──言うなれば、アイツとの出会いは運命だった。
都心での生活に疲れた両親が、都心から離れたちょっと片田舎。いや、片田舎というよりは田舎だが、それでも、取り敢えずは東京と名のつく地域。腐っても東京だ。その気になれば、車を数時間走らせたら都心に行ける、そんな田舎。
引っ越してきたのは小学三年生の時。学年につきひとクラスしかない学校で、二十三区内の私立小学校から来たなんて言えば、いやでも目につく。案の定、坊ちゃんやらなんやら、下らないあだ名が付いた俺は両親を呪った。こんなクソ田舎、なんて小学三年生にスラング混じりに言われた両親はかなり不憫だったと思う。
親には悪態をついていたくせに、学校での俺はひどく臆病だった。虚勢を張ってでも立ち向かえばまだ格好がついたかもしれないのに、俺は同級生の心無い言葉に、黙って俯いていた。一過性のものだ。黙っていれば、俯いていれば、いずれ興味の対象は自分から移ると信じて、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ日々。言い返さなくて気持ち悪いだって?何考えているんだ、だって?馬鹿野郎、俺だって──
『いい加減にしなよ!』
澱んだ空気を切り裂く凛とした声が教室内に響いて、空気を震わせたそれは俺の耳朶を打ち、そして心に届いた。意固地になって凝り固まっていた心臓に、温かい血流が行き届き始める。床しか見えていなかった視線が上へと移り、そして俺の視界にアイツが映った。
『黙ってるからって言いたい放題するなんて、恥ずかしいことなんだよ!』
張った声は少し高く、線の細い身体を目一杯使って俺の前に立つアイツは、側から見れば女顔の弱っちい男だったかもしれない。「うるせえよ、女男!」と小突かれたアイツは大きくよろめいて、あれよあれよと悪ガキグループに取り囲まれてしまったが、それでもアイツはひどく真っ直ぐな視線をそいつらに向けた。怯まない瞳の奥に、燃え上がる闘志が見えたのか、悪ガキ達は気味悪がってそそくさと退散していった。
呆気にとられた俺とアイツの視線が合うのは自然で。女顔負けの色の白い肌が映える相貌を破顔させると、アイツは宣った。
『もう、大丈夫だから』
ああ、これがヒーローってやつか。率直にそう感じた。
アイツはあの時、間違いなく俺のヒーローだった。臆病風に吹かれて縮こまっていた俺を身を呈して守ってくれた、ヒーローだった。
『僕の夢、警察官なんだ』
畦道を縫って歩く道すがら、アイツはキラキラした瞳を空へと向けた。けいさつかん。その言葉を舌の上で転がし、甘美な味を確かめるように紡ぐ。
警察官、それはアイツにとって一等特別なものだった。
無理だよ、お前じゃ。釣れない言葉を吐いたって、アイツはめげなかった。無理じゃない。無理だ。諦めないよ、僕。知ってる。諦めの悪さは人一倍だ。でも、アイツはひどく優しいのだ。優しすぎる人間は警察官に向いていない。人を疑って、監視して、逮捕するなんて仕事が向いてるやつじゃない。騙されて、利用される方がしっくりきちゃうようなお人好しなんだ。誰かを守るだって?馬鹿馬鹿しい。お人好しのアイツに代わって、疑う人間が必要に決まっている。
──嗚呼、なんだそうか。
ストン、と胸に落ちた決定事項は、無意識に口から滑り落ちていた。
『俺もなる』
目を見開いたアイツに、その瞳を見据えて、嘘偽りない言葉を紡ぐ。
──警察官に、なる。
それは、幼い日の小さな約束。小さくて、でも強い想いがこもった、かけがえのない約束。
*
線香の匂いが鼻孔を抜ける。しん、と静寂の中で、りん棒を手にして、二つ音を鳴らす。済んだ音が身体の芯まで届いた。両の手を合わせて深々と頭を下げる。一礼した後、台に置かれた写真に視線が移った。
「いい加減、写真もしまわないといけないんですけどね」
苦笑しつつそう言ったのは、家主の妻に当たる女性だった。頬と目尻の皺が年齢を感じさせる。五十半ばとみられる女性は、少しばかり疲労がたまっているのか目元に薄い隈が見られた。
「どうぞ」と、置かれた茶に一言断ってから手をつける。
「それで、あの子の……光輝ことについて聞きたいこととは何でしょうか」
女性の声は少しばかり強張っていた。
