「…きろッ…おいっ……洸!!」
「ッ、はい!」

唐突に耳朶を打った怒声に、反射的に直立不動の姿勢をとった。自衛官顔負けの俊敏さだと呑気な、ぬるま湯に浸かったような思考から一気に冷水をぶちまけられたかのような心持ちになったのは、眼前にひどく顔が歪んだベビーフェイスが仁王立ちしていたためだった。当然、洸の顔はピシリと硬直した。
え、待ってなんで降谷さんがいるの、と混乱する脳内で辺りをくるりと見渡す。が、無機質な岩壁と棚の他にあるのは、自分が今しがた眠りこけて突っ伏していた机と腰掛けている椅子くらいだった。
ふと、肩に感じた感触に手を伸ばす。掛けられていたのはファー付きのミリタリージャケットで、それが誰の物か分からないほど洸は愚鈍ではない。

「な、んで…」

当の本人の姿は見られない。会話が途絶えてから、蓄積された疲労のせいか洸の思考は揺蕩っていき、そして糸が切れたようにプツンと情報が遮断された。
当人はその間に姿をくらましたらしい。

「降谷さん!結城はッ──」

勢いよく立ち上がった洸は彼に尋ねようとしたが、しかし言葉が紡がれる前に全身の自由を奪われた。
正確には、降谷の腕の中に閉じ込められた。

「……は、え…降谷…さん?」
「……ケガは」
「え、…あ、ぁあ、してないです。あ、いや。変な連中から逃げる時に擦りむいたくらいです」
「無事なんだな?」
「五体は満足です。……降谷さん?」

グッと力が強くなる。状況の理解が追いつかない洸が視線を右往左往させていると、降谷がぽつりと呟いた。

「銃声が墓地の方から聞こえた。すぐに向かったら居たのは風体の悪い男達のみ。君は居ないが、奴らはしきりに何者かを探している風だったから嫌な予感がした」

降谷からもたらされた情報によると、自分はやはり何かしらの輩に狙われているらしい。

「でも、どうして此処が?」
「風見のスマホに、差出人は不明だが位置情報が届けられた。連絡を受けて来たら、君が此処にいた」
「差出人不明…風見さんに……ぁ」

風見のスマホにという情報に洸は、この場に居ない彼の相貌を思い浮かべた。
元部下なら連絡先を知っていてもおかしくはない。風見に位置情報を届けるという痕跡が残るやり方を彼がしたのなら、今、彼は何処に。

「降谷さん、あの…」

頭の片隅で状況を俯瞰していた洸が、この数時間で手に入れた情報を伝えようとした矢先、耳朶を打ったのは降谷の絞り出すような声だった。

「………本当に、無事なんだな」

耳元で、安堵を吐露するように囁かれた言葉に、洸はハッと気づいた。
鳴り響いた銃声、駆けあがった階段、視界に飛び込んできた、友の死。
降谷零は既に、誰かの亡くす痛みを嫌というほど知っている。人の命は尊く、しかし脆く儚いことを彼は悲しいほど理解している。
彼が回した腕に込めていたのは、ひどく哀切を秘めた感情だった。
洸は回された降谷の腕を柔く掴み「すみません」と呟いた。「君のせいじゃないだろ」と返されたぶっきらぼうな声に苦笑しながらも、彼女は再度、「でも、すみません」と返す。

「大丈夫です。私、生きてますから」

はにかんだ笑みに、降谷の腕の力が幾ばくか弱まった。


「──で、結城亮はまだ誰かを殺そうとしている、と」

国産のスポーツカーに揺られ、街灯がまばらな夜道を駆ける中、降谷の問いに洸は頷いた。
結城亮との接触、謎の男達からの襲撃。この数時間で起きた理解能力を超える出来事を洸は降谷に一から説明した。廃坑の一室で結城と話をしたと口にした瞬間、「何もされなかったろうな」と降谷の視線が一瞬鋭くなったが、無意識に首を擦りながら「何も」と僅かに視線を逸らしたため、余計に目を眇められた。曖昧な笑顔が久しぶりに顔を出し、そんなことよりも、と説明を続ければ、降谷の眉間に皺が寄っていったが、洸は構わず続けた。
結城亮は、復讐を果たそうとしている。幼馴染だった幸村光輝巡査の死が、彼を復讐の道へと突き動かしている。

「幸村巡査の死には何か裏があります。現に、ここに来た私まで狙われ始めたということは」
「探られたくない何者かの思惑があるということか」
「おそらく。結城は、死にたくなければ首を突っ込むなと言ってきました。邪魔をされたくないのもあると思いますが、たぶん、結城自身が追っている人間が、私の行動を邪魔に思ったのかと」

ともすれば、次に浮かび上がる疑問は──

「此処に来ることを、君は誰に話した」

洸が、幸村光輝の生家に来るであろうことを予想できた人間は、誰か、だ。
降谷の問いに、洸が思い浮かべたのは日々通い詰める場所だった。

「記者室で…何人かの記者の方がおられる時に話しました。有給を取るので一言断っておこうと思って」
「それ以外は」
「電話で梓さんに伝えたくらいで他には誰にも。それに、皆さんにお話しする時に言ったのは、友人と奥多摩に紅葉を楽しみに行ってくる、とだけで幸村巡査の生家の事は話していません」
「だろうな。君のその発言から、君があの場所へ来ることを予想しえた人間となると、おのずと絞られるのは──」
「──職場の人を疑いたくはないんですけどね…」

もとより、梓が黒幕の一員などということは、物語の性質上有り得ない。必然的に絞られるのは、記者室に詰める人間になる。
有給は今日しか取っていないため、明日からは通常勤務だ。陰鬱な心持ちになる洸が、気分転換にと車窓から星々を眺めた刹那、

