「何を考えている」

唐突に、洸の横を歩いていた降谷が低い声を出した。物思いに浸っていた思考を現実に戻し、「え」と目を丸くした洸に尚、声のトーンを変えずに彼は問う。

「結城亮のことを随分と気にかけているんじゃないのか」

妙に刺々しい口ぶりだった。苛立ちの見える声音に、洸の眉が上がる。「あの母親の話を聞いて、君は何を感じたんだ」と、含意のある口調で話す降谷に、洸は足を止め、彼を見据えた。

「結城は…幸村巡査の死の真相を知っていたんじゃないでしょうか。だからあんなことをしたのかもと…」

感じていた疑問を彼女は吐露する。
結城亮は、何故、武藤管理官を殺害したのか。理由がわからないまま此処まできて、そして知ったひとつの真実。旧知の仲、無二の親友。ずっと、共に過ごしてきた、たった一人の友人の死が彼を凶行へ突き動かしたとしたら。
洸の言葉に、しかし降谷はひどく怜悧な瞳を彼女に向けた。

「憶測の域を出ていない。奴は組織の一員だ。感傷的な理由で動くかどうかは分からない」

跳ね除けるような声音に、洸が思わず「けどッ…」と否定を紡ぎかける。が、言下に降谷はそこに強い口調で被せた。

「奴は人殺しだっ」

怒声とまではいかない、しかし、洸の耳朶を強く震わせる程度には声量のある声が、彼女の身体を硬直させた。肌を刺激する眼光に、洸の言葉は口内に留まる。

「いかなる理由があっても、奴は人を殺した。その事実だけは変わらない」

ぴしゃりと、洸の感傷を斬り伏せる強烈な現実だった。降谷の言葉に洸は何も言い返すことができずに俯く。
理解していた、しているつもりだった。それでも、心の奥底で違うと願う自分がいた。助けてもらった、支えてくれた、軽口を叩きあい、お互いの秘密を共有し、それでも、最後に突きつけられたのは、自分とは圧倒的に違う世界に住んでいたと言う虚しい現実。
血の匂いが染み付いている彼の本性を理解していても、それでも洸は、忘れることができずに可能性に縋っている。

「君は奴に囚われている。奴と何を話し、どう関わったかは知らないが、君は奴に騙され、殺されかけた。奴の真実を掴むことを止めはしないが、もう、幻影を追いかけるのはやめろ」

願う姿が真実とは限らない。ひどい現実が待ち受けている覚悟をしているつもりだった。それでも、追いかけると誓った。
そのはずなのに、今、自分は誰を追いかけている?
事実関係だけを繋げて彼を見ているのか、或いは、見たい部分だけしか見えていないのか。
降谷の痛烈な言の葉は、洸の中の幻想に突き刺さった。

しばしの沈黙が流れる。耳に届く自然音が虚しく二人の間に流れていたが、徐に口を開いた洸は彼に背を向けた。

「少し、頭を冷やしてきます」
「……どこへ行く気だ」
「…遠くへは行きません、行けませんし。二十分もかかりませんから」

早口で伝え、逃げるように立ち去ろうとした洸の手首が掴まれる。力強い掌の先、己を見つめる彼の瞳を見ることなく、洸は諦めたように紡いだ。

「お墓に行きたいんです。一人で大丈夫ですから」

須臾に、掌の力が緩まった。
戸惑いがちに離された温かさを感じないふりをして、洸は集落の外れ、山の麓にあるという墓地へと向かった。

秋の深まりを感じさせる暖色の紅葉が目に優しい。カエデの葉は色付き、墓地一帯を囲むように植えられている。死を連想させる場所だというのに、ひどく情緒を感じる空間でもあった。
緩やかな傾斜のある坂道を登っていく。聞いていた墓の場所は、早く見つけることができた。
幸村家。その文字が真ん中に掘られた墓石の横に、真新しい彫り込み文字を確認でき、洸は無意識に唇を噛んだ。噴出する感情に固く目を瞑り、手を合わせる。
無機質な墓標に眠るものは何もなくても、ただ、そこで手を合わせるだけでも騒めく心は落ち着く。墓は生者のための物だ。さまざまな思いが錯綜する心の整理のために、人は手を合わせる。

──どんな思いだったんだろう。

幸村巡査は、郊外の雑木林で首を吊った状態で発見された。遺書には、家族への感謝と謝罪が綴られていたという。
何を思って、何を感じて、しかしどうして──

「……分かるわけないのに」

感情が引っ張られる感覚だった。亡くなった人間の想いの全てを理解できるわけではないというのに、ぐるぐると思考は回って止まらない。
それでも、自死を選んでしまった絶望を考えてしまう。洸は、深くため息をを吐いた。
分からなくても考えてしまうのは、自分自身が感傷的なせいか。

