降谷零の心中は穏やかではなかった。ひどく苛立ちの波が押し寄せていた。ふつふつと湧き上がる激情を表には出さなかったが、その腹わたの煮えくりかえり具合を察したのか目の前の彼女は視線を逸らした。己と視線が僅かに合わない程度に、絶妙に逸らされていた。
「君は俺の言うことを理解しているのか」
「……たぶん」
「理解していて尚、君は、ひとりで、結城亮と対峙したのか」
「……でもコナン君が危なかったので」
「自分が撃たれてでも彼を守ろうと?彼の目の前で自分が撃たれても構わないと?」
語気を強めて目を眇めれば、彼女、洸は声を詰まらせて閉口した。読みが外れていないのだろう。バツが悪そうにさらに視線が外れたため、降谷は長く深いため息を吐いた。
現在、降谷のセーフハウスに二人はいた。彼女が再び結城亮と接触した次の日という多忙極める日取りだったが、降谷はどうしても目の前の彼女に苦言を呈さずにはいられなかった。
「四六時中、君を監視するわけではないと言ったが、発言を撤回した方が良いか」
「や、まって待って下さい。今回は不可抗力というか、いや降谷さんが仰った通りなんですけど、でももう大丈夫というか?」
「何を伝えたいのか理解ができないんだが」
低い声音で睥睨すれば、洸は一度、視線を下げて思案顔になったが、直ぐに表をあげた。
「コナン君に言われたんです。私の命は私だけのものじゃない。傷つく人間がたくさんいるって」
眉尻を下げて困ったように笑う彼女の姿は久しぶりで。
今までの、どこか一線を引き、己の殻に閉じこもっていた様相から一転、彼女は憑き物が落ちたような面差しを降谷に向けた。
「自分が後悔したくないから人を遠ざけて、自分が傷ついて悲しむ人達を見ないふりをしてきたけど…結局、どちらにしろ後悔は付いてくるんだな、て気付いたんです。私が今から進もうとする道は、後悔しないなんて言い切れない」
自分自身を確かめるように、片腕を、もう片方の腕で掴んだ彼女は、硬い声で降谷に告げた。
「何が正解かは分からないけれど、でも、もう自分だけ傷つくなら大丈夫とか、そういう風に考えるのはやめます。ちゃんと、私自身が私のことを考えられるように、頑張ります」
「すぐには直せないかもですけど」と、困っようにはにかんだ彼女に、降谷は目を丸くした。
硬化した彼女の心にヒビを入れたのは、まだほんの子どもの彼なのか。
部下達の話によると、昨日、結城亮を追った後に二人の元へと赴いた部下達が見たのは、大粒の涙を流す彼女と、目を細めながらその様子をどこか安堵したように見つめる少年の姿だった。
江戸川コナン。恐ろしいほど頭のキレる小学生が伝えた言葉と想いが彼女の心に響いたのは悪いことではない。これで彼女は、自らを顧みない蛮行に走ることはなくなるとみて良いだろう。
真摯な言葉は人の心に響く。特に彼女は、他人から向けられる真っ直ぐな言葉に弱い。後悔したくないから自らを犠牲にする。それが新たな傷を他人に与えると知り、肌身で感じた今、彼女はこれから、厳しい道を歩むことになるかもしれない。
後悔しないとは言い切れない。自分が傷つく可能性がないのなら、他人が傷つく可能性がある。
それでも、彼女は結城亮を追うことをやめない。
「後悔か」
ふと、降谷の胸に痛みが走った。脳裏に散りばめられた光景に眉が潜められる。
深い悔恨は、何も彼女にだけあるものではない。
「降谷さん?」と首を傾げた彼女に「何でもない」とかぶりを振る。これは、今はいらない感情だ。
「分かった。取り敢えず、今後君が無謀な行動を取らないという前提で話を進める」
気を取り直し、降谷は、彼女が結城亮と接触した時のことを話し始めた。
「君が結城に遭遇した時だが、その前に君は俺の部下達に会ったな?」
「えっと……茶髪と黒髪のお二人です、よ、ね…」
「……なんだ今の間は」
「ッ、いえ!なんでも!」
一瞬、妙な間を置いて答えた洸に目を少しばかり眇めたが、勢いよく首を振られる。「続けて下さい」と促されたため、訝しみつつ降谷は話を続けた。
「君の監視に付いていた……というのは冗談だ。この世の終わりのような顔をするな」
「……してません。続き、どうぞ」
驚愕、動揺、絶望からの辟易。
百面相が拝めたところで何処と無く愉快な心持ちとなった降谷は、ひとつ咳払いをして、今度こそ本筋に入った。
「彼らは、殺された被害者の護衛についていた。あの被害者はウチの人間で、名前は武藤。組織犯罪対策部五課の管理官だ」
