ニュースキャスターが今日の特集項目を紹介している。重厚なBGMと共にテロップがフェードインした。タイトルは『選択 〜都政の未来〜』複数名の評論家が福祉、公共事業などの議題を論じている。十一日後に迫った都議会議員選挙に向けて各局が特集番組を制作し始めていた。
「……え」
昼下がりの喫茶ポアロでワイドショーを眺めていた梓から気の抜けた声が出た。丸い瞳は幾度も瞬き、その視線の先には洸が硬い表情を浮かべて彼女に向き合っていた。
「私、梓さんに…ううん、皆に嘘ついていたんです」
言葉とは裏腹に彼女の視線はひどく真っ直ぐ梓に向けられている。その佇まいに梓もまた居住まいを正した。
休日の昼下がり、店内にいるのは梓と安室、客として来たコナンと蘭、園子、そして灰原哀。
「嘘?」と目を丸くした園子に洸は頷くと、ひとつ息を吐いて述べた。
「私ね、記憶喪失じゃないの。何も分からないとか、全部嘘」
しん、と空気が静まる。広がった静寂に洸は頭を下げた。
「騙してて、ごめんなさい」
しっかりと告げられた謝罪の言葉。しかし、その声は微かに震えていた。微弱だが、握り締められた拳も震えていて。
胸の内に留めていた嘘を曝け出した彼女の心臓は早鐘を打っている。
しかし、ただ頭を下げ、その身いっぱいに懺悔の念を湛えている洸に初めにかけられたのは、場にそぐわぬような軽い声音だった。
「なぁんだ、そんなことですか」
あっけらかんとした声に洸の目が大きく見開かれる。ぽかんとした表情で顔を上げれば、快活な笑みを見せたのは園子だった。
「なんとなく気づいてましたよ、そんなこと。ね?蘭」
「……うん。だって、そんなマンガみたいなことあまりあることじゃないですし、ね」
眉尻を下げて柔らかに笑む蘭に園子が「ね!」と同意する。
二人の言動に、コナンも肩を竦めた。
「なんか事情があるんでしょ、洸さん」
「記憶喪失なんて見え透いた嘘、普通の人間なら気づくわよ。バカじゃないの」
辛辣な哀の言葉にコナンが苦笑する。ツンとした態度とは裏腹に、底に見えるのは限りない優しさだった。
驚きに目を瞬かせ、呆けていた洸に梓が微笑みかけた。
「……言ったじゃないですか、洸さん」
「え」
「洸さんのことは全然分からないかもしれないけど、でも、どんなことがあっても、洸さんのことを投げ出したりしないって」
『力になれるか分かりませんけど、本当に辛い時は言ってください』
──ああ、そうだ。
『絶対に、投げ出したりしませんから』
いつだって、彼らは純粋に、人を見ている。
そんな当たり前の事実に、洸は胸の内に熱いものがこみ上げるのを感じた。
記憶喪失が虚言だったと彼らが知ったのは間違いなく今だ。それがひどく突飛なことでも、疑義を挟むのは普通は憚られる。疑うほど相手を知らない状態では、それが虚言かを問うことは難しい。
であるからこそ、記憶喪失か否か、という問題は彼らの中では、至極どうでも良い事実、にシフトした。
そんなことはどうでもよくて、ただ彼らはただ洸と共に過ごした。彼女という存在を肯定し、受け入れた。
「洸さんにどんな過去があっても、何があっても、私は洸さんの味方です」
陽の光のような眩しい存在だった。梓の言葉に同意する面々に、洸は己の勘違いを恥じた。
(一人だなんて勘違いしてたのは、私だけだったんだ)
寄り添ってくれる人間を裏切っている。そんな罪悪感すら一生に付すほど、彼らは洸が思っている以上に強く、そして…人間だった。
どこかキャラクターとして見てきた彼らは、紛れもなくただこの日常を生きている人間だった。
日曜日の夕方は平日からの仕事に備えて英気を養いたい時間だが、もう時期日が暮れるという時間帯に洸は客人を家に招いていた。
「意外だった」
座卓に置いた茶を啜り、ひと息ついた客人、降谷がぼそりと溢した一言に、洸は首を捻らせた。「意外?」とおうむ返しに尋ねる。
「彼らに自分のことを話すとは思っていなかった」
「あー…まぁ、詳細はお話しできませんけど。一応、親元から離れたいとか、ちょっとワケありな感じで濁しましたから」
「君の知っている情報を全て話せば彼らにも危険が及ぶ。妥当な判断だろう。だが、何故だ」
「……何故?」
「隠し通すこともできたはずだ。何故、彼らに話した」
降谷の瞳が眇められる。見定める視線に洸は瞬くと、視線を逸らして口元を緩めた。
「私、卒なくなんでもこなしてきたんです。それこそ、人間関係も」
声音には僅かな自嘲が込められている。細められた彼女の視線は在りし日の己に向けられていた。
なんとなく、で済む人間関係は世に星の数ほどある。なんとなく付き合って、適度に笑って、必要なら心にもないことを口にできる、洸はそんな人間だった。
洸のそれは処世術だった。与えられることのなかった無償の愛で学んだのは、人間は条件付きの関係を築く生き物ということ。加えて、最愛の人を最悪の形で裏切った過去は洸を他人との密な関係から遠ざけた。
実世界ですら極めて淡白な人間関係しか築いていなかった洸が、この世界のしかもキャラクターと出会い過ごす中で抱いたのは、圧倒的な疎外感だった。
こちらとあちら、知るものと知らないもの、誰が悪いわけでもない環境でしかし胸に積まれていったのは己という異物を世界に持ち込んだ神への嫌悪で。
しかし、そんなことを知るはずもない彼らに彼女は救われた。
「誰にでもなんとなくで接してきて、でも、そんな現状を変えたいって思えたんです。そのために、ちゃんと自分のケジメとして言いたかった」
