「おはようございます」
凛とした声が室内の空気を揺らした。それぞれのデスクで業務を行っていた記者陣が視線を移す。「あぁ、おはよう」「おはようございます」と、各人からかけられる挨拶に会釈を返して彼女は事務席へ腰を下ろした。
バッグを下ろし、各紙の紙面をまずは机に広げた彼女の元に、最初に駆け寄ったのは若手の女性記者だ。「刀海さん!どうでしたか、紅葉」と頬を紅潮させて聞くところを見るに、彼女が有給をとってまで奥多摩へ出かけたのは男性関係だと踏んでいるようだ。期待が顔に出ている記者に、彼女は困ったように笑むと「綺麗でしたよ」と卒ない回答をする。それ以外何もないのか、と追及の視線を送った記者にも、やはり苦笑を浮かべて答えた「ご期待に沿うような話はありませんから」
「何人くらいのグループで行ったんですか?」
軽い調子の声が聞こえたのは部屋の中央、休憩用のソファが置いてあるスペースからだ。朝から呑気に各紙の紙面を悠々自適に眺めていた河村からの問いかけに、「友達と私の二人ですよ」と返す。
「なんだ、彼氏がいるかと思ってた」と会話に入って来たのは中堅の男性記者だ。たっぷりと湛えた無精髭をさすり、口を弧の字に歪めて含意のある視線を送る男に、彼女は「そんな人がいれば良いんですけどね」と肩を竦める。
本当に彼氏と行ってないのか、と少々騒がしくなった室内で、彼女はひとつ思い出したように、あぁ、と呟いた。
「──彼氏じゃないですけど、変な男の人たちに絡まれちゃったんですよね」
ざわりと、室内の空気が軋んだ。
女性記者たちはこぞって彼女に詰め寄った。どこで、どうして、どんな奴らに、と矢継ぎ早な質問に彼女は、うん、と唸る。
「怖そうな人達でした。なんか首に入れ墨がちらって見えて、こんな静かな田舎に危ない人達がいるんだな、て思ったんですよね」
けろりと話す彼女とは対照的に周りはひどく彼女の身を案じた。大丈夫か、何かされていないか、と掛けられた言葉に彼女は首を振った。
「大丈夫です。けど、やっぱり怖いですよね。世の中何が起きるか分からないから注意しないと」
そうだ、女性なんだから特にだよ。普段から気を付けないとね。帰り道とか、家での戸締りとかしっかりしなよ。案じる言葉ひとつひとつに彼女は頷いた。「すみません、ありがとうございます」と眉尻を下げる彼女に、調子の軽い声が再度届けられた。
「不安なら、俺が送ってあげましょうか」
太平楽なトーンに対して、室内はシンと静まり返る。しかしそれも一瞬で、次の瞬間、声の主、河村は女性陣の非難の嵐に見舞われた。「サイテー」「気持ち悪っ」「送り狼になるつもりでしょ」「河村の癖に」と猛撃を受けた河村は、若干涙目になりながら「し、親切心のつもりだったのにぃ」と大きく肩を落とした。憐れみを込めて彼の肩を叩いた中堅記者も巻き添えを食らい、男性陣を女性陣が糾弾する構図になってしまった記者室の面々を、彼女は若干引き気味に眺めていた。
と、その彼女の肩に、拳一つ分の重みが乗る。ひくりと反応した彼女が視線を上向ければ、強面記者として名を轟かせている男が、変わらない無表情で呟いた。
「気ィつけて下さいよ」
顔と言葉の内容が一致はしていなかったが、彼女はひとつ瞬くと、目尻を下げて微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
*
最後に登庁したのはいつだろうか。トリプルフェイスを持ち、使い分ける降谷にとってそれを数えることに意味などはないが、ふと考えてしまう程度には期間が空いていた。セーフハウスのひとつ、住宅街にポツンと立つ古びた一軒家で降谷はここ数週間の出来事を振り返る。
組織からの依頼、ポアロでの勤務、そして刀海洸と追う結城亮に纏わる事件、目まぐるしく日々は過ぎていく中で、特筆すべきは彼女のことだ。
彼女を保護観察するのは何も自分でなくて良かった。部下である風見の手足として動いている現場要員は複数人いる。その内の何人かを回しても良かったが、降谷が風見に伝えたのは自分で行くという判断。降谷零にしては些か不可解な指示だったろう。降谷自身、己の行動の変化に惑いつつあるが、それでも、彼女が行く道を座して見るだけというのは己が許さなかった。
彼女はどこまでも真実を追求しようとする。例えそれが危険で傷つく結果となっても、恐らく後悔をしない。
硬い意志を灯した瞳が降谷を捉えた時、降谷は彼女に敵わないと感じてしまった。本当のことを知りたい、しかし、己を顧みず誰かを悲しませることは決してしない。
自分の足で立って、歩き出そうとする意志の強さが垣間見えた。
──私は貴方を信じます、何があっても
しかし、前を向き始めた彼女の笑顔は降谷には些か眩しい。
裏切られた人間の信じるという言葉には重みがある。ましてや、トリプルフェイスを持ち、偽りの人生を持つ自分に対しておいそれと掛けられる言葉ではない。
いったい、虚構に塗れた己の何を信じるというのだろう。
全ての仮面が剥がれ落ちた時、果たして彼女は自分のことを──
「馬鹿馬鹿しい」
感傷的になり過ぎている。降谷は首を振った。