警察官の名が出たことに、彼女は驚きに目を瞠った。
「……警察官を結城が殺した…?というか、護衛ってどういう…護衛していたなら、なんであそこに二人がおられたんですか?もっと近場に…」
「そこが謎なところだった。そもそも、護衛を求めてきたのはその管理官だ」
「……わけがわからないんですけど…」
首をひねり、こめかみを抑えた洸に降谷は溜息を吐いた。
「こちらへ護衛を求めてきたので部下である彼らをわざわざ身辺警護につかせたにも関わらず、その警護を振り切ってひとりであの場に行き、奴と接触したんだよ、武藤管理官は」
嘆息した降谷に対して彼女は変わらず怪訝な顔つきをしていた。それもそうだ。降谷も部下から事情を聞いた際には同様の表情を浮かべた。
「身辺警護で付いていたのに、逃げられた…というか、その管理官はわざわざ結城にひとりで会いに行く必要があったということですよね」
しかし、すぐに彼女は目色を鋭くすると、思案顔となった。指先を顎に当て、降谷に指摘する。
「管理官は、誰に狙われているとかそんな話はされなかったんですか?」
「悪評がつきまとう男だったからな。恨まれる相手は数知れない。だが、自分を張っておいてこちら損はないと言ってきた。上の見立てで、結城に絡む可能性があると判断されたため、ウチで警護を引き受けたんだ」
「結城に絡む…?」
ぴくりと片眉を上げた彼女の前に、降谷はクリアファイルに保管していた写真を複数枚並べた。「これは…?」と説明を促す声と視線に、硬い声音で返す。
「武藤管理官の部屋のゴミ箱から見つかったものだ。破り捨てられていたものを復元し、写しとして取っておいた」
写真に映されているのは、一枚の用紙と、スマートフォン、どこかの喫茶店や駅構内の様子。
用紙の方の写真を見た洸がそこに記された文字を口にした。
「俺は…お前を見ているぞ……Y……」
結城、とアルファベットからイメージされた相貌を呟く。硬い声音に彼女の緊張が伺えた。
事実、管理官を射殺した人間の頭文字のため、それはごく自然なイメージだった。
「加えてだが、武藤管理官のスマートフォンに届いたメールがこれだ」
写真のひとつ、スマートフォンが映されたものを指さす。指した箇所をじっと見つめた洸はごくりと生唾を飲み込んだ。
「……此処にいる、て。これ、あの時の場所の地図。それに時間も指定してる」
「奴はわざわざ、自分がいる場所と時間を指定して、管理官に会いに来させたということだ。そして、……殺害した」
降谷の冷然とした声音に、殺人、という事実がより一層際立った。
結城亮による犠牲者はこれによりまた一人増えた。
その事実に、洸の顔に暗い影が落ちる。陰鬱な面持ちとなった彼女は、しかしひとつ瞬くと、落ち着き払った声で分析した。
「これだと、管理官の行動はますます不自然になりますよね。命を狙われていて、相手の場所もわかっているのに、わざわざ一人になった」
洸の見解に降谷は肯首する。
「そう。彼に来させるにしても、何も後ろめたいことがないなら何人かを付ければ良い。しかし彼はひとりで赴いた。しかも、銃を携帯してたそうだ」
「物騒ですね。というか、それだと逆に結城よりも…」
「殺意、という意味では武藤管理官の方がともすれば上だったかもしれないな」
洸の見方に降谷は肩を竦めた。
火のないところに煙は立たない。
善良な警察官ならば、秘密裏に銃を持ち出す案件は発生しない。単独行動を取り、相手に接触する必要はない。
きな臭くなってきた状況に洸が強張った表情を見せ始めた。
「手がかりになるか分からないが、破り捨てられた写真の中に気になるものもあった」
降谷が指差したのは、客で賑わう喫茶店と、人の往来がある駅構内の写真。どちらにも共通しているのは、武藤管理官が映されていることと、その管理官が年若い男と話していること。そして、明らかにその写真は、盗撮されたものということだった。
管理官が死亡したその日のうちに、降谷はこれらの写真を入手した。そして、写真に映る男性を『特定した』
「この男だが………どうした?」
写真を見た刹那、彼女はハッとした表情を見せた。
「………待ってください。これ、この人って」
「知っているのか?」
目を瞠った洸に降谷もまた驚きの声をあげる。
だが、彼女の説明に合点がいった。
「少し前に、クラブの記者の皆さんが話していたんです。取り調べでは保険金目当てで怨恨だと言ってたのに、現在は黙秘しているって。それで、どんな事件だったのか気になって、スクラップしてた紙面を引っ張り出した時に、顔を見て…」
