柔らかな秋の陽光がテラス席に降り注ぐ。カップに入った温かい紅茶に口付けて煌めく海面を眺めたが、穏やかな気候に反して心中は騒ついている。

(逃げるな、か)

真摯な瞳、揺らぎない意思が見える瞳を持つ彼が向けた言葉は、優しく厳しい。偽りのない声音が逆に洸の心を締め付ける。
逃げてはいけない。そう自戒したところで逃げ癖のついた性根はなかなか治らない。
見たくないものは見ないで、知らないふりをして。自分に関わろうとする善意に背を向けてきた。良いか悪いかなど関係ない。ただ、そうしたかったからそうした。
自分のせいで相手が傷つくところなんて見たくない。
究極の自己保身が染み付いた身体は無意識に他人を遠ざける。平時における好意は受け取ることができても、そこに憐憫と同情が付加されれば途端に一歩下がって、そして笑みを貼りつけた仮面を被るのだ。

「どうかした、洸さん」

ぼんやりと海面を眺め、黄昏ていた洸の意識が目の前に座る彼に向けられる。「なんでもないよ」と目尻を緩めても、彼の目色は険しいままだった。
休日のお台場はたいそう賑わう。観光客から近郊の住民まで、交通アクセスも良いこの場は足を延ばすにも羽を伸ばすにも適していた。
秋の陽気は過ごしやすい。カフェのテラス席は満席になるほど埋まっていて、そのうちのひとつに洸は彼、江戸川コナンと座っていた。
正確には、工藤新一、の方が正しいのかもしれない。江戸川コナン、彼は現在、阿笠邸で友人と遊んでいる設定だ。保護者である毛利家の面々にはそのように伝えている。
わざわざ、工藤新一がそのような工作をして洸に連絡を取り、話がしたいと連れ出したのには理由があった。

「ぼんやりしているところ悪いんだけど、聞きたいことがいろいろとあるんだ」
「君の本当の姿のことなら、どうして知っているかは答えられないよ」

穏やかな笑みを湛えつつぴしゃりと言い放つ。更に、険しくなった相貌に洸は仮面を被り続けた。

「どうして?奴らの仲間から聞いたんじゃないの?」
「奴らの仲間っていうのは違うかな。誰から聞いたのかは答えられない…というより、説明しても納得してもらえない」
「納得って…話してもいないのに」
「そうだね、ごめん」

へらりと笑った洸にコナンがもの言いたげに口をまごつかせたが、結局閉口した。会話が平行線になることを理解してのことだった。

「……僕が…、いや俺が工藤新一ということを理解しているのに、組織の手が俺に伸びていない。ということはとりあえず、洸さんは奴ら側の人間じゃない」
「そうだね」

工藤新一、と名乗ったことで猫かぶりをやめたのか。コナンの声音が少しばかり低くなり、目色が鋭くなった。名探偵の顔を前面に出してきた小学一年生に洸は苦笑する。

「記憶喪失ではなかったのなら、何のために経歴を偽装したの?組織から逃げるため?」
「逃げるもなにも、私は彼らと何一つ関わりはないよ。一方的に彼らを知っているだけ」
「一方的に知ることができるほど開かれた組織じゃないこと、洸さんも理解しているよね?」
「そうなんだけど…だからこそ説明が難しいんだよ。ただ、私もあの組織の目的とかは知らない。何人かのコードネーム付きの人間を一方的に知っているだけ」
「……本当にわけがわかんねぇ」

ガシガシと頭をかき、顔を歪ませるコナンに洸は胸中で、ごめん、と謝罪した。
断片的な情報で振り回されるのはいつだって情報を得ていない人間だ。その術すら限られている相手に不必要に話してしまった。
本来なら彼には、江戸川コナン、として物語を進める役割がある。イレギュラーの自分に関わる必要はなかった。

「ごめんね、コナン君」

消え入りそうな声は胸に穿たれた悔恨を吐露していて。
逃げ癖がついていたというのに、いざ目の前に本気で自分に向き合う人間が来ると怖気付いてさまう。
一線を引いて自分と他人の境界線を決め、必要以上に関わらないことで迷惑もかけない。その生き方を実践してきたはずだった。
だというのに、弱い自分の心が周りの人間を振り回してしまっている。

(ウジウジしたって何も変わらないのに、嫌だな)

そんな堂々巡りの後悔に意味はない。しかし理解していても、染み付いた己の性というものはどう足掻いたって取れやしないのだ。
洸の力無い声に、「洸さんは…」とコナンが口を開いたが、何か思うところがあったのか、言葉を発することはなかった。


