──少し飲み過ぎたか。
夜風に当たり、火照る身体を冷ましながら風見はくらりと揺らめく頭を抱えた。呂律が回らない、意識が朦朧とするほどではないにしろ、少々、気を抜いてしまったかもしれない。
肩の力を抜いて飲むということは久しかった。ここのところ、メスカルの件で慌ただしく庁舎内外を駆け回っていたため、帰宅も毎日とはいかず、心身ともにすり減っていた。故に、仕事の一環とはいえ、腰を落ち着けてゆったりとした時間を過ごせたことは貴重だった。
ふと、膝を付き合わせて飲んだ彼女の相貌を思い浮かべる。曖昧で、人と一線を画す笑みではない、あどけない笑顔で酒を飲み、風見の近況を聞く彼女の姿に、どこか安堵した自分がいた。
屈託のない笑みの方が、よっぽど似合っている。
──何を考えているんだ、俺は。
アルコールのせいで頭のネジが数カ所飛んでいる。正常な判断ができていない。酒のせいで甘ったるくふわふわした思考に侵されている。バシンと勢いよく両手で頬を叩けば、ジンジンと鈍い痛みが広がった。
どこか、彼女を放って置けない…そう感じているのは自覚している。だがそれは、恋慕とはまた違う。危なっかしい、目が離せない、言うなれば娘…は風見にはいないため、妹のような感覚だろう。
疑いの目に慣れすぎた彼女は必然的に他人と一線を引いてきた。もしかしたら、そもそも人との深い関わりを避けてきたのかもしれない。
だからこそ、少々危ない綱渡りをしようとしていても、自らの意思で風見と相対する彼女に、強く否定を紡げない自分がいた。危ないことをするな、と手綱を引きたい一方で、自由に駈けろと願う矛盾。
「甘いな、俺は」
怜悧な上司の相貌を頭の片隅に思い浮かべた刹那、スマートフォンが振動した。
自分の心を読まれていたのかと錯覚するほどのタイミングに大きく肩が揺れる。恐る恐る液晶画面を見れば、表示されているのはまさにその人で、さらに肝が冷えつつも「風見です」と硬い声音を繕った。
『遅くにすまない。例の件はどうなっている』
「はい。今は、武藤の口座の入金記録の方を先に当たっています。この五年間で不定期ではありますが、まとまった金がある企業から振り込まれています。調べを進めますが、恐らく、ペーパーカンパニーかと」
「金絡みなことが確定したな。その会社への出資記録を早急に調べてくれ」
「分かりました。……あと降谷さん、ひとつご相談が」
間をおいて神妙な声を出した風見に、『なんだ?』と、訝しげな降谷の声が答える。電子の薄板一枚隔てた向こう側の彼の声がワントーン低くならないよう願いながら、風見は無意識に小声で伝えた。
「実は、彼女がある事件を調べようとして、自分に情報提供を依頼してきまして…」
『は?』
風見の願いは秒で潰えた。ワントーンどころかツートーン低くなった声に肝を冷やす。
「いえ、その、降谷さんは里見の件で動いておられたので自分に依頼してきたものと…」
『……それは、いつ、どこで言われたんだ?』
「つい数時間前に居酒屋で。二年前の…当時、武藤の部下だった巡査が自殺した件について知りたいと。あの、港区の男性が拳銃で殺害された事件の容疑者です」
『あの事件か……で、何故彼女がそれを知りたいと?』
降谷の問いに風見は洸に聞いた内容をそのまま伝えた。
事の子細を聞いた降谷が電話越しに短く唸る。「東都新報の烏丸か」と、神妙な声音で呟いた降谷に「降谷さん?」と呼び掛けたが、明瞭な答えは返ってこなかった。
代わりに、『それで?』と地の底を這うような声音が風見の耳朶を打った。
「降谷……さん?」
『彼女と仲睦まじく飲んで、ほろ酔い気分で君は何をしているんだ』
言葉に棘があるどころか、棘しかない。さらにいえば、ほろ酔い気分というところは否定できないが、仲睦まじくは語弊がある。
「ふ、降谷さんは別件で動かれているのでっ、その、動く場合は部下を一人付けると伝えました!ので、問題ありません!」
弁明などする必要は何一つとしてないのだが、上司の威圧感たっぷりの声音に風見の判断力は著しく低下していた。仲睦まじくほろ酔い気分で飲んでいたという誤解を解きたい一心だった。
時間がやけに長く感じる。生唾を飲み込み、上司の言を待っていた風見の耳に、受話口越しに数秒置いて『はぁあぁ』と、盛大なため息が聞こえた。
──何だ、どうした、間違えたか…?