「……あれ、これ…」

ふと、色鮮やかな花々に目がいく。墓前に置かれた数輪の花がまだ新しいことに気づき、洸は膝を折って花弁に触れた。数日前ではない、置かれたばかりの花に疑問が湧き上がる。
いったい誰がと思案すると同時に、脳裏に幸村巡査の母親の言葉が蘇った。

「命日……」

幸村巡査が自殺した日は──脳内に広げたカレンダーの数字を追った先、その日は今日から六日後だ。
しかし、それだとさらに疑問だ。命日ではなく、その前に献花する必要があるだろうか。
たまたまその日に用事がある知人が置いたのか。ただ、幸村巡査の一件で彼の生家は親戚筋との仲も良好とは言えなくなった。親しい友人が来ると言っても、それは──

「………まさか」

偶然が重なるのは何か意味がある。
可能性を掴みかけた洸は、しかし、鼓膜を震わせた音に、現実に引き戻された。

ジャリっと、舗装された道を誰かが踏みしめる音。その音はすぐ傍で聞こえた。意識を墓に向けていた洸は、足音によって初めて人の存在に気が付いた。
緩慢に視線が向けられる。視線の先にいた人間は、目深にかぶったキャップのせいで顔は判別できず、加えて上下が真っ黒な服装は墓地と相まってさながら死神のようだった。黒地ジャケットがぎらりと光を反射する。
洸の前で佇む人物、体格からして男であろう。男は、微動だにせず彼女の前に佇立していた。
墓に用があるなら、自分の目の前で立ち尽くすことなどしないはずだ。洸は眉根を寄せた。「あの、…どうかされましたか」と、身体を彼の真正面に向け、おずおずと尋ねたが、男はひとつも声を発しない。気味の悪さに洸は冷たい汗が背中を伝るのを感じた。
茜色が墓地を橙色に照らして、真新しいであろう墓碑に反射した光がその人物を照らしている。ぎらぎらと照らされる男が、徐に、右手をジャケットへと突っ込んだ、と思えば、大股で洸への距離を詰めた。

その刹那だ、洸は息を呑んだ。

「ッ、!」

声を上げることもままならず、身体が大きく傾く。上半身しか反応できず、仰け反った身体はバランスを崩して地面に倒れこんだ。臀部が強烈な痛みを脳に伝える。しかし、痛い、と声を発する余裕は洸にはなかった。
夕陽を背に受け、自分の目の前に聳立する男の相貌は暗い影のせいでわからない。その中で、男が右手に持った銀色の凶器だけが光を放っていた。
距離を詰められた刹那に、洸は夕陽に反射したナイフを視認した。一気に駆け上がった恐怖が身体中を支配したが、どうにか、鋭利なその先端が皮膚を貫き、人間を一瞬で死に至らしめる場所に届く前に回避ができた。
一時的な回避ができたのは僥倖だったが、しかし状況が最悪なことに変わりはない。

──逃げなきゃ

幾度となく死が目の前に顕現してきたというのに、どこか遠くに感じていた。降谷の忠告、風見の気遣いがあったにも関わらず、今、再びその恐怖が洸を襲っている。
防衛本能がかろうじて働き、身体を後方へずり動かすものの、俊敏に動いた男が彼女にまたがったことにより、その努力は泡沫となって消えた。

「いやっ!」

右腕を動かそうとすれば、折りたたんだ男の右足が肩口を押さえつけて地に付させる。もがこうと左腕を動かせば、今度は男の左手が腕を道に張り付けた。下半身だけで男を振りほどくこともできず、洸はパニック状態に陥った。
「離して!」と甲高い声で叫ぶ。助けを呼べないかと傾斜を確認したが、山の麓の墓地、夕刻に人影は見受けられない。
どうする、と脳内会議が開催される間もなく、ゆらりと男の右腕が天に掲げられた。仰ぎ見た相貌から見えたのは、白い男の歯と歪んだ口元で、恐怖が全身を支配した。
一寸先に広がる絶望の未来に洸の唇が無意識に紡ぐ。


「誰、か」


──たすけて





──もう会えない。

痩けた頬と窪んだ目元、憔悴しきったアイツの眼に光はなかった。澱んだ瞳の奥に一片の灯りもない。ただ、闇を見つめ続けるような瞳に思わず手を伸ばした。
どういうことだよ。あの事件、お前じゃないことは分かってんだ。何があった。何をされた。矢継ぎ早にアイツに質問しても、言葉が耳に届いていないかのようにアイツの瞳の中に俺はいなかった。俺の中にアイツはいるのに、アイツの中に俺はいなかった。
ふざけんなよ。会えないってなんだ。何かあったなら俺が何とかする。どうにもならないよ。決めつけるなよ!

──無理なんだよ!