重い沈黙が二人の間を結ぶ。実りある話などできずに終わるのかと諦念のような感情が芽生えた洸は、ふと、視線をスライドさせた。
というのも、視界の端に妙な違和感を覚えたからだ。

(……何しているんだろう、あの人)

海浜公園内を歩く背広姿の男がいた。近くに人影はなく、観光客のほとんども駅周辺の施設に集中していた。緑の生い茂る公園内にいるのはその男一人というのに、男は妙に周りを気にしていた。忙しなく振られる首は誰かを探しているようにも見えた。
男の焦慮にかられた様子に洸は、背筋に嫌な汗が流れるのを感じた。
現在の状況を俯瞰する。

(……此処にはコナン君がいる)

否が応でも感じる世界観と無性にマッチする男の挙動に目が離せなくなる。生唾を飲み下し、固唾を飲んで男の動向を注視する洸に気付いたコナンも釣られて視線を転じた。

──刹那だった。


(う…そ……)


ドクンと心臓がひとつ高鳴る。洸はほぼ無意識に息を止めていた。
男の後方の茂みから別の男が姿を現した。ファー付きのミリタリージャケット、艶のある黒髪、相貌は伺えないが一瞬見えた横顔が男のプロフィールだった。
まさか、こんなところで、と巡る疑問はあまりに唐突なことだったからだ。突然すぎて、脳内で疑問符を並べることしかできなかった洸の前で、男はというと何かを彼に向かって言っていた。
恐怖と焦り、しかし憤怒の色も見られる顔は彼を血走ったまなこで凝視している。男の言葉を受けた彼は、緩慢な動作で懐から何かを取り出した。
ガタリとコナンが勢い立ち上がった。


同時に、音もなく男の胸に赤い花が咲いた。


「……え」
「ッ、クソ!」

時間にして一分あるかないか、その程度の出来事に洸は呆然とした。スローモーションのように崩れ落ちる男、それを見届けることなく踵を返して海浜公園を歩き去ろうとする彼、弾かれたように走り出したコナン。
情報を統合し、ようやく洸は我に返った。

「コナン君!待っ」
「刀海さん!」
「え…、え、え?!」

コナンを追いかけようとした洸の後方から聞きなれない声がした。名前を呼ばれ振り返った先にいたのは年若い茶髪の男性と、強面で黒髪を固めた男性。
少しばかり見たことがある彼らに呆けたのも束の間、走り去ったコナンの後ろ姿に洸は「すみません!」と告げると走り出した。
何故彼らがここに居るのか、という疑問すら浮かべる余裕もないほど洸の思考は、彼によって埋め尽くされていた。


(結城……!)




階段を降り、波の音が聞こえる浜辺近くまで全速力で駆ける。息が多少乱れているが、まだ余力がある身体を動かし、彼をそしてコナンを洸は探した。
立ち去った方角は潮風公園方面。公共交通機関で来たのか車かバイクで来たとか定かではないため、やみくもに探しても意味はなかったが、洸は無我夢中で二人の姿を探した。ひたすら道を走り、茂みに気を配り、動くものすべてを視界に収める。
結城を見つけた。その事実にいてもたってもいられなくなった側面がある一方、彼が握っていた鈍色の凶器と彼を追ってしまった小さな背中に、嫌な汗が全身から吹き出ていた。
想像力が人一倍あることが災いする。赤い花が胸に咲いた男のように、鮮血が舞う幼い身体が脳裏を過ぎり、洸は勢いよく首を振った。

(駄目、だめ、そんなのだめ…!)

握りしめた拳は汗ばんでいる。心臓は早鐘を打ち、ただひたすら焦りに支配された洸は「コナン君!どこ!」と震える声で叫んだ。
返ってこない声に不安が滲み、焦りは更に募る。意味もなく走り出そうとした足は、突如聞こえた爆音に止まった。

(今の、銃じゃない……)

まさかと、音がした方に全力で向かう。視界が開け、海面が見える海辺にほど近い場所に出ると、須臾に洸は叫んだ。

「コナン君!!」

視界に飛び込んできた光景に、出る限りの声で叫んだ。
飛び込んできたのは、凶器を手に持ちそれを前方に向ける男、結城と、片膝をつくコナン。靴に手を掛けているところを見るに、キック力増強シューズを使用した後のようだった。
洸の登場に二人の視線が互いから外れる。「来るな!」と叫んだコナンを無視して、彼を庇うように洸は男と対峙した。

