柔和な笑みと甘いマスク、少々抜けているところがあるような佇まい。安室透のカバーを全身に纏った降谷は東京拘置所の門をくぐった。
面会時間きっちりに入室した部屋にいたのは、やつれた相貌で虚ろな目を明後日の方向に向けている若い男だった。アクリル板で仕切られた向こう側でパイプ椅子に座るその姿は、ひどく打ちひしがれている印象を受ける。

「ずいぶんと疲れてらっしゃるようだ。大丈夫ですか?」

身体を案ずる声を作り、安室透が心配する素振りをみせる。
相手を労わる好青年の顔にしかし男は視線を合わそうとはせず、そこに誰もいないかのように虚ろな目を同じ場所に据え続けた。
事前の情報通りだ。一切の質問に答えず、黙秘を貫いている。

「食事もあまり摂られていないと聞いています。体に触るので、きちんと食べられた方がいいですよ。……あぁ、申し遅れました。僕の名前は安室透、しがない私立探偵です」

思い出したように名乗った降谷に、男は僅かに反応を見せた。ぴくりと震えた瞼に目を細め、降谷は仮面を被り直す。

「実は、少し調べたいことがあってお伺いしました。貴方が起こした事件に関して、少しお聞きしたいことがあります」

ストレートを繰り出す降谷に男が再び反応を見せる。恐る恐る視線が上がり、降谷と合わさった。

「ちなみに、『後ろの立会人は僕の友人ですから』、内容が他に漏れることはありません。ですから里見さん、話したいことを話してもらって結構ですよ」


──武藤さんのこととか。


爽やかな笑みの下に公安警察官の強かさが垣間見える発言だった。
里見と呼ばれた男は降谷の言葉に今度こそ息を呑み、大きく目に見える反応を見せた。その視線は降谷から立会人へと転じたが、視線すら合わさない立会人にどこかほっとしたように息を吐いた。

「………貴方は何者ですか…」
「ただの私立探偵ですよ。名刺にも書いてあります。ただ、里見さんがこちらにきてから黙秘を貫かれていると聞いていたので、友人に『この部屋での一切を記憶しないでくれ』と頼んだだけです」
「……貴方は、俺が話さない理由が分かっているんですか」
「いえ、明確な理由はわかりません。が、他人に口外してはいけない、何かの理由ができた。だからこそのこの状況だとは思いました。報道の通りのただの怨恨と保険金目当ての殺人なら、今ここで黙秘を貫くのは不自然ですから」
「食えない人だ。あの人…武藤さんのことを知っているなら、あらかたのことは分かっているんじゃないんですか」
「その武藤さんが、先日殺されました」

再度、里見が絶句した。たっぷり三秒は置いて、里見はひどく狼狽した様子で口走った。

「そんな…っ、そんな、そしたら…俺は…いやあいつはっ!どうすればいいんですかっ、どうして!どうしてそんなっ」
「里見さん?」
「俺はあいつのために、あいつを助けると聞いていたからっ、なのに、なのにっ!」

拳をテーブルに叩きつけて叫ぶ里見に降谷は「里見さん!」と声を荒げる。里見はびくりと肩を震わせると、ばつが悪そうに「すみません」と頭を下げた。
降谷は里見の様子に確信を持つと、彼を見据えて尋ねた。

「……里見さん、貴方は武藤さんと何か取り引きされたんじゃないんですか」

真意を問う鋭い瞳を向けられ、里見が押し黙る。息が詰まるような眼光に、里見は視線を左右に揺らして逡巡したが、結局、がくりと肩を落とした。

「貴方の力になります。だから、話してもらえませんか」

目元を僅かに緩めた降谷に里見は重い口を開いた。


里見哲には弟がいた。否、正確には、いる、のだ。しかし、里見は弟の顔をもう何年も見ていなかった。
幼い頃、両親を事故で亡くした里見が引き取られた先は、遠縁の親戚だった。親戚には子どもがなく、二人は揃って引き取られる予定だったが、弟だけは引き取られることはなかった。
弟は重度の呼吸障害を抱えていた。入退院を繰り返し、医療ケアが必要とされていたため、親戚は弟の面倒まで見きれないと里見だけを連れ帰った。金の面で親戚が面倒を見きれないはずはなかったが、里見にはどうしようもないことことだった。
親戚は里見を引き取りはしたが、愛情を持って育てたかというと違った。
親戚には子がいなかった。資産家の彼らは子ができることで時間を取られることを嫌った。そのため、ある程度年がいった、さらに言えば手のかからない人形が欲しかった。
親戚にとって里見は都合の良い子どもだった。分別のつく年の子ども。面倒を見ずとも金を与えれば自分で運用する。
里見は親戚達に弟への援助を頼んだ。医療ケアのために専門のNPOと公的援助がなされていたが、家庭があれば親が担っていたそれを負担しているのは、養護施設だった。専門の職員が不足している中での限界がいずれ見えてくる。
里見の願いに、親戚は冷笑を浮かべ言い放った。

