街灯がまばらな住宅街を早足で進む。カチカチと少ない電灯に群がる羽虫達の音を聴きながら、向かったのは三階建てのマンション。
セーフハウスのひとつとして活用しているそこの一室に入ると、視線を各所へ転じた。出て行った時と物の配置は寸分違わないかチェックする。人の気配、些細な違和感も命取りだ。潜入捜査員にとって、僅かな見落としは死に直結する。
全てのチェックが終わると、降谷は中へと入り全ての部屋と物、排気口から換気扇、ベランダは洗濯物を取り入れるふりをして確認する。盗聴器、監視カメラの類もなし、物の配置も変わっていない。
部屋全体を調べ終わったところで、降谷はようやくひと息ついた。
慣れたものだった。潜入捜査官としての任務に当たり始めた頃は部屋を確認し終わっても緊張の糸が切れずに常に疲労感が体を支配していたが、今ではもう身体が慣れきっている。一定の緊張感を持ちつつ、抜けるところは抜かないと身体は疲弊するばかりだ。
シャワーを浴び、タオルを首にかけ、冷蔵庫から取り出したのはアルコール…ではなくノンアルコールのビール。いつ何時、何があるか分からないのが警察官の、さらに言えば公安の仕事だ。任務以外での飲酒は基本的にはしなくなった。酒への耐性はついているため、いざ任地で度数の高いものを飲まされたとしても支障はない。
プルトップにかけられたゴツゴツとした指が手前に引かれる。空気の抜ける耳障りの良い音がすると、降谷は缶を片手に持ち、ぐびっと口に含んだ。
喉を潤した後、冷蔵庫から軽くつまめる物を取り出してテーブルに置き、席に着く。ひと息着いたところで、ふと向かい側に向けた視線の先、椅子に座りこちらを見据える女の幻影が網膜に投影された。
『知りたいです』
固い意志のこもった瞳は初めてだった。
いつだって曖昧な笑みと人をかわす言葉で背を向けていた彼女。何を信じていいのかを模索するように彷徨っていた彼女。
捉えどころがなかったが、ひとつ言えるのはひどく自罰的で。その姿は己が心を守るただの子どものように思えた。幼い子が、自らを守るため殻に閉じこもり、世界と自分の間に一線を引いているような印象。
世界に踏み込まれないように、己はまるで違う人間だと思い込む。
それでも、人は世界の中でしか生きられない。
「知りたい、か」
世界に背を向けていた彼女が振り向き、固い意志を込めた瞳と、芯のある声音で放った想い。
ただ、知りたい。知ったその先にあるものが何か分からない。それでも、知ることに意味はあると彼女は思っている。
真実を知ることが良い方向に繋がるとは限らない。知らない方が良かった、幸せだった。そんなことは世の中に掃いて捨てるほど転がっている。真実を知って後悔する人間を降谷は何度も見てきた。
それでも、彼女の意思の硬さは本物だと感じた。だからこそ、降谷が止めることはなかった。
知りたい。真実を知りたい。
「知ってどうする」
吐き捨てるように紡がれた言葉は、己へ向けられているようで。胸の奥にしまい込んだ悔恨が顔を出す。
もっと早く、知っていれば、駆けつけていれば、そうしたらもしかしたら──
「馬鹿馬鹿しい」
短く舌打ちをして、苛立たしげにビールを飲み干す。やけに苦く感じたそれに、降谷の顔が歪んだ。
思考が鈍っている。感傷に浸り、時間を無為に過ごす猶予を自分は与えられていない。
ひとつ息を吐き、錯綜する感情を収束させたと同時に、降谷のスマートフォンが振動した。手に取り、画面をタップした降谷の声が硬質なものとなる。
「どうした」
『夜分遅くにすみません。緊急ではないのですが…』
「……いい、話せ」
電話口の部下、風見の歯切れが悪い言葉に手短に命令する。降谷の硬い声音に、電話越しに風見が僅かに息を飲んだが低い声音で続けた。
『それが、有崎課長宛にですが、厄介ごとがひとつ届きまして』
「厄介ごとだと?」
問い返した降谷に、風見が『はい、それが…』と、一瞬逡巡する。「なんだ」と語気を強めて促した降谷に風見は続けた。
『組対五課の武藤管理官はご存知ですか』
「……確か、有崎課長の所轄時代の同僚だったな。それがどうした」
『その武藤管理官から有崎課長宛に一通のメールが届いたんです。命を狙われているかもしれない、と』
「良くない噂を何度か耳にする奴だからな。命の一つや二つは狙われるだろう」
『降谷さん…』
嘆息する風見に降谷は鼻を鳴らした。
件の管理官、武藤の悪評は何度か耳にしたことがあった。部下への罵詈雑言、パワーハラスメント、酒癖が悪いなどの身内の恥から、取り調べ中の『事故』や更には法に抵触しかねない事案もあると言う嘘か真か、真偽が定かではない噂まで。兎にも角にも、何故このような男が警察官になったのかといわんばかりの男だった。