「とりあえず、当分、俺の家に泊まれ」

晴天の霹靂とも言える爆弾発言が聞こえたものなので、一瞬、聞き間違えかと彼の顔をギギギと首を向けて確認した。うん?、と首を傾げるが、当の本人はきちんと前を向いて運転している。涼しげな横顔に、さらにまた、うん?、と首を傾げる。

「え、とま、え?泊まるってどういうことですか」
「命を狙われる危険性がある以上、一人暮らしの、しかも場所が割れているだろう家に帰せるわけがないだろう」
「いや、でも公安の皆さんが」
「二十四時間体制で張るより、こちらの方が確実だ」
「あ、そう…です…か…」

違うそうじゃない。否、そうなのだがそうじゃない。問題点はそこではない。
降谷零の自宅に呼ばれるとはわけが違う。泊まる、一つ屋根の下、降谷零と共に過ごす。字面だけ見ても恐れ慄く事象だ。

「心配しなくても不便はさせない。家の物は好きなように使ってもらっても構わない。寝るところは嫌かもしれないが俺のベッドを使ってくれ」
「床で結構です」

間髪入れず断った洸に降谷が嘆息する。

「女性を床で寝させるわけないだろう」
「なら、ソファとか」
「俺がそちらで寝る」
「いや、家主をソファで寝させるとか罪悪感しか湧きませんから嫌です」

有無を言わさない降谷の声音に、洸も食い下がる。なんとか状況回避ができないか、これだけ駄々をこねれば家に泊まるなどという愚行を撤回しないかと言下に降谷の提案を否定していた洸に対して、降谷が提示した答えは国産スポーツカーの急停止だった。
運動エネルギーにより身体がシートベルトに食い込み、むせかえった洸に降谷は実に美麗な尊顔を彼女に向けた。

「なんなら同衾するか?」

たっぷり三秒は間を置いた洸の相貌が、その間にみるみる朱に染まる。「ど、どう…」とワナワナと身体を震わせた彼女に降谷はくっくと笑みを溢し「冗談だ」とRX-7を吹かせた。

「だが、それが嫌なら大人しく言うことを聞いてくれないか」

選択肢があってないような提案に、洸は肩を落として今度こそ白旗を上げた。





駐車場から家のドアを開けるまで、周囲に視線を走らせながら降谷は洸を誘導した。警戒を怠らず、彼女を家の中へ滑り込ませると後ろ手で鍵を締める。
若干、緊張の色が見られる彼女の脇を「取って食ったりしないから安心しろ」と通り抜ければ、声にならない抗議が彼女の顔から漏れた。コロコロと変わる表層に飽きることがない。
ふてくされた顔で家に上がった洸が、ふと、室内に置かれたギターに視線を遣った刹那、眼が切なげに細められる。「気になるのか」と問えば、困ったように首を振った。

「とりあえず、君は明日登庁しても普段通りに過ごせ。奥多摩へ行くことを話した連中と会話する時は注意すること」
「注意…て、どうすれば」
「君が登庁した際に不審な素振りを見せればソイツを観察すればいい。くれぐれも一人になる時間は作るな。どこかに連れ込まれる危険性は庁内でもある」

洸の顔が強張る。連れ込まれるという単語に思うところがあったのか、身を守るように右手で左腕を握った。「分かりました」と、緊迫した声音を出す彼女に、降谷は徐に手を伸ばし、その頭に置いた。

「何かあればすぐに連絡をするんだ。君に危険が及ばないように善処する」

必ず、その身を守ると誓えないところは降谷の実直さの表れだった。組織への潜入、上からの任務、全てを捌いていく中で彼女だけを注視することは不可能だ。
それでも、抱える不安を一欠片でも払拭できればと伸ばされた腕と添えられた掌に、洸は僅かに目を瞠り、そして、眉尻を下げて口元を緩めた。

「連絡を入れることがないように立ち回りますよ」

虚勢か否か分からない言葉だったが、それでも、悪戯っぽく笑む姿に降谷は何処と無く胸を撫で下ろす。
一度ならず、二度、三度と彼女はこの半年の間で既に多くの事件に巻き込まれていた。結城亮との接触から、事件に否応なく絡め取られ、自分自身を傷つけ、また外部から傷つけられてきた。
手を差し伸べても拒絶し、己の殻に閉じこもる様はまるで自己の心の崩壊を防ぐようで。脆く儚い己が心を必死に守る子どものようだった。
裏切られ、絶望し、拒絶してきた彼女が、少なくとも、今は差し出された手を取り、伸ばされた腕を受け入れている。

──悪くない。

絆されているのは己か彼女か。
そんな疑問が瑣末に思える程度に、降谷自身もまた現状を受け入れていた。





病室が見えた。真っ白な部屋、カーテンがたなびく外の景色は抜けるような青空が広がっている。
また、だ。またこの夢だ。私は何度、この光景を見れば良いのだろう。
ただ、いつもと少し違うのは、今回は家族全員がそこにいるわけでは無かったことで。病室の入り口から見るあの人の後ろ姿だけが、殺風景な部屋で浮いていた。
何をしているの、そんなところで。貴女が選んだんじゃない。お婆ちゃんがうちで最後を迎えたいと言ったのに、貴女達はそれをにべもなく断った。
冷徹で、仄暗い光しか灯らない瞳の奥がいつも嫌だった。家族として、共同体の一構成員としてその機能を果たしていただけで、私は貴女にとって無償の愛を注ぐ対象なんかじなかった。それでも良い、それが私達の普通で、そんなことは嘆くことでもなんでもないと自分に言い聞かせて。
でもね、私はやっぱりそんな貴女が嫌いだった。
ねぇ、涙なんか見せないでよ。一丁前に、家族なんてものを意識しないでよ。

こっちを見てよ──母さん。


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