虎ノ門から乗り換えを経て数十分。指定された個室の居酒屋までの道すがら、何台もの選挙カーが通りを行き来していた。国政選挙が近くなると見られるありきたりの光景に、都民は辟易したように車を見遣る。右翼の街宣車顔負けの音量で空気を揺らし、耳障りの良い言葉を連ねるだけのハコモノのスピーカーに価値はないと言わんばかりに、今日も街行く人々の関心は明後日の方向にある。自分達の生活を決める一大イベントだというのにその実感がわかないのは、民主主義の名の下にポピュリズムを蔓延らせた政治の責任か、或いはそれに甘んじる民衆自身の堕落が原因か。
考えたところで答えの出ない、否、無意味な思考に首を振り、風見は目的地へ辿り着いた。赤い暖簾をくぐった先、こじんまりとした店内はカウンターとテーブルが数席あるだけだが、風見の顔を見た店主は「どうぞ」と口元を一切緩めずに視線を階段へと一度遣った。
一度軽く会釈をした風見は二階へ続く階段を登る。登った先にあったのはひとつしかない個室で、襖を開けた先の掘りごたつに座っていたのは、メニュー表とにらめっこしている彼女だった。
「お疲れ様です、風見さん」
風見に気づき、片手を上げた彼女の真向かいに座る。ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めると同時に襖が開くと、でん、とテーブルにグラスが二つ置かれた。
「とりあえず、生で良いですか」
「良いも何もないでしょう…」
自分が来る時間に合わせて、ちゃっかり飲み物を注文していた彼女に嘆息すれば、彼女は眉尻を下げた。「早く始めたくて」と弁明にならない弁明を述べたところで、二人はグラスを付き合わす。
仕事帰りの一杯、同僚との飲み、というありきたりなシチュエーション…ではない。
「それで、いきなりなんですか」
──二年前の事件を知りたい、だなんて。
風見の問いに、彼女、刀海洸は、ビールを一口飲むと口を開いた。
風見裕也が、洸から連絡を受けたのはその日の正午のことだった。聞きたいことがある、との連絡が最初にあり、次いで内容の詳細を聞けば、二年前のある殺人事件を知りたいときた。
警視庁の記者クラブの事務員をしているため、記事そのものは容易に見つけることができたらしい。
『港区公園に男性の遺体 現場に拳銃』
事件が紙面を賑わせた原因は、これが単なる殺人事件ではなく、現役警察官が容疑者として浮上した、という点だった。容疑者の身柄の拘束からはどの紙面も第一面で報じ、連日、事件関連の記事は続いた。
事件が発生したのは、二年前、秋風が肌に染みる季節のことだった。港区公園にて六十代の男性の遺体が発見され、後にそれが拳銃での銃殺と判明。スジものとの関わりのない民間人が銃殺されるという事態となったが容疑者はすぐに浮上した。
「それが、幸村光輝巡査だった」
グラスについた水滴が一つ落ちた。
幸村光輝巡査は組織犯罪対策部五課に配属された若手警察官。性格は温厚で、警察官とは思えないほど柔和で落ち着いた佇まいの男だった、というのは元同僚の言葉だ。
「同僚は、彼が犯人のはずがない、と口を揃えたらしいですね」
「まぁ、それも数日後には覆っていたらしいですけどね」
「え?」
「今思えばストレスを抱えていたかもしれないとか、いつも笑っていて何考えているのかわからない不気味な男だった、とか」
「なんですか、その手のひら返し」
眉根を寄せた洸に風見は肩を竦めた。
「理由はわからないですが、同僚の証言と複数の目撃証言、そして状況を鑑みて幸村巡査以外の犯人は消えました」
「でも、犯行に使われた拳銃からは彼の指紋は見つからなかったんですよね?警察で使われている拳銃と同型の物が使用されましたけど、それも幸村巡査のものじゃなかった。なのに、こんな見込みだけで…」
グッ、と洸は拳を握りしめた。納得いかないと表情が彼女の心内を伝えている。
「決定的だったのは目撃証言です。複数人の証言が一致していた。指紋なら手袋をすれば良いし、硝煙反応の検出をするには遅すぎた」
「身柄の確保は二日後だったからその間に消えている、でしたよね。でも、証拠云々以上におかしいんですよ、これ」