現在の彼女の職場は公安総務の有崎課長が斡旋した、警視庁の記者クラブの事務員だ。事務仕事の一つに、関連記事のスクラップ作業がある。
奇しくも、その話題を記者達がしていたため彼女の目に男が留まることとなった。
「港区の資産家夫婦が息子に殺害された事件でしたよね」
「あぁ。容疑者となった息子は事件後逃亡。コンビニエンスストアの防犯カメラに映っているところを発見された。凶器のナイフから指紋も出ていた上に本人も自白したから直ぐに事件は解決したが」
「現在は、検察官の取り調べでも、弁護士との接見でも一切を黙秘している、と。でも、確かに捕まらなければ保険金は彼に降りてきていた、て」
「親子仲が悪かったという近所の人間からの話もあったから、怨恨からの保険金目当ての殺害の線は十分にあり得る。が、こうなると黙秘というのが益々引っかかる」
降谷は写真に映る二人を交互に見遣った。
武藤管理官と殺人事件の犯人が、密会している様子を撮影した写真。
それを出汁に、彼を呼びつけた結城。
「武藤管理官とこの犯人が、繋がっていた……?」
「武藤が人目を避けて、危険を犯してでも結城亮に会いに行った理由の鍵は、この犯人が握っているということだ」
さらに言えば、銃を携帯していたところを見ると、武藤は結城を殺すつもりで会いにいっていた。強い殺意が伺えるほど、犯人との接触が公にされるのは武藤にとって不都合な真実とみえる。
そして、結城亮はその不都合な真実の意味を知っているからこそ、武藤を釣り、殺害した。
兎にも角にも、本人に会わなければ話は進まない。
現状を俯瞰したところで、降谷は今後の行動を伝えた。
「俺はとりあえず、安室透として拘置所で面会してくる。君はクラブの方で組対担当の記者と接触してみてくれ。何かしらの情報を持っているかもしれない」
「分かりました。一応、少しだけ仲良くなった記者さんが担当だったはずなので聞いてみます」
では、と椅子を引き、鞄を肩に下げた洸が部屋を後にしようと玄関へと向かった。
既に時刻は夜の十時。女性の一人歩きは危険だが、指定の駅からの家路は部下の一人に頼んである。必要ないと突っぱねた彼女を、極上の笑みで黙らせたのは記憶に新しい。
『大丈夫ですから』
肩を落とした姿を思い起こし、降谷は、咄嗟に彼女の手を取った。唐突に止められた歩みに、洸からひしゃげた声が出る。
「……何ですか…いきなり」
「念のためにもう一度言っておくが、勝手に闇雲に危険に突っ込むなよ」
「降谷さんは私のこと何だと思っているんですか…」
「よく分からない珍獣レベルで行動が破天荒だとは思っている」
「………それ、降谷さんにも言えますからね」
「……ほう?」
眇められた目に、洸はびくりと肩を震わせながらも降谷に反論した。
「顔を使い分けて潜入捜査なんて、ごく普通の人じゃできないことをやってるんです。珍獣レベルなのは同じだと思いますけど」
「……君、本当はなかなか良い性格をしているよな」
降谷から思わずため息が漏れた。
呆れる降谷の相貌に、洸は少しばかりバツが悪そうにそっぽ向く。
「それも、降谷さんにだって言えますから」
憎まれ口を置き土産に手を振り払い、「失礼します!」と語気を強めた彼女の後ろ姿を降谷は見送った。タンタン、と遠ざかる足音を確認して部屋へと戻る。テーブルの上には、空になったコップが二つ分残されていた。
(本当は、か──)
良い性格をしている。自分自身で口にしながら、なんともおかしなことを口走ったものだと降谷はふと笑った。
どこか一線を引き、他人を踏み込ませない彼女。抱えている秘密がまだあることは承知しているが、それでも、垣間見える彼女の人間性に悪い気はしていないのは事実だった。
本当の自分なんてものはない。仮面を付け替えて生活するのは人間である限り避けられない。ペルソナは人間に備えられた社会適用するための装置だ。玉ねぎのように皮をむいていけば本当の自分が出るなんてことはなく、全てのペルソナが彼であり彼女なのだ。
ただ、降谷は勝気な相貌が垣間見えた彼女の姿に──
「──下らない」
感傷的になっている己の心内に短く舌打ちをする。
しかしながら、脳裏には、自分を正視する女の姿が残った。
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