洸と降谷が赴いた先は、件の自殺した巡査、幸村光輝の生家だった。
事件が起きた前後、幸村巡査は実家に立ち寄っている。事件の報告書ではその事実だけは確認できたが、肝心の幸村巡査自身の様子などは紙面からは何も見えては来なかった。
二人は、事件の再調査、という名目で成果を訪ねた。生気のない顔の女性は幸村巡査の母親だった。
事件のことを口にした刹那、母親の顔から更に血の気が失せた。彼女が怯えたような瞳となったのは原因があって。咄嗟に降谷は穏やかな笑みを湛えて伝えた、「このことは誰にも口外しません。マスコミにも」と。
幸村巡査が嫌疑をかけられた当時、実家には連日のようにマスコミが押しかけ、野次馬根性の無法者達がたむろした。
想像に難くない現実を事前に知っていた降谷は、彼女に自分は敵ではない意思表示をした。傍に控えていた洸も彼女の瞳を見つめて頷いたことで安心したのか、母親は二人に家に上がることを許したのだった。
硬い声音で降谷に訪問の意図を訪ねた彼女に、降谷は安室透の顔で答えた。
「幸村光輝さん…息子さんは、あの事件が起きる前後で何か変わった様子などはありませんでしたか?」
「……あの時警察の方にお話しした通りです。事件の前に、親戚の三回忌があるから帰ってきて、その時は何もありませんでした。でも、事件の後に帰ってきた時は、暗い顔で……仕事が忙しいと溢すことはあっても、あんな、……憔悴しきった顔で帰ってくるなんてなかったんです…」
話すうちに当時の様子が思い起こされたのか、母親は詰まる言葉を絞り出すように紡いだ。
「あの子が人殺しなんて…警察官を夢見ていて…やっとなれたと…なのに」
堪えきれず嗚咽を漏らす母親に洸は膝の上に置いた拳をきつく握った。この二年間の苦しみはいかほどのものだったろうか。
「……幸村巡査は、最後に何か伝えられませんでしたか?」
苦しみを掘り返す行為に唇を噛み締めるも、努めて平静を保ち洸は問いかける。
母親は「特に、何も…」と答えたが、眉根を寄せた。
「ただ、変なことを言ってたんです。迷惑をかけられない、て」
「迷惑…?」
「はい。ひどく疲れ切っていて、それで心配になって主人と話を聞こうとしたんですけど、迷惑をかけるからいい、て……」
母親の言葉に降谷の眉がぴくりと揺れる。
「それは、息子さんがまだ容疑者として署に行く前、ですか?」
頷いた母親に、降谷と洸の視線が交錯した。
事件発生から容疑者となるまでの間、幸村巡査が憔悴した様子で実家へと帰り、親に、迷惑をかける、と伝えた。日頃の疲れが溜まっていたという同僚の証言を鑑みた上で一見すると、一般市民を銃殺してしまい、捕まる前に実家へと帰った。親の心配は、迷惑をかける、と拒否し、その後帰宅して署に連行された、という筋書きが出来上がるのは頷ける。
押し黙った二人の耳に、しかし届いたのは悲壮感に支配された母親の声だった。
「迷惑かけるから、て言って何も話してくれなくて。でも、いなくなるくらいなら話してくれれば…迷惑だなんて思っていないのに、どうして…」
身体の水分を瞳に一手に貯め、流し続ける母親の言葉は胸に詰まるものがあって。その姿に洸は己の思考に疑義を挟んだ。
迷惑をかける、という言葉の裏にある、真実があるのではないか。
「幸村巡査は、警察官になるのが夢だったんですよね?」
遺影に視線をやりながら問い掛ける。淵の中の彼は、ひどく屈託無い笑顔を浮かべていた。成人式の写真だろうか。スーツ姿で映る彼は少しばかり幼く見えた。
「えぇ…昔から本当に警察官に憧れていました。ウチの子はそんなに勝気な方でもないし、どちらかというと本を読む方が好きなタイプだったんですけど、色んな人を守りたい、と聞かなくて」
落ち着きを取り戻したのか、母親は涙をハンカチで拭うと、「少し待って下さい」と一言二人に断り、居間の奥へと姿を消した。
数分と経たずに戻ってきた彼女の手にあったのは、A4サイズのアルバムだった。
「あの子、学校に入校する時に、写真撮ってと子どものようにはしゃいでね。よっぽど嬉しかったんでしょうね」
一枚、一枚、捲られるページにいる彼はひどく輝いていた。晴れやかに、そして堂々とした立ち姿は、明るい未来を信じて疑わない少年のようで。
「いい笑顔ですね」と穏やかな笑みを湛えた降谷に母親も柔らかく笑む。