バッグの中から、複数の記事のコピーを出した洸がある箇所を指差した。
「この通報したの、幸村巡査本人なんですよ。発砲音がして音の方向に向かったら民間人が倒れていたから救急車呼んで、本部にも連絡入れてるって。犯人が彼ならこんなことするはずないのに」
「……第一発見者が犯人ということは、ないことではありませんから」
「けど、死亡推定時刻と幸村巡査が消防に連絡入れた時間に差はなかったということは、殺されて直ぐに巡査は動いてますよね。自分が犯人なのに、証拠の隠滅とか、目撃者の有無とか確認せずに連絡を入れるでしょうか、しかも、本部にまで」
「……何が言いたいんですか」
硬い声音で洸の言葉を切り、風見は彼女を正視する。
刹那、彼女は、口の端をキュッと結んだ。目が泳ぎ、先を言い淀むように口をまごつかせたが、おそるおそる開いた。
「この巡査の死が、どうしてもひっかかるんです」
「何故」
「……クラブで聞いたんです、この人が武藤管理官の部下だったって。何人かの記者の間では、彼の亡霊が殺したんじゃないかとか、そんな噂まで立ってるくらいです。あと、興味本位でつつくもんじゃないとか言われたし」
「つつく?」と怪訝な声を出した風見に、彼女はコクリと頷いた。
「ベテラン記者の一人に興味本位でつつくなと。管理官殺しの件と自殺は無関係だって」
洸の返しに風見は思案顔を浮かべた。
興味本位で、というのは理解できる。殺害された武藤管理官の元部下だったという理由だけで自殺した警察官のことを追うのはただの興味本位と取られても仕方がない。憶測でしかない動きだ。
件の事件においては、当時の捜査本部でも幸村巡査の犯行説が濃厚だった。犯行動機が不明とのことだったが、心的トラブルを抱えていた可能性有りとの報告が上がっていたので、突発的な犯行だったという見方も出ている。しかし、当の本人が亡くなっているため、事件の詳細を確かめる術はもうない。
(ただ、気になるな)
しかしながら、それが無関係だと彼女に念押しする理由が分からない。いち記者が、たかだか事務員の小娘にわざわざ忠告とも取れる物言いをするとはどういうことか。
「それを忠告してきた記者の名前は分かりますか?」と風見が問えば、彼女は直ぐに「烏丸という方です。東都新報の」答えた。その答えに風見の脳裏に男の顔が浮かんだ。
「あの強面の記者ですか」
「知ってるんですか?」
「スジ者顔負けの強硬派の記者だと有名ですよ。ガサ入れ現場にも駆けつけたことが何回もある。組対の捕り物のネタは逃さないし、何より情報が早い」
厄介な記者という印象が強いが、強硬な取材姿勢と情報の早さとは裏腹に、警察組織に厄介になるようなネタの出し方をしない記者でもあった。
「ちなみに、彼も記事を書いていましたか?」
風見の問いに洸がバッグから資料を漁る。付箋のついた束になったペーパーを出して、ペラペラと捲っていき、「ありました」とそのうちの一枚を差し出した。
「犯行翌日の紙面と……容疑者の身柄確保の記事ですね。後の捜査状況も」
「事件記事はネット速報でもいち早く上げていますね。あと、身柄確保は他紙より早い…」
「どんなルートで情報入手しているんですか、この人」
半ば呆れている洸に対して、風見は以前部の上司に、烏丸には注意しろ、と忠告されたことを思い出した。ぬらりと現場にも出て来きて、どこから入手したか分からない情報をもとに揺さぶりをかけて来る記者。
その記者からの、興味本位につつくな、という忠告。
違和感が風見の中をじわじわと侵食しつつも、記事を舐めるように見る洸に嘆息し、風見は「それで?」と尋ねた。呆けた顔を見せた洸に「聞きたいことは、これで終わりですか?」と続けると、彼女は、居住まいを正して風見を正視した。
「自殺した巡査と武藤管理官のことを調べたいんです。事件の被害者宅の詳細な住所とか、巡査の元の住所とか分かりませんか」
強い意志が込められた瞳が風見に向けられる。決して、興味本位ではない。真摯な瞳が真っ直ぐ風見を射抜いた。
彼女は真実を知るために凡ゆる情報を得ようとしている。