「なんで!ここに来たらアンタはッ」
「いいから。後ろにいて」

有無を言わせず、コナンの前に立つ洸にゆらりと鈍色の凶器を構え直した結城が口を開いた。

「……何故ここにいる」
「こっちの台詞」

カチリ、と音がなる。鈍色のそれが陽光に照らされいっそう狂気の色を見せていた。
微かに凪いだ風が木々の葉を擦り合わせ、波はブロックにぶつかる。妙な静寂が流れた。
あまりにも唐突で、心の準備という生易しいものが決してできていない邂逅だった。二人の間に長くあったはずの友情が崩れ去って、はや数カ月。
ようやく巡り合った現場は殺伐としすぎていて、腰を据えて話すことは叶わない。

「結城」と、一歩前に出た洸が紡ぎ出す前に、彼の眼光が一際鋭くなり、視線が遠方に転じられた。物音というにはか細い音が聞こえ、二人の視線もそちらに取られると、あっという間に結城が背を向け、走り出したため視界から消えかける。
気づいた洸は追おうとした。が、直ぐにその足を止めた。その間に、結城の姿は見えなくなった。
一瞬の出来事に、しかし洸は平静を保っていた。
組織のネーム付きになっている男に追いつけるはずもない。その至極冷静な判断を下すことが出来たのは、後ろで苦虫を噛み潰したような表情をしている彼の存在があったからだった。銃口を向けられ、身動きを取れなくなっていた彼の姿はまだ鮮明に脳裏に焼き付いている。

「どうして、追いかけたの」

低い声が漏れる。振り向き、彼と視線を合わせることなく、ギリっとその華奢な肩を掴んだ。

「どうしてあんな危ないことをしたの!君に、君に何かあったらどうするの!」

腹の奥に抱えていた不安が、爆発した。絞り出すように、洸は叫んでいた。

──後少し遅かったら、どうなっていた。

想像に難くない最悪の未来に、筆舌に尽くしがたい罪悪感が洸にのしかかった。

「君に何かあったら駄目なの!君も、あの人も、みんな駄目なの!」

誰かの命が絶たれ、本来あるべき未来が変わってしまったらどうする。
自分がこの世界に来てしまい、関わってしまったことで物語が捻れたらどうする。
誰の責任でもない。そんなことは百も承知だ、だが此処は紛れもなく名探偵コナンの世界だ。世界を壊すことを神が望んでいるとでもいうのか。

──耐えられない。

もう、間違った選択で自責の念に駆られたくない。

「君に、君達に何かあったら私は、」

同じ人間として彼らを無くしても、キャラクターとしての彼らの未来を奪っても待っているのは果てしない後悔だ。
誰かと深く関わって、自分の他人を同一視して、互いを思いやって。
そんな関係性にハマってしまって、また間違えたら──

「──私は、自分を許せなくなる…」

選択の誤りでの悔恨をもう胸に刻みたくない。

力無い声音が風に乗って消える。吐露した赤裸々な心情は、彼女の言葉尻を窄めた。
膝をつき、うな垂れた洸の前で言葉を発しなかったコナンは、今度は逆に彼女の肩を掴み、その顔を上げさせた。


「アンタなら良いのかよ!」


鼓膜を震せる声量に、洸の肩が震えた。
困惑顔を浮かべる洸にコナンは畳み掛けるように続ける。

「自分なら何かあっても良いって、アンタそう思ってるだろ!」

叫ぶ彼の瞳には怒りの色が見えた。
コナンの指摘に洸は目を見開く。

聡い子だということは重々承知していたはずだ。人の行動と表情をよく観察する子だと。小学生ではない、中身は高校生探偵ということは理解していた。
己の心内を見透かされ、弁明することも叶わない。

「自分だけなら大丈夫なんてふざけたことを言うなら、俺はアンタを許さないッ。またアンタがひとりで行動して、傷つこうとするなんて俺はッ……」
「…コナン君……」

怒りの色に加えて見えたのは彼の悔恨だった。洸の両肩をギリっと歯を食いしばり、言い淀んだ彼は僅かにうな垂れ、言葉を絞り出すように紡いだ。

「俺はあの時躊躇した。洸さんが敵じゃないなら、それでいいって。秘密を暴いた癖に、俺は洸さんから遠ざかった」
「それは、仕方ないことじゃない…私はコナン君に関わって欲しくなくて……あ」