しかし、ひとつ、またページをめくった先で二人は息を飲んだ。
「ッ、え……」
「……あの、これは」
絶句する洸に代わり、降谷が母親に一枚の写真を指差して問いかける。その一枚に、母親は「あぁ、懐かしいわねぇ」と変わらない朗らかな笑みを零した。
「光輝のお友達なんです。幼馴染で、昔から一緒に警察官になろう、て言い合っていたんですよ。入校式の時も、二人で写真を撮りたいと聞かなくて。元気かしらね」
──亮くん。
仲睦まじく写真に収まる追うべき相手とその友に、二つの事件をか細い糸で繋いだ。
*
──亮はさ、警察官に向いてるよ。
晴れやかな笑顔で幾度となく言われた言葉だった。なる、ということは決めているのにいつまでそんなことを伝え続けるんだ。肩を竦める俺にアイツはにこにこと邪気のない笑みを向けてくる。
当たり前だ。俺は人を疑うことに長けている。相手を観察し、嘘を見抜くのは警察官に必要な素養だ。
──亮はね、人が良いんだよ。
斜に構えた俺にアイツはいつも真っ直ぐだった。真っ直ぐな瞳で宣うのだ。俺は人が良い、だって?馬鹿言うなよ。警察官になったのだってお前が鈍臭そうだからだ。人のため世のためなんて考えちゃいない。
──だからだよ。
だから、てなんだよ。
──亮は、優しいんだよ。だから、そうやって非情にならないんだ。
アイツの瞳は時々毒だ。ほわほわして、頭ん中に綿菓子でも詰まってんのか、と聞きたくなることが多いのに、時折、その微笑みの中に鋭く確信を持った力のある眼光を込める。アイツのそんな瞳に何度も射竦められてきた。
なんだよ、それ。
ツンとそっぽ向く俺に、やっぱりアイツは微笑み続けた。
*
茜色が蒼天を侵食していく。夕闇が近づいてきていた。
駐車場へと歩く道すがら、洸は幸村巡査の母親の話を脳内で反芻させていた。
「亮君はね、小学校の三年生の時に転校してきたの。うちの子とは随分と仲良しでね、ほんと兄弟みたいだったわ」
在りし日の二人を思い浮かべ、感傷に浸る母親に洸は努めて平静を保った。
結城亮。彼が幸村光輝巡査と幼馴染だったという事実に震撼しながら、洸の思考することをやめなかった。
咄嗟に口から出てきたのは「私、彼の友人なんです」という虚言。目を瞬かせる母親に「仕事でお世話になって、その縁で」と、更に重ねる。さらりと、息をするように出た言葉に、彼女の隣の降谷が僅かに目を瞠ったのに気づかない母親は、「そうだったの。今、あの子元気?」と巡査と同じであろ邪気のない瞳を向けてくる。
『えぇ、とても元気です』
洸は無感情の笑みを表層に貼り付けた。
「結城は、昔はどんな子だったんですか?」
心臓の音がやけに煩いというのに声音は平坦なもので。世間話のように問いかける自分自身がひどく恐ろしく感じられた。
「亮君はね、昔から変わらなかったわ。あの子、口数少ないでしょう?」
「それは、もう。言葉が足りなさすぎて言いたいことが分からない時があります」
「そう、変わってないのねぇ」
目元を緩め、写真に収まる在りし日の彼らを指先で撫でながら、母親は滔々と紡いだ。
「初めてうちに来た時もね、礼儀正しいけど口下手で、あまり気持ちを表現するのが得意な子じゃなかったんでしょうね。でも、光輝が楽しそうに紹介するのを見て良い子だってことはすぐに分かったわ。光輝は気弱な性格だったけれど、亮君に刺激をもらったのか、学校に入学する頃には逞しくなっていたわ…」
薄い紙一枚にポタリと雫が落ちる。ひとつ、ふたつと増えたそれは二人を濡らした。
「あの子が死んでしまってから、どうしていたか分からなかったけれど、そう……元気で、良かった…」
「幸村さん…」
「去年の命日の時や、彼岸の時、節目の時になるとね、私達以外の花がお墓にあるの。きっと、亮君だろうと思ってたけど、どうしてかこちらには寄ってくれなくて。でも……いつか、また顔が見たいわ…」
ひどく哀切が伝わる微笑みが、余計、痛々しく感じられた。
同じ過去を共有する彼と会い、空いた穴を少しでも埋めたいと願う母親の切なる願いに、洸はそれ以上、かける言葉が見つからなかった。
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