に洸の表情も硬質化した。ピシリと震えた空気が公安警察官としての降谷を際立たせる。
「組織内でもメスカルについて知る人間は多くない。奴の経歴に嘘がないなら、表の顔から調べを進めるのも手だ。君が自分で動くなら、監視がてら調べを共に進めれば良い」
「……でも、」
降谷の言い分は洸にも理解できた。要観察、保護対象が勝手に動くのを阻止しつつ、自分達も調べを進めることができる。
(でも……)
面倒をかけさせるな、と記憶の中の誰かが呟いた。
「……今までみたいに警視庁と家の往復じゃありません。今日みたいに逃げ出すかも。皆さんだけで動いた方が効率的だと思いますし、私に付いてもメリットなんてッ、……いっ!」
ガンッ、と脳天に痛烈な痛みが走り、思わず洸は頭を抱えた。迷走していた思考を一気に収束させる一撃に目を白黒させる。
──え、叩かれた?
事実を把握する前に視線を前へと向ければ、降谷の不満顔を拝むことができた。背筋がひやりとするような尊顔だと慄然な思いを抱きつつ、しかし、不満顔に滲んだ真摯で真っ直ぐな言葉が彼女を射抜いた。
「そうやって、逃げるのはやめろ」
ずきりと胸が痛む。彼の瞳が、声が、表情が洸の胸の奥の楔を掴んでいるように、ずきりずきりと痛みが身体に伝播した。
「迷惑をかけまいとしているのかもしれないが、君の行動はただの逃げだ。誰にも危害を及ばせない、誰にも迷惑をかけない。一見すれば美徳だが、君のそれは自分が傷つくのは構わないただの自己犠牲に過ぎない」
降谷の言葉は鋭利な刃物のようで、しかしそうではなかった。穿たれた楔を抜こうとすれば痛みが走る。
「誰も巻き込みたくないというのは君の勝手だ。だが、その代わりに自分が傷ついていい道理はない」
「それは、」
「君自身が傷つくことで、心が傷つく人間が大勢いることをよく自覚したほうがいい」
心が傷つく人間、という言葉に洸の脳裏に幾人かの顔が浮かんだ。
力になると真っ直ぐな視線を向けた、去る自分を不安そうに見つめた、大丈夫だと優愛の瞳で微笑んだ、自分をただ安じていた多くの人間の顔が浮かび、最後に残ったのは丸い、しかし鋭く強い意志の篭った瞳。諦めない、そう自分に訴えそして己にも自戒していたような彼の顔貌が浮かび上がる。
迷惑をかけた。心配させたというのは迷惑をかけたということだ。
「でも、やっぱり迷惑を…かけたくはないんです。心配させたいわけでもなくて、でも、私は」
「それが逃げだと言っているんだ」
連ねる負い目の言葉を降谷はばさりと切り捨てる。
心配させたいわけではない、迷惑をかけたいわけでもない。
──分かってる。
並べられた言い訳は、自己保身でしかない。
それは、ただ自分がそうしたくないだけだ。相手を傷つけた不安にさせた、それを恐れているだけで。
逃げと断じた降谷に、洸は口を真一文字に結んだ。
「……君の生い立ちが、君にそうさせているのだとしても、それをまた見過ごすことはできない。もし、また君が自らを顧みない行動を取るなら、俺は君を留置場にぶち込んででも君の行動を阻止する」
「物騒ですね…」
「今更だな」
仏頂面を崩すことなく、降谷は毅然とした態度で続ける。
「君が言いたくないことを強要はしない。だが、言わずに抱え込もうとするのなら話は別だ。無理にでも口を割らせる」
「降谷さん、割と横暴ですよね」
「君が強情だからだろう」
「……否めないですけど…」
視線を外した洸に、降谷は小さく溜息を吐くと、じっと彼女を見つめた。アイスブルーの瞳が向けられ、洸は居心地の悪さに視線を四方に転じる。
降谷の瞳は、まるで毒のようだった。曖昧な笑みの下の奥底に隠してきた深層を見つめるようで、洸にとってそれはひどく恐ろしく、己を不安にさせる。
たった数ヶ月の付き合いで、自身の心内をここまで正確に捉えられることに、洸は若干の畏れを抱いていた。
(踏み込まれ過ぎてる感じがして)
胸の奥がギジリと痛む。悔恨の楔がギリギリと痛みを生じさせていた。
「…君自身に敵意がないことは信用している、が、君自身が危険に突っ込まないと明言しても、その自己犠牲的行動は簡単には治らない」
的確に洸の悪癖を分析する降谷に、返す言葉もなく口を噤む。
「はっきり言っておくが、迷惑をかけまいと逃げられる方が面倒だ。だから、逃げるな」
強められた語気と、険しくなった目色に、洸は頷くしかなかった。
自身の悪癖と
胸を穿つ悔恨と
立たされた今という現実から
(逃げるな、か)
それは、ひどく残酷で、しかし優しい言葉だった。
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