しまったと口を押さえた時には、既に探偵の目は洸を捉えていた。

「やっぱり、俺を遠ざけたかったんだ」

両肩に置かれた手が力なく下される。自嘲に歪んだ口元を見て、洸は「違うの、コナン君のせいとかじゃなくて」と必死に否定しようとしたが、言葉を連ねるほど空虚になる事実にすぐに閉口した。

「……分かってる。実際、俺はこの身体じゃできることが限られてる」

ひとり適切な言葉を探していた洸にコナンは、けど、と続けた。

「またひとりで傷つこうとするなら、俺は洸さんを許さない」
「……そんなの…だって、私は」
「悲しむんだよ、みんな」

悲哀の込められた声が耳朶を打ち、洸は顔を上げた。

「ひとりじゃない、蘭も園子も、元太、光彦、歩美、梓さん。皆、洸さんが傷ついて悲しんだ。洸さんの命は、洸さんだけのものじゃない」

そこにあったのは、探偵の顔とは別の顔で。顔を歪ませ、切に訴える相貌に胸の内が締め付けられる思いがして、洸は再び顔を伏せた。
また、だ。降谷零にも言われたことと全く同じ内容に、洸の顔に影が落ちた。

「そんなの…分からないよ」

──嘘、分かりたくないだけ。

「迷惑かけちゃいけないのに…間違ったら後悔するのに…そんなの…」

──傷つきたくないだけ。

身体に染み付いた生き方と思考は簡単には変えられない。独りよがりな生き方は彼女のこれまでの処世術だった。
迷惑をかけずに無難に生きていれば、後ろ指を指されることなく平穏に過ごせる。
誰かと深く関わることなく、嫌なことは見ないふりをして、自身が傷付いたとしても心は保たれる。
あの日、たった一度かけてしまった間違った言葉を撤回することができずに、永遠に分かれてしまった最愛の人を思い浮かべて、洸はかぶりを振った。

そうだ、間違ってはいけない。

誰かを傷つけて
二度と後悔をしないために。



「後悔しない生き方なんてないよ」



凛とした言葉が洸の鼓膜を震わせて、洸は息を飲んだ。「え」と、自然と声が出る。
拒絶し続けていた彼の言がするりと胸の内に入り込み、氷を溶かす心地を洸は感じた。
緩慢に彼を見つめた洸に、コナンが力無く笑みを浮かべた。

「後悔を重ねて、苦しんで、もがいて、けど必死に足掻いて。そんなみっともない事ばかりだよ、俺」

乾いた笑いが漏らされる。言葉そのものはマイナスのものだというのに、彼の表層に悲壮感はなかった。
彼から視線を外すことができない。「けど」と続けたその相貌には、固い意志が見えた。

「間違っても、後悔しても……それでもひとりじゃいけないんだ」

ひとりにさせない。彼の瞳はそう饒舌に語っていた。
強く、折れない意志が見える瞳に洸は釘付けになる。視線を外そうと思っても、叶わなかった。

「もし、また傷つこうとするなら俺は危険を冒してでも洸さんのところに行くよ」

嗚呼、そうだ。彼はそのような人間じゃないか。
灰原哀が自己犠牲を是とする時、彼はいつだって彼女の近くにいた。彼女を傷つける者から全力で彼女を守った。彼は、そのような人間だ。
改めて彼の人間性を理解した洸は、じくじくと痛む胸を無意識に押さえる。

関わってしまった、繋いでしまった関係の糸を自分から絶てば、彼らの前から姿をくらませば済む話かもしれない。
けれども、もうそんなことは許されないほど彼と、そして降谷零とも糸は絡まっている。絶てば追いかけてくることは間違いない。

「ずるいよ、コナン君」

上擦った声で紡いだ言葉が震える。
ひとりじゃない。こちらから手を伸ばさなくても、すくいあげようとする存在がある。
そんな事実を真正面から見ようとしてこなかった。認めてしまえば、それに縋ってしまえば、また後悔することになる。
理解していた、見ないふりをしながらも理解はしていた。

それでも、溢れる涙は未来の後悔より今の陽だまりを受け入れた。

「……ッ、泣きたく、ないのにな…」
「泣いちゃいけない理由なんて…ないよ」

瞳に張った薄い被膜は瞬く間に零れ落ちて、地面を濡らしていく。
伝えることができないことも沢山ある。秘すべき事項がある中で、それでも他者との繋がりを、また、彼らと向き合って紡ぐ。
流れ出る大粒の涙は、胸の内に穿たれた楔のようたった。


66


言葉の遊び リンク文字