数分歩いた先、二人の目の前に見えてきたのは見るからに崩れかけている廃坑だった。大の大人でも躊躇しそうなおどろおどろしい雰囲気に気おされた洸をよそに、結城は何食わぬ顔で暗闇へと消えていく。「嘘でしょ…」と呟きながらも、振り返った先に広がる緑と薄暗闇、そして途切れたスマートフォンの電波と先ほどの男達の風体に、洸の選択肢はひとつに限られた。
「……ごめんなさい、降谷さん」
二十分どころか、丸一日戻れるか定かではない状況を伝える術を今の洸は持たない。電波が届くところまで迷わず進める自信もなく、かつ危険が及ばないという保証がない以上、目の前で口を広げる廃坑へ進むだけが洸がとることのできる最善だった。
ごくりと生唾を飲み込み、意を決して一歩を踏み出した洸を、暗闇からぬっと伸びてきた結城の手が強引に引き込む。前のめりになった身体を引き上げ、腕時計のライトで道を照らした結城は「はぐれるな」と一言告げると、奥へと足を進めた。
「……寒い」
ひんやりとした空気に背筋がぶるりと震える。ポタリポタリと響くのは水が弾ける音で、一人で踏み入れれば、恐ろしさに足が竦み動けなくなるだろうシチュエーションだが、暗闇の中、目の前に感じる人の温もりが洸に僅かな安堵の感情を覚えさせていた。
進むこと数分。唐突に、結城が立ち止まったかと思えば、ギィ、と擦れる音が坑道内に響いた。
洸の前に現れたのは簡素な木製の扉で、呆気にとられる洸を結城が中へと押し込む。真っ暗闇の中、唐突に強烈な光が室内を照らし、思わず目を瞑った洸がおそるおそる瞼をあげると、部屋の中には、作業台と椅子が三脚、複数の棚が見られ、それらを現代人には馴染みのない灯油ランプが淡く照らしていた。
「ここ…なに?」
「もともと、戦時中の銅の採掘に使われていた場所だ。戦後まもなくまでは採掘されていたが、閉鎖された。この場所は休憩室か何かだったんだろう」
一体なぜそんな場所を知っているのか。疑問は残るものの、理解しきれない事態に陥り、疲労が蓄積されていた身体と思考が限界を告げたのか、洸は手近にあった椅子にへたり込んだ。
聞きたいことが山ほどある。何故、あの場所にいたのか。何故、自分を助けたのか。何故、あの事件を起こしたのか。何故、何故、何故、と矢継ぎ早に脳を掻き乱す疑問に優先順位をつけようにも、思考するエネルギーすらない現状だ。
しかし、その中でも、ふと気付いた事実に対して言葉を紡ぐ。
「……とりあえず、ありがとう」
視線を合わすことをしなかったのは、その言葉が過去の関係を指しているわけではないという意思表示をするためだった。事実として、先ほどは命を救われた。その点のみに対しての謝辞だった。
「……別に。あそこで血生臭いことをされたら、こちらが迷惑だっただけだ」
「幸村巡査のお墓の前、だから?」
変わらない能面にヒビが入る。ひくりと眉根を寄せた仏頂面に洸は確信を抱いた。
「ねぇ、幸村巡査に…何があったの」
硬い声音で問いかける。仮面を被り直した結城は「お前に関係ない」と顔を背けたが、洸は追撃した。
「関係ない、てことは何かはあったんだよね?それを知ったから、結城は武藤管理官を」
「いい加減にしろ」
ジャキリ、とセーフティが外れる音が響く。無情な音とともに向けられたのは、これで何度目だろう。凶器の弾丸が、己の生死を握っている。にも関わらず、洸の心中はひどく凪いでいた。
「下らない憶測を聞くほど、俺は寛容じゃない」
「……なら、また私を撃つの?」
凪いだ水面に、波紋がひとつ広がる。「は」と、怪訝に顔を歪めた結城に、波紋はどんどん広がった。
「聞かれたくないから、言いたくないから、また撃つの?そうやって、意固地になって、後戻りできなくなって、何がしたいの…」
「おい」
カタリと椅子から立ち上がる。緩慢に一歩一歩、銃口に向かって歩く姿は異常そのもので、結城の相貌に明らかな動揺が広がった。「お前、何を」と、紡ぎかけた言葉を、言下に彼女が、絞り出すような声音で遮った。
「なら、なんで──なんであの時、私にトドメをささなかったの…ッ」
腹の中で抑えられていた、暴発しかけていた感情が、口から放出される。爆発的な感情を静かに吐露することで、逆に彼女の心中が表現された。
なんで、どうして。振り回される感情と理性に苦悶の色を浮かべる。