耳朶を震わせた叫びは悲壮感を漂わせていて、俺の言を否定するアイツの声は、絶望の色に染まっていた。無理なんだよ、と打ちひしがれるアイツの感情を俺は何一つ理解できていなかった。
なんでだよ。なんで何も言わないんだよ。無理ってなんだよ。
頑なに拒むアイツに俺の声量は白旗を上げて始める。脆弱な精神に苛立ちが募り、拳を握りしめた俺に、アイツはまた、あの声で俺を呼んだ。亮、とひどく、ひどく柔らかな声音が届けられる。

──ごめん
──ありがとう

疲弊しきったアイツの精一杯の笑顔に、俺は為すすべもなく立ち尽くした。声を発することも、手を伸ばすことも叶わない。
サラリと髪が揺れる。俺の横を通り過ぎたアイツの背を、俺は視線で追うことすらできなかった。

人目を忍んで会った場所、幼い頃に遊んだ秘密基地での再会。


それが、俺とアイツが話した、最後だった。





数秒後の未来に身体を身構えた刹那、洸は視界をシャットダウンして、迫り来る痛みに備えた。
が、痛みは彼女を襲うことなく、逆に響いたのは──パンッ、という乾いた破裂音だった。

「……え」
「クソ!」

破裂音は聞いたことがない音ではなかった。乾いたその音は、一般人は聞きなれないが、洸にとっては苦い記憶と共に思い起こすことができる音だ。
音が空を切り裂いたと同時に、男の手中にあった凶器が砕けた。一秒にも満たない一瞬の出来事、且つ恐怖に視界を閉ざしていた洸にとって現状の理解は瞬時にできるものではなく、発砲音につられて視界を開けた時に飛び込んできた男の苦悶の顔に呆然とする。
何が起きたかは分かるが、何故起きたか理解できない。誰が、と思考を働かせた矢先に思い浮かべたのは一緒に来たベビーフェイスの相貌で、周囲を見渡そうとした刹那、更に一発、破裂音が響き今度は男の足先数センチに穴が空いた。
一発目より近い距離で響いた音に身体が強張る。それは男も同じだったようで、斜め後方からの銃撃に身構えた男はしかしすぐに動きを移した。
洸から飛びのき、身を低く保ちながら一目散に駆け出す。墓石の間を縫うように走り抜け、あっという間に傾斜を駆け下りた男を、上体を上げながら洸は見送った。訳が分からないというのが正直な感想だが、放心状態になる暇も与えないように耳に響いたのは、車が急停止する音。
今度は何だと、男が去って行った方角に目を凝らせば、黒いバンが駐車停止の箇所を陣取っていて、遠目にその姿を視認した矢先に、そこから随分と強面の男達が複数人降りてきた。風体がどう見ても一般人とは一線を画していて、夕刻の墓地に不似合いな男達の目当てが何なのかは、男たちの中にいた死神が証明していた。

「走れ!」

現実をうすぼんやりと見ていた洸の耳朶を懐かしい声が打つ。なんで、と紡いだのは、聳立する木々の間から、彼が出てきただけではなく、その手が、自分の手首を掴んで墓地を囲う林へと誘ったためだった。
それは後方から聞こえる怒号への恐怖心が吹き飛ぶほどの衝撃で、しかし疑義を挟む暇もなく彼は山の奥へ奥へとただ走り続ける。「逃がすな!」と、遠く聞こえた怒声より、洸の意識を奪ったのは彼の後ろ姿と、手に感じる体温だった。
数分、いやもっとだろうか。二人分の息遣いだけが山中に木霊するころには、もはや自分が今どこにいるのか洸には分からないほどに、緑は深まっていた。
獣道を走ってきたため、薄紅色のパンプスには土がこびりついてしまっている。途中、枝が足首を裂いたのか、うっすらと血が滲んでいた。息の上がった洸に対して、この場所まで誘った張本人はひとつも呼吸が乱れていない。
肺に必死に酸素を送り込もうとする洸の手首が再度引かれ、バランスを崩した肢体を踏ん張りの効かない足で支える。よろめく洸に構うことなく進む彼に、洸の踏みとどめていた感情が噴出した。

「ちょっ、と…ッ、待っ、てよ!」
「待たない」
「ッ、……待って、よ…ねぇ…」


──結城!


渾身の力で振りほどいた腕をもう片方の腕で握り、ありったけの声を振り絞ってその名を呼ぶ。
前方だけを見据え、後方の洸を一切振り返らなかった彼は、緩慢に振り返った。

「ここはまだ危険だ。近くの閉鎖した坑道に行く」

変わらない、平坦な声を一方的に放ち、ずんずんと奥地へと更に足を進める。拒むことができるはずの彼の言葉と行動に、洸は振りほどいた腕をもう一度握りしめると、一歩、足を踏み出した。


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