が、そんな人間でも上へのごますり技術だけは一級品だったようで、役職キャリアには何故か気に入られていた。
警察という古い体質の組織の弊害か、実務能力に支障が見られても、ごますり技術が優れてさえいれば、ある程度の役職は約束される。
その、武藤管理官が、公安総務の有崎課長に何を泣きついているのか。そもそも、泣きつくならごまをすった同課の課長クラスであり、一時期同僚であっただけの有崎課長に泣きつくのはいささか不自然ではあった。
「命を狙われる理由は?ありすぎて分からないとでも?」
嘲笑した降谷に風見が『いえ、それが』と言葉を濁しながら答えた。
『詳しくは言えないと。ただ、自分の周りを警戒しといて損はない、とだけ』
「……おいおい、随分な態度だな。助けて欲しいのか見捨てて欲しいのか分からないぞ」
肩を竦めた降谷はくつくつと笑みを零した。
これが本当の自己保身か。分かりやすい保身に腹の底から侮蔑の感情が湧き出る降谷を他所に風見の声は強張ったままだった。
『有崎課長の見立てでは、その…M(マイク)に絡むことかもしれない、と』
風見の言葉に降谷の嘲笑が止み、端整な顔が僅かに歪んだ。M(マイク)、公安チーム内ではコードで呼び合うその男の名に片眉が上がる。
(結城亮)
組対のボンクラ管理官と結城亮に繋がりがあると有崎課長は踏んでいるのか。いや、その見立てを持つということ自体、彼は何かを知っている。
「……食えない人だな」
『否めません…時折、自分はあの人のことをひどく恐ろしく思います』
「…分かった。とりあえず、何人かを奴に付けろ。お前のチームの若手で十分だろう」
指示を出した降谷は通話ボタンをタップすると長く溜息を吐いた。
組織での活動もあり、降谷は自由に時間を使うことが難しい。手足となって動いてくれる部下がいることはありがたいが、厄介ごとが降りかかればそちらに手を割かなくてはいけない。
「……少し調べるか」
しかしながら、降谷に手を抜くという選択肢はない。
結城亮、武藤管理官、有崎課長。
交わらない点を繋ぐ線が、絡まりを見せ始めていた。
*
男は、自宅の自室の壁を勢いよく叩いた。苦々しげに歪んだ顔には脂汗が滲んでいる。「ちくしょう、ちくしょう」とうわ言を呟きながら、ギョロリと血走った眼をデスクに向けた。
デスクの上には、一枚の用紙があった。無造作に置かれたそれはくしゃくしゃになっており、憎々しげに用紙を睨みつける男自身が握りつぶしたものだった。
「今更なんだってんだ…なんで、なんで俺だけ…」
雲の隙間から漏れた月光が用紙を照らす。
Yと記された用紙に書かれていた文字は、男に対する死刑宣告だった。
『俺は
お前を
見ているぞ』
「ちくしょう」と力なく呟いた男はその場に崩れ落ちる。罵詈雑言を吐く気力もないのか、掌で顔を覆い、打ちひしがれたように地に伏した。
大の男が震え、床に顔を付ける。男はその場で、その状態で数分うずくまると、今度は意を決したように立ち上がり、用紙の近くまで来た。「クソが!クソ、クソ!」と、用紙を破り捨て、次いで用紙に同封されていた複数枚の写真も破り捨てた。
「亡霊がなんだ…っ!アイツは死んだ!死んだんだ!生きているわけがない、アイツは…」
怒り、恐怖、負の感情が綯い交ぜになり爆発した様をひとり誰にでもなく見せつける。
写真と用紙を破り捨て、溢れ出そうなゴミ箱に突っ込んだ男は猛る感情を落ち着かせるように荒々しく息を吐いた。
数分の間に呼吸を落ち着かせた男は、ぎらつく眼をカレンダーに向ける。
「……恨みを晴らすってか。俺だけを狙って?……馬鹿馬鹿しい。そんなこと、はっ…はは、は」
乾いた笑いが室内に空虚に広がった刹那、男のスマートフォンが振動した。
ビクリと肩が揺れ、再び男の心臓が早鐘を打ち始める。化け物を見るかのような目でスマートフォンを凝視した男は震える手で画面をタップした。
数秒、液晶を見つめた男の顔が憤怒に染まっていく。「……ふざけやがって…!」と、握りしめたスマートフォンが床へ叩きつけられた。
怒髪天を衝く勢いだったが、男の背中は焦慮に駆られていた。焦りと苛立ち、憤懣立ち込める心内を体現するように拳をデスクに叩きつける。
「俺を試そうってのか…上等だよ…」
男の口元が歪み、何かに取り憑かれたかのように瞳の奥が澱んでいく。
液晶画面が割れたスマートフォンが妖しく室内を照らしていた。
65