「あの時、私を確実に殺した方が都合が良かったのに結城はそうしなかった。お台場で会った時も結局撃たず、今回に至っては私を助けた。わざわざ、アイツらが来ないところまで連れて来て、隠してくれて。ねぇ、結城、なんで、なんでよ……」
「分かんないよ」と、徐々に消え入るような声になった洸が彼の腕を弱々しく掴んだ。
理解できないことが多過ぎて、情報過多になりながらも、それでも幻影を追い続けてしまう。見てきた幻影と現実を重ね合わせ、どちらも結局、現実なのではないかと感じてしまう自分がいた。軽口を叩き、信頼しあった過去の幻のも、非情な現実も現状も、全て偽りではない本当だと。
理性で押さえつけていた瑣末と呼ばれる感情が溢れ出す。
結局、洸は、信じることを諦めきれなかった。
「……自分が撃たれたことも、痛みも忘れたのかお前は」
平坦な声が洸の耳朶を打つ。常に淡白で、何者も寄せ付けない男の声音が問いかけても、洸の意思は強固だった。
「忘れてない。痛かったし、苦しかった。絶望したし、自暴自棄にもなった。……結城が犯した罪も理解してる」
人を傷つけることは、罪を犯す理由にはならない。人の一存によって、個人の生存権を犯すことは、法治国家において許されない。
それでも、彼女は、否──
「でも、救われたのも事実なんだよ」
だからこそ、知りたいと願うのだ。
真っ直ぐ、彼を見つめる瞳に嘘偽りはなく、ただ、目の前の存在をまるごと包む光を内包しているその双眸に、結城が目を瞠る。
「ここに来て、わけがわからなくて、でも結城とは秘密を共有できて、だから嬉しかった。だから悲しかった。だから、……理由が知りたい、それだけなんだよ…」
俯き、ただ感情を吐露する。言いたいことがまとまらない。冷静に論理的に、事実をただ知ろうにも、洸にその余裕はなくて。
しかし、布越しにピタリと付けられた銃口、トリガーにかけられた指は微かに震え、やがて──静かに降ろされた。
凶器を下げたものの、しかし彼から紡がれた言葉はひどく冷たいものだった。
「……詳細を話すつもりはない」
「ッ、結城…」
「死にたくないなら、首を突っ込むな。もう、お前はマークされてる。風見さんでも誰でもいいから、公安の信頼できる人間に現状を伝えろ。身辺警備を強化してくれるはずだ」
サラリと衝撃の事実が伝えられる。
「待ってよ…なんで私が」
「幸村光輝の事件を蒸し返されたら困る人間がいる、そういうことだ」
洸の手を振り払い、結城はグロックをジャケットにしまった。作業台に散らばっている弾丸と弾倉をザックに詰める彼に、洸は尚食い下がる。
「……あの港区で起きた銃殺事件…それに、半年前の夫婦の刺殺事件には裏がある、ていうこと?」
ピタリと結城の動きが止まった。すぐに動きを再開したものの、その反応に洸は確信を持った。
幸村光輝巡査の死には裏がある。そして、結城が銃殺した武藤管理官が絡んだ事件、港区の夫婦刺殺事件は、繋がっている。
降谷からの情報では、半年前の事件の犯人、里見哲は武藤管理官から殺しを使嗾された。しかし、留置場にいる時に、武藤の部下と名乗る男性に黙秘を薦められている。
「里見さんに黙秘を薦めたの、結城なんでしょ? 拘置所に移って検察側の捜査が行われるようにしたことで、武藤管理官が下手に手を出せない状況をつくった。でも、里見さんには弟さんのことがあるから詳細を話させるわけにいかないから、黙秘させたんじゃないの…?」
「……それは、お前が調べたことか」
結城の声色が変化する。ざわりと肌を刺激した空気に洸の言葉が一瞬詰まった。「……そうだよ」と、脳裏によぎったベビーフェイスの漆黒の顔に、咄嗟に虚言を紡ぐが、結城の表情は変わらない能面だった。
彼の視線が洸へと簡単に転じられる。透き通る瞳が、彼女をとらえた。
「本当に、お前は厄介だな」
僅かに細められた瞳、諦念の色が混じった声音。淡々と唇を動かす結城の思惑が読めずに彼をただ見つめる洸に、能面が紡ぐ。
「これ以上関わるな。余計なことを調べて首を突っ込まれても迷惑だ」
突き放すような物言いに洸は違和感を覚えた。ご丁寧に自分の身を心配してくれている、とは違う引っかかりを覚え、言動を振り返る。
首を突っ込む、迷惑、これ以上──