要らぬ不安に冷や汗がこめかみを伝った風見が「降谷さん?」と恐る恐る尋ねれば、『……いや、すまない』と拍子抜けな言葉が返ってきた。
『相変わらず、じっとしていることができない人だな、彼女は』
「……はぁ」
気の抜けたような声音になった上司に、覇気のない声になる。唐突な変化についていけていない風見に、降谷から更に驚く発言が飛び出した。
『……僕が同行する』
「分かりまし……今なんと?」
『僕が、同行する。彼女にはそう伝えといてくれ』
言い終わるやいなや、一方的に通話は切られた。ツーツーと妙に無情な音が耳に付く。
風見は深く嘆息すると、電源を落としてスマートフォンを胸ポケットにしまった。
「……疲れたな」
無駄な心労に再度ため息を漏らし、風見はトボトボと帰路へとついた。
*
秋も終わりに近づくと北風が肌に染みるようになる。厚手の羽織りを着た洸が向かったのは港区の中でも南東に位置する東京湾に面する場所だった。
行き交う車の車列の中に目立ったのは、大型の工事車両だった。近年、この近辺では開発工事が進んでいるらしい。狭い土地に人口を押し込むにはマンションが手っ取り早いため、高層マンションがいくつも建設されていた。
雑踏を抜け、スマートフォンの画面に視線を落とし、また周囲を眺めながら足を進めていく。画面上には、スクリーンショットで保存した写真が映されていた。写真と周りの景色を確認しながら進んでいく。
歩くこと十数分、漸く目当ての場所に辿り着いた洸は、眼前に広がる光景にぽかんと口を開けると、言葉を漏らした。
「……家、なくなってる?」
言葉をかき消すように、車の走行音が目の前を過ぎ去る。これは現実だと喧騒が伝えていた。
風見からの情報を元に洸が訪れたのは、港区の南東の一角。マンション需要が高まっているエリアで、それにより、人口過密地帯となった同地区は交通渋滞とそれに伴う事故が近年増えていた。
洸がスマートフォンを見ながら視線を外した際にもひっきりなしに車も人も往来していて、受けた印象としては、歩道も車道も狭い。
故にか、洸の前に現れた光景は、そんな土地ならではのものだった。
「ここか、例の被害者の家は」
目の前の現実に棒立ちになっていた洸の隣に、見目麗しい彼が登場した。唐突に、ではなく、事前に落ち合うことを電話連絡で申し合わせていたため、驚くことなく洸は、「はい」と頷く。
「なくなっちゃってますけどね、道路になってて」
大型のタンクローリーが、勢いよく目の前を通過した。
身寄りのない被害者の自宅。何かあると踏んだわけではなかったが、それでも、自宅周辺で近所の人間の話でも聞ければという程度の考えはあった。
自殺した巡査と被害者の繋がりは、本当になかったのか。偶々、彼はそこにいたのか。
一欠片だけでも良い。情報を得ようと訪れたは良いものの、結果として目の前に現れたのは、手掛かりとなるものは何一つとして無くなっていたという現実だった。
「道路渋滞だけじゃなく、事故防止の観点からも道路拡張は必要だが…まさか、この場所が拡張対象に入っていたとはな」
「被害者の方は身寄りがなかったそうですから、行政側が土地を買い取ったんでしょうか」
「最終的にはそうだが、先に不動産が買い取り、それを更に買ったかもしれない。まぁ、それはあまり問題じゃないだろう」
「そうですね……周りの土地も立ち退きにあってて、これじゃ、誰にも話を聞けません」
洸が風見から聞いた話では、被害者宅の周りには十数件の家が立ち並んでいた筈だが、軒並み立ち退きしたのか、一軒たりとも残っておらず、代わりに、高層マンションと広々として道路が広がっていた。大掛かりな土地再生事業があったことが伺える。
「都市整備計画の一貫なんでしょうけど、数年で結構変わるものなんですね……あ」
様変わりしたであろう光景に驚嘆を覚えていた洸は、ふと、気づきを覚えた。はた、と目を見開いた彼女に降谷が首を傾げる。「どうした」と尋ねた彼に、洸が徐に漏らした。
「ここもでしたけど、そういえば、夏前の事件も港区でしたよね…?」
二年前、件の巡査が嫌疑をかけられたのも港区での事件、そして、武藤管理官が絡み、里見哲が起こした事件もまた、港区の夫婦が刺殺された事件だった。
異なる二つの事件だ。関係性があるか分からないが、しかしどちらも同じ区内で発生している。
ぽつりと溢された問いに、降谷が思案顔になった。
「……あぁ。ここから数キロ離れたところでの事件だ。それが、何か引っかかるのか」
「いえ…そういうわけじゃないです」
覚えた気づきに、しかし洸の声は尻すぼみになる。現時点で、洸が目の前の状況から何かを推理推察することは不可能だ。
胸につっかえる異物感を抱えながら、これ以上の収穫はないと判断し、二人はその場を後にした。
国産のスポーツカーに乗る機会が二度も来るとは、洸は思っていなかった。更に言えば、それに乗り、颯爽と緑広がる空間を抜けるとは夢にも見ていなかった。