例え、この世界が虚構で彼らが作られたキャラクターだとしても、自分の中に芽生えた感情は確かに胸の内にある。
「未練じゃないですけど、私を見て、私を思ってくれる人がいるなら、もう無茶できないなって。そう思える人がいるって幸せだと思うんです。だから、ありがとうも含めて言いたくて」
信じて、受けとめてくれる誰かがいる事実は何よりも希望になる。
「この先、悪い方向へ向かいそうな時に、自分を思う誰かの顔を思い浮かべることができたら踏みとどまれると思う……というか…なんか、すみません長々と話して」
滔々と己に言い聞かせるように紡いでいた洸は、降谷の視線に気づいて言葉尻を窄めた。
何を自分語りしているんだと、熱が集まる頬を冷まそうと俯き、湯のみの中で揺らめく茶面に視線を定めていれば、降谷がぽつりと溢した。
「彼らが君のストッパーというわけか」
消え入りそうな声で、どこか意味深に漏らした降谷に洸が首を傾げる。しかし直ぐに、ストッパーという単語を脳内で反芻してハッと息を呑んだ。
(……降谷さんにはいるんだろうか)
寂寞を感じさせる彼の面持ちに、洸は形容できない想いを抱いた。
降谷零を構成していた存在、宮野エレーナ、スコッチ、警察学校の同輩達は既にこの世にいない。
彼が何故国へ殉ずる覚悟を決めているのか定かではないが、洸が持っている彼の情報からすると、彼は今、それこそ命が危うい場面で踏みとどまることができる何かがあるのだろうか。
恋人はこの国。日本国のためならいかなる犠牲、それこそ己の命さえかけてもよいという覚悟を強く胸に刻んでいる彼にとって、未練は何になるのだろう。
そんなことを考えていたからなのか。洸は気付けば彼に口走っていた。
「降谷さんも、です」
「……は?」
己の名が出たことに、怪訝そうに眉を潜めた降谷に若干の後悔をしつつ、洸はぐっと踏み止まって続けた。
「ストッパー。風見さんとか降谷さんとかもなんです、梓さん達だけじゃなくて。私の大事な人リストに入ってますから」
──嗚呼、恥ずかしい。
言った矢先に後悔が飛んでくる。歯が浮くような内容だからこそ少々投げやりに伝えてしまったが、それでも若干の居たたまれなさが残った。
「いや…その、風見さんと降谷さんにも沢山迷惑かけましたから、その…これ以上迷惑かけないために無茶しないというか、そんな感じで…」
「……ふっ…はは」
しどろもどろになりながら、訳のわからない弁明を洸が述べていると唐突に降谷が吹き出した。
状況が飲み込めず、口をポカンと開けて降谷を凝視する洸に、降谷は笑いを収めると「いや、すまない」と一言謝る。
「君は想像以上に不器用な人だな」
「不器用…ですか」
「強気な物言いかと思えば途端に弱気になる。臆病かと思えば無鉄砲。見ていて飽きないよ」
「それは…あまり嬉しくないような…」
自分は珍獣か何かか。この会話は少し前にしたばかりだ。
複雑な心境になった洸に降谷は一度視線を外した。一瞬、惑うような憂いが見えた面差しに、洸が眉を潜めた刹那、彼はゆっくりと彼女に視線を戻した。
「君は……俺が、降谷零ではなくバーボンだと思ったことはないのか」
やたらと真剣な眼差しが洸を射抜く。まっすぐ向けられた視線は洸に問うていた。
「どういう…?」
「君が信用している降谷零は仮初めで、組織にいるバーボンこそが俺の本当の顔だと思ったことは?」
向けられた眼はひどくまっすぐで。
真意の分からない問いに洸はしばし思案した。
降谷零は洸が裏側を全て知悉していることを知らない。故の問いだった。
正義の味方かと思っていたら悪の手先で、いつかまた──
「『また』、裏切られるかもしれないぞ」
信じていたものは砂上の楼閣だったと突きつけられる痛みは、よく知っている。
再度その痛みを味わうかもしれないと、降谷の瞳は洸に可能性を示唆していた。
洸は一度視線を逸らすとひとつ目を閉じた。
彼の本来の顔が降谷零ということは、洸だけは理解している。それは、読み手として見てきた凡ゆる情報を元に判断ができる。
しかし、もしかしたら彼の目的のために、自分が切り捨てられるかもしれない。その可能性を捨てたことはなかった。大義のため、守るべき大多数のためなら、彼は例え迷っても少ない方を切り捨てる。
裏切られ、傷つくことがないとは断言できない。
「……大丈夫です」
それでも、だ。脳裏に蘇った彼との触れ合いに洸はかぶりを振った。「……大丈夫とは?」と一等険しくなった目色に洸が困ったように微笑む。
「確かにもう裏切られたり、信じていたものが覆るのは嫌です。でも、それ以上に……私自身が誰も信じることができなくなるのが、嫌なんです」
誰かを信じることは、尊くて、残酷だ。信じた先が良い結果とは限らない。
それでも──
「私は、私の選択を間違ったとは思いません。抱え込んで傷ついたことも、いろんな人に心配されたことも、降谷さんに引っ叩かれたことも。全部必要だったと思うから」
傷つくかもしれない、後悔が残るかもしれない。しかしそれを差し引いても洸は心に決めていた。
「だから私は、貴方を信じます。何があっても」
洸は、迷いのない瞳を降谷に向けた。真っ直ぐで、嘘偽りのない、真のこもった瞳だった。
降谷は、「そうか」と小さく呟いた後、しばらく口を開かなかった。胸中に何を思ったのかは、洸には分からなかった。
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