真相に辿り着くためには地道な情報収集が必要なことは風見自身良く分かっている。関係のない情報も多くある中、情報の海の中から真相に繋がる点と点を繋ぎ合わせて、それらを辿ってようやく掴むことができるのが、真実というものだ。それは決して、憶測や偏見で捻じ曲げられない。
事件の洗い出し、件の巡査の身辺調査、確かにそれは武藤管理官殺害に、ひいては──結城亮へと繋がる手掛かりになるやもしれない。
可能性にかけて、事実を積み重ねる。それしか、道はないことは風見も理解はしている。
が、だからといって安易に首肯することもできるわけではない。
「このことを降谷さんは知っているんですか」
ひくりと彼女の表情筋が動いた。固く結ばれた唇がおずおずと開く。
「知っている、というのは」
「また一人で行動して危険なことに巻き込まれないか非常に不安だから聞いているんです。降谷さんが認知していない行動をされた中で何かに巻き込まれたら、こちらとしても非常に迷惑なので」
迷惑、という単語に彼女の肩が揺れる。叱れた幼子のように眉尻を下げた彼女はまるで弁明するかのように紡いだ。
「降谷さんの方には、夏前の事件…武藤管理官が接触していた容疑者にあたってもらってるので、こちらは私があたろうかと」
「一人でですか?」
「も、もし危ないようなことがあれば流石に引き返します。迷惑はおかけしませんから、」
「そこに、結城亮がいてもですか」
今度こそ、彼女の表情筋が完全に固まった。数秒、視線を彷徨わせた後、「それは…」と口籠もり、閉口する。その反応に、風見は以前降谷が話していた彼女の特徴を思い返した。
『曖昧な笑顔でかわすことはできても、嘘を吐くことができないんだ、彼女は』
そう語る上司の横顔は、呆れつつも、どこか嬉しげで、しかしその中にあったのは幾ばくかの不安にも思えた。複雑な胸中を吐露した相貌に風見はかける言葉が見つからなかったことを覚えている。
どこか自分自身のことを余所事のように扱っていた彼女は徐々に自身の身を顧みるようになっていった。自暴自棄になっていた頃と比べて、自分が傷つことによる影響を客観的に捉えることができている。
しかし、それが諸手を挙げて良いことかと言われると風見は素直に頷くことはできなかった。
自分が傷つけば、誰かが悲しむ。
それ故に、己の行動を省みるというのは結局のところは基準が他人だ。悲しむ人間が一人もいなければ、この行動規範は瓦解する。
彼女自身が、自罰的だということは実際のところなんら変わっていないのだ。
「結城亮を目の前にして、貴女は誰かの応援を待つことができますか。貴女自身が傷つき、誰かが悲しんだとしても、貴女は彼を追うと私は思います」
「それ、は…」
即座に否定できない。嘘を吐くことができない彼女の反応に、風見は深くため息を吐いた。
責める口調で問い詰めたところで、彼女はそれでも止まることはないということを、風見は降谷から聞かされていた。
強情で、無鉄砲で、扱いづらい。組織のことも降谷のことも知っているが故に野放しにもできない。
それでも──
『切り捨てられるべき人間ですから』
全てを諦めていたあの時と比べれば、幾分か今の方がマシだと、風見の口角が無意識に上がった。
「まったく、貴女は」と後頭部をガシガシかいた風見に、洸が身体を震わせる。「風見さん…」と懇願する瞳を向けられれば、首を横に振ることも叶わなかった。
「私は今、降谷さんから武藤の口座の金廻りを調査するよう言われていますので貴女に同行できませんが、部下の一人は付けさせるようにします」
「……すみません」
「謝る必要はありません。貴女がもし、彼に行き着いたとしたらこちらも好都合ですし、それに」
ひとつ、区切りを入れた風見に洸が首を傾げた刹那、彼は常に貼り付けている仏頂面を僅かに緩めた。
幾月か前、彼女と歩いた昼下がりの情景が脳裏に映し出される。
何故、警察官になったのか。その問いを自分に向けた彼女に、返した言葉が思い出される。
憧れ、羨望、さまざまな理由が綯い交ぜになっているが、最たる理由は──
「市民を守るのが、警察官の役目ですから」
微笑を浮かべた風見に、彼女は困ったように笑みを零した。
71