都心から車で三時間ほど。仮にも東京の一部である土地に、山々が広がり、渓流が流れる地域がある。その事実に洸は感嘆の色を隠せなかった。豊かな緑、さまざまな朱が鮮やかに山肌を彩る。窓から入る澄んだ空気は肺を満たした。
果たしてここは東京という名を冠する土地なのか。地元の片田舎と大差ない光景に胸に秘めた故郷の情景が蘇り、懐かしさに目を細める。
国産スポーツカー、降谷零と共にやって来たのは東京都の最西端。緑豊かな地域に二人で赴いたのには勿論理由があった。
「ここです」
スマートフォン片手にナビを担当していた洸がある集落で降谷に指示を出した。洸の言葉に車を止めた降谷は、適当な空き地に駐車する。車を降り、肺に清涼な空気を吸い込んだのは、抱えた不安の波を鎮めるためだった。
「不安か」
洸の緊張を悟っていたのか、降谷が問いかける。合わさった視線に込められていたのは、この先を行くかどうかの確認だった。「俺一人で行っても良いが」と続けた言葉を、言下に洸は拒否する。
「大丈夫です」
張り付いた足を叱咤して前に進める。点在する家々、細道が入り組んだ先の山の麓に、庭を構えた邸宅が姿を現した。家の表札を一瞥し、ひとつ大きく波打った心臓を落ち着けるように胸に手を置く。ゆっくりと目を閉じ、瞼の裏に映した彼の、追うべき友の相貌を見据え、インターホンに指を掛けた。
*
やけに静かなフロアに、烏丸洋一は眉間にさらにひとつ皺を刻んだ。常日頃から酷いツラだと言われている相貌が余計歪む。当の本人は他人からの顔面の評価など御構い無しだ。
「烏丸さん、顔怖いんスけど…」と恐る恐る声をあげたのは後輩の河村和成で、怯えた子犬の目を烏丸が睨めつければ、びくんと耳を震わせていた。
「なんスか、国松さんの事務所で何かあったんスか」
「お前の腑抜けたツラ見ると無性にイラつくんだよ」
「ひどい!」とキャンキャン喚く子犬に烏丸は嘆息する。
サツ担当というのは新人記者の巣窟となりがちだが、東都新報では中堅からベテランも据えて、新人記者を直に教育するために烏丸のような経験豊富な記者もサツに割り当てられていた。
子犬の面倒を見るブリーダーの役目だが、当の子犬に成長が見られず、毎日のようにパワハラまがいの対応をしてしまう。
「いいじゃないですか、俺、都政の方の泡沫候補ですよ〜。俺だって、国政有力候補のとこに行きたいです」
烏丸の渋面の理由が、選挙事務所で何かあったと断定した河村は、机に突っ伏して文句を垂れた。「違えよ、馬鹿」と傍らに立った烏丸は、各紙の紙面を一瞥し、紙面のトップを賑わせるネタを眺めた。
都議会議員選挙と国政選挙というダブル選挙となるのは幾年かぶりだ。この二つの選挙が重なるとマスメディアは大わらわとなる。国政選挙の班と都議会議員選挙の班に分かれてはいるが、なにぶん、数が多いためひとりの記者が持つ候補者の数が多い。候補者全てに『一応は』取材をした上で選挙の争点と展望を描いていくのだ。
基本的には政経班が動くものだが、サツ担当の烏丸と河村にも候補者が割り当てられているのは、単純に人手が足りないためだ。特に、烏丸は政経班の元臨時デスクだったともある。
河村が不満たらたらなのは、自分が有力候補、或いは、落とせない選挙区での取材に当たらせてもらえなかっただけではなく、落選一直線な泡沫候補ばかりを、しかも複数人割り振られたためだった。
烏丸はパシリと丸めた新聞で若造の頭を小突いた。
「ピーチクパーチク垂れてねぇで仕事しろ」
「うわ、ひどいパワハラですよ!も〜、こんなことなら俺も刀海さんと奥多摩に紅葉でも見に行けば良かった〜」
「……は?」
唐突に若造の口から漏れ出た名前に烏丸の眉間にさらに皺が寄った。
そうだ。妙な静けさの原因はそこだった。いつもなら事務デスクに座り、記者に茶を出したり、資料整理をしている彼女がいない。ここ最近、河村が鼻の下を伸ばしているマドンナの不在により、彼もまた今日はひっそりとしていた。
「泡沫候補なんて興味ないですよ。そんなとこ行くくらいなら女の子と紅葉デートに」
「今、なんっつった」
「え?……あ、すんません!興味ないっていうのは違くて」
「その前だ、馬鹿!紅葉がなんだって?」
「あ…あぁ、アレですよ。刀海さん、今日は有給とって奥多摩行かれてるんです。友達と紅葉見に行くとかなんとか」
「どうせなら俺が行きたかった〜」と情けない声を出す河村の言葉は、烏丸の耳に届いていなかった。渋面がさらに歪み、思案顔を浮かべる。
「……奥多摩」
ぼそりと低く呟いた烏丸は、足早に室内を後にする。「烏丸さん?」と声をかけた河村を無視して、胸ポケットからスマートフォンを取り出し、連絡帳から目当ての連絡先をタップした。無人の喫煙室に入り、コール音が三度鳴った後、受話口に出た相手に口を開く。
「……お話があります」
──国松さん。
影が落ちた暗い相貌は、隠微な色を見せていた。
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