「……まだ、終わってないの?」
「……何?」
怪訝に顔を歪めた彼に重ねて問う。
「私が調べて、首を突っ込んで迷惑って………困るってことは、まだ何かをするの?また……誰かを殺すの?」
僅かに見開かれた双眸が真実を語っている。
その指先が、再び引かれて誰かの命を散らすのだろうか。先に見える真っ暗闇の未来に、洸は胸騒ぎが止まらなかった。「結城」と縋るような視線を遣るが、彼は、彼女を見ることはなかった。
「お前には関係ない」
「ッ、関係なくなんか」
「邪魔をするなら、俺はお前を殺す」
冷然たる声が洸を斬り伏せる。冷や水を浴びせられたかのような心地に、洸の息が詰まった。
一線を引き、己とは違う立ち位置にいるのだと突きつける言動は、洸にとっても胸が詰まるもので。かつての己の意固地な後ろ姿を垣間見ている気がした。
「結城…」
「どっちにしろ、これ以上首を突っ込めば、お前自身が殺されてもおかしくない。死にたくないなら家で大人しくしてろ」
「……そんなの、できない」
「なら、此処に監禁でもしてやろうか」
くるりと振り返ったと同時に、洸の手首に痛みが走る。掴まれたそこはひどく軋んで、顔を歪めた洸に構わず、結城はテーブルに彼女を縫い付けた。
「幸いなことに此処には通気孔がある。しばらく居ても問題はない」
するりと、顔の割に無骨な指先が髪先をなぞり、頬を撫で、首へと絡みつく。
「それとも、此処で終わるか」
僅かに強められた力が細首を圧迫する。能面を深く被った相貌が、室内灯の光を背に受け、暗く塗りつぶされた。
──あの時、こうなってたら…
脳裏に浮かんだかつての情景と今を洸は重ね合わせた。
生きることに絶望して、この世界を、自分の世界を終わらせてくれと懇願したあの日。運命共同体なら、貴方の手で終わらせてくれと縋った掌は、受け止められることなく地に伏せた。
「……終わらないよ」
唇が形作ったのは、仄かな笑みだった。眉根を寄せた結城に、洸はもう一度紡ぐ。
「私がね、終わりたくないの」
己の首に回している彼の掌に、自分のそれを重ね合わせて。無骨な手を柔らかく包み込み、彼女は想いを綴った。
「結城に、終わらせて欲しくない」
悲しい選択を他人に委ねるのは、罪だ。悲しみの重さを勝手に押し付けて、自分だけのうのうと苦しみから解放されることは、あってはいけない。
あの日、己に手を掛けなかった彼の心の奥にあったのが人の心だったとしたら、彼に凶行を重ねさせてはいけない。
「ごめんね、結城。私は諦めが悪いの。だから、」
「もういい」
紡ごうとした想いは、冷然とした声に遮られた。
首に感じていた圧迫感が急に消える。同時に視界が開け、洸は上体を起こした。背を向け、表情が伺えない彼に「結城…?」と声を掛けるが、返事はひとつとして返らない。
その後、結城が洸に話しかけることはなかった。
*
久しぶりに懐かしい夢を見た。
郷里の情景が眼前に浮かぶことは数ヶ月ぶりだ。春色の市街地は桜、夏色の水田には緑が、秋色の山麓は紅が煌々と輝き、冬色の郊外には雪原が広がる。走馬灯のように流れる映像が、まるで現実へと自分を帰しているようだった。
流れる映像(ヴィジョン)をぽつねんと見つめる。ここはおばあちゃんと行った。あそこも、おばあちゃんと行った。懐かしい想い出の端々に祖母の姿が蘇り、無意識に熱くなる目頭からはらりとひとつ、ふたつ、雫が落ちていく。
どうして今さら、こんな光景見るんだろう。
帰れない世界を憧憬したところで望外の帰結を導けないのなら、この光景になんの意味があるんだろう。
分からなくて、でもいつまでも見てしまう走馬灯の中、パッと映像が切り替わった。
白亜の部屋、真白なカーテンとベッド。その周りに立つのは血縁である父母と兄弟だった。
嗚呼、こんな光景あったっけ。
不可思議だったのは、母の後ろ姿が妙に物悲しく感じられたことだ。斜め後ろから見えた横顔に、ひとつ、それは、私と同じ、ひと粒の雫で。
嘘だ。知らない。私はこんな光景知らない。だって、あの人達はおばあちゃんの顔を見ても、そんな顔を一度だって。
情景に手を伸ばす。人に囲まれて見えない祖母を見たいと、一歩踏み出して──
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