『何のために』


「……許せなかったんです。ただ、自分達の世間体のために俺を引き取り、弟を見捨てたあいつらが……少しでも、きちんとしていれば弟もいずれ引き取ってくれると思っていた自分の浅はかさが…許せなかった」

拳を握りしめ、絞り出すような声に滲むのは深い悔恨だった。深く俯き、相貌が分からずとも伝わる、後悔。己の選択によって、大切なものを手放してしまった男の筆舌に尽くしがたい激情が降谷にひしひしと伝わった。
しかし、降谷は至って冷静な声を保った。

「……だから、殺したんですか?」

降谷の問いに「そうです」と冷淡な声で答えた里見は、尚、昂ぶる感情を露わにした。

「弟のために俺は何もしてやれなかった…!弟を捨て、自分達のために俺を引き取ったあいつらを殺せたらそれで良かった…武藤さんは、弟の医療ケアの費用は出してくれると…だから、俺は…」
「しかし、殺したところで弟さんが救われるかは分からない。武藤さんが約束を反故にする可能性も…」
「だからなんだってんだ!!」

室内を震わせる怒声が降谷の鼓膜を激しく揺らした。ピクリと微動した降谷は、俯けていた顔をゆらりと上げた里見に息を飲んだ。

「アンタには分かんないんだよ!あいつは俺の………たったひとりの弟なんだよ!」


──兄さんがいるんだ。


脳裏に鮮明に、在りし日の思い出が蘇る。急速に身体の芯から冷える心地がした。
助けたい、救いたい、それがどれほどの罪であることでも、どれほど己が罰を受けようとも、ただ、たった一人の大切な──

「……事情は分かりました」

ひとつゆっくり瞬き、瞼の裏に映った友の顔を振り払うように目を開ける。
犯行の動機は理解できた。弟の治療費のためだが、根底にあるのは資産家夫婦への怨恨のため、現段階での捜査もあながち間違ってはいない。
しかし、であればこそ不可解だ。

「なら、何故黙秘を貫かれているんですか。貴方は警察への取り調べで、武藤さんが弟さんの治療費を出すことは伏せて、保険金目当ての怨恨とだけ伝えたはずです」

黙秘すれば怨恨以外の可能性が浮上する。事情があるのではないかと探られ、結果、弟へと繋がれば武藤が黙ってはいない。

「……留置場にいた時、武藤さんの部下という警察官がやってきたんです」
「……部下?」

怪訝な顔をした降谷に、里見は頷く。

「その人に言われたんですよ。検察を上手く垂らし込むから、今はまだ何も話すな、て。てっきり、武藤さんはちゃんと俺のことも考えてたのかと思ったのに」
「待って下さい。武藤さんの部下がわざわざ来たんですか?」

再度頷いた里見に、降谷はしばし思案する。
このままいけば、武藤にとって都合の良い展開だというのに、わざわざ武藤の部下が来た理由。そこに、結城亮の存在を掛け合わせ、降谷は、ひとつの可能性に行き着いた。

資産家夫婦が殺害された事件は、組織の末端構成員を結城亮が始末した時と同時期だ。そしてその後、結城亮は暫く洸と接触をしない期間があった。
拘置所へ移送されるタイミングで武藤の部下として黙秘するよう嘘の言伝をすることで、検察へと身柄が移った後に再度検察が事件を洗うように仕向けた。
管理官である武藤自身は下手に動けない。接触できないことを見込んで、わざと嘘の情報を与えたとしたら。

(……結城亮は、武藤の本当の目的を知っていた)

その目的のために、目の前の哀れな男は利用されたに過ぎない。

「……俺は、どうすればいいんですか」

生気のない顔貌で諦念を込めた笑みを作り出した里見が、降谷に懇願するような目を向けた。

「どうすれば、弟は助かるんですか。どうしたら助かったんですか。今あいつがどうしてるかも、どうなるかもわからない…こんなはずじゃ」

憔悴し切った里見は、ひどく弱々しく見えた。
結城亮が里見に接触しなければ、里見は保険金殺人と怨恨という目的で法の下で裁かれただろう。情状酌量で刑も重くならず、模範囚として刑期が短縮されたかもしれない。
武藤がきちんと約束を守れば弟のことも安心だ。何ひとつとして里見に不都合はなかった。
しかし、それは仮定の話だ。

「……今僕が言えることは、里見さん、貴方はいかなる理由があっても、人を殺すべきではなかった」

安室透の声音で、しかし降谷はぴしゃりと彼の言を切った。弱っている男に追い打ちをかける仕打ちだと承知で、降谷ははっきりと答えた。

「弟さんのため、と貴方は言いましたが、それは本当に弟さんのためですか」
「……何を」

狼狽する里見に、降谷はひとつ間をおいて問うた。

「それは、貴方のためじゃないですか、里見さん」

降谷の言葉に里見は目を瞠る。その相貌に降谷は確信を持った。

「誰かのためという言葉は麻薬のようなものです。特にそれが弱者に対しての言葉ならより一層周りに同情心を植え付ける。でもね、里見さん、そこには必ず、言葉を発した本人の願望が含まれるんです」

絶対的な利他性はこの世に存在しない。人の意識が、人の意思決定が行動の基になる限り、そこには必ず利己性が介在する。
こうあってほしい、こうありたい、その願望が人の行動を縛る限り、誰かのためという言葉は行為の免罪符にはなり得ない。

降谷は、静かに、しかし硬い声音で里見に告げた。

「貴方は、貴方の過去の過ちから逃げたかったんじゃないですか」
「何を…」
「大切な弟さんを守れなかった、救えなかった罪悪感を消すために、犯罪に手を染めた。弟さんを大切にする気持ちは確かにあるでしょう。しかし、それは免罪符にはならないんです」

里見哲は確かに不遇だった。両親を亡くし、最愛の肉親である弟とは生き別れ、引き取った保護者達は里見を愛さなかった。
目の前に、自分の罪悪感を消し去り、弟を救う餌が垂らされれば、容易に食らいつくことが想像に容易いほど、彼は不遇だった。

しかし、それが免罪符になることは決してあり得ない。

「仮に武藤さんが殺されなかったとしても………貴方の心は、本当に救われましたか」

罪悪感を抱えながら、内にある痛みに悶え苦しみながら、人との関わりに傷つきながら、己の決定は須らく己のものだと、その責任は自分が持つものだと体現した人間を降谷は知っている。
悩みながら歩き、自分の足で答えに辿り着いた人間を知っているからこそ、降谷は里見に問えた。

「……わか、らないです。分かりません」

里見は、大粒の涙を零しながら静かに応えた。どこか諦めにも似た表情を浮かべながら、「けれど」と前置き、降谷に顔を向けた。

「弟に助かって欲しくて、それは本当なのに、俺……俺は、どこかで誰かに許して欲しかった…、弟を手放してしまったことを、俺は…だから、ぁ……あぁ…」

アクリル板越しに里見は泣き崩れた。嗚咽をあげ、泣き伏す里見を降谷は静かに見つめた。

初めは、ただの願いだったのだろう。最愛の弟と共にいたい。そんなささやかな願いは断ち切られ、その罪悪感が願いを狂気に変えた。
ある者はこの境遇に同情し、罪を軽くするよう訴えるかもしれない。もっと言えば、罪そのものを問わないように訴える者もいるだろう。
しかし、罪に対して罰が降らないほど、『非情なこと』はないのだ。特に、彼のような、普通、の人間なら特にだ。
自罰によって苦しみ続けることほど、ひどく残酷なことはない。

「……弟さんのことは、里見さんのことを伏せつつ、然るべき機関に相談します」

泣き伏す里見にそれだけを告げると、降谷は席を立った。
無言で立ち去ろうとする降谷の背中に、「探偵さん」と、声が掛かる。

「……よろしくお願いします」

それは、万感の願いが込められた、兄の声だった。
降谷は硬く目を瞑ると、声に応えることなくそのままドアノブを回し、面会室を後にした。


早足で拘置所を出た降谷は、数十メートル離れた歩道でスマートフォンを取り出した。画面をタップし、目当ての連絡先を見つける。
数コールの後、相手はすぐさま電話に出た。

『何でしょうか、降谷さん』
「至急、武藤の口座の金の流れを調べてくれ。今年度の分だけでもいい」
『今年度だけ、というと例の事件絡みですか』
「……それだけじゃないだろうがな」

『は?』と怪訝な声を漏らした部下に、「いいか、頼んだぞ」と用件を伝えるだけ伝えて、一方的に電話を切る。重苦しい空気が肺いっぱいに広がり、思わず長く溜息を吐いた。目頭を押さえて、深く目を瞑る。
当時、現役だった警察官の殺人教唆という事実。武藤の性格から考えて、可能性として浮上するのは、金だ。利権がらみの何かが起きている。
そしてそれを知っていた結城亮は武藤を殺害した。

(……有崎課長は、どちら側か)

この事態を予見していたかのように、武藤の身辺警護を任せてきた食えない男の顔が浮かび、次いで、暗闇の中に彼女の姿が見えた。

「……すまない」

どす黒く、汚泥にまみれた組織の不祥事に否応無く巻き込んでしまった彼女に、降谷は、誰にかけるでもない謝罪を口にした。


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