テーブルに置いたスマートフォンが振動し、ディスプレイを確認する。Kと記された画面に降谷の腕は素早く伸びた。手に取ったそれを耳元に当て「風見、例の件か」と相手に問う。『お疲れ様です』と前置いた声の主、風見は降谷の問いを肯定した。
『はい。武藤の口座に振り込んでいたペーパーカンパニーへの出資記録についてですが、いくつもの架空法人を経ています。出資者側も足がつかないようにしているのかと』
「悪知恵が働く相手だな、厄介な」
武藤の口座に不定期に振り込まれているという点、更には架空法人、ペーパーカンパニーを使っている点からも、アシが付かないように工夫する頭がある相手なことは理解していた。が、ペーパーカンパニーへの出資、つまり金の振込までも、更に別の架空法人を複数跨いで送金しているとなると調べるのに時間がかかる。
結城亮が、何か、を起こす可能性が濃厚な状況で、捜査の現状が芳しくないことは憂慮すべき事態だった。
『班員の数を増やして対応します』と、降谷の懸念を読み取った風見が硬い声を返したあと『もう一つ報告があります』と続けた。
『武藤の口座から、小口で短期間に数度分けていますが、……東都不動に振込記録があるんです』
「……なんだと」
降谷の片眉が上がる。
東都不動、拘置所内で自殺した組織の元構成員、高橋勇が勤めていた不動産会社だ。従業員五十人の中小企業で、マンション、アパートを保有し、単身用の物件のほかベンチャー起業向けのテナントも紹介している。不審な点がないように見える会社だが──
(ただの不動産会社ではないということか)
武藤が東都不動に金を出す理由、しかも小口ではあるが複数回に渡っている。
ふと、降谷はテーブルに置かれた卓上カレンダーに視線を落とした。
「……風見、その金が振り込まれた日付はいつだ」
ぽつりと呟きのように出された降谷の問いに、風見が資料を捲る音が電話越しに響く。
『……二年前の…十一月が初めです。三十万を三回に分けて、半年間のうちに。次は、……夏ですね、丁度、高橋が自殺した時期と重なります』
「……武藤の口座に、金が振り込まれた時期は?」
『……同、時期…です。振込回数が多いですが、どちらも、武藤の口座から東都不動に振り込まれた後の二ヶ月以内に……』
届けられた情報に降谷は目を見開いた。記憶にある情報を統合する。
東都不動と武藤管理官にも繋がりがある。金銭関係、複数回に分けての振込、二年前と夏、不動産会社。
──夏前の事件も港区でしたよね
彼女と歩いた場所は、どうなっていた。
「風見、東都不動の地上げ記録を調べろ」
『地上げですか?』
「あぁ。この二年の記録だ」
一拍、呼吸を置いた風見が「……すぐに調べます」と神妙な声で返したことから、彼もまた降谷の意図に気付いたことが伺えた。「よろしく頼む」と伝えて電話を切った降谷は、こめかみを抑えて天井を仰ぐ。
武藤の口座に架空法人から振り込まれた金。武藤の口座から、東都不動に振り込まれた金。同じ時期に金が動き、また同時期に世間を騒がした事件は──
(いや、まだ憶測だ。決定的な証拠が無ければ…)
黙考していた降谷は、スマートフォンをタップすると電話帳を開いた。スライドした先、タップしたのは十一と書かれた連絡先。
コール音が五度ほど鳴る。六度目が鳴るか否かのタイミングで電話口に出たのは、
「もしもし」
*
欠片ほども役に立たない与太話に華を咲かせていた記者陣は、玉突き事故が発生したという報せを受けて一斉に記者室を飛び出していった。色恋話にちょっかいをかけていたが、腐っても記者というわけか、報せを受けた途端、ものの一分程度で支度を済ませて出て行ってしまった。
「いやぁ、皆やっぱり早いっすねぇ」
ただ一人を除いては。
がらんとした室内に木霊する太平楽な声に、洸は僅かに眉尻を下げて声の主を見遣る。
「河村さん…行かなくて良いんですか」
苦笑まじりの声に、河村はヘラリと笑むだけだ。
「あそこの担当は烏丸さんだから大丈夫っスよ。なんなら、俺が行ったら邪魔なだけ」
「はぁ…」
「あ、今コイツ駄目だ、て思ったでしょ!言っときますけど、俺けっこうちゃんと仕事してますからね!」
「はぁ…」
誰も聞いていない。喉から出かけた言葉を呑み込み、洸は事務デスクに腰掛ける。話し相手をするほど自分も仕事が終わっているわけではない。
溜まった広報資料と提供資料を仕分けしようとした刹那、スマートフォンが振動した。
「……え」
パチリと眼を瞬かせる。
こんな時間に掛けてくるのは珍しい。
思わずスマホの画面をまじまじと見た洸の背後から、唐突に、ぬっと端整な横顔が現れた。
「なんスか、彼氏っスか」
「わっ、河村さん…ッ」
「お、その慌てようはもしや…」
ガタンとイスを思い切り後方へ追いやり、彼の鳩尾に背もたれをクリーンヒットさせる。ひしゃげた声が出た彼に「セクハラで訴えますよ」と冷笑を遣り、洸は通話ボタンを押した。
「もしもし、刀海です。どうしましたか……安室さん」
記者室の隅へ行き、声を抑えながら問いかけた電話の向こうの相手は、普段なら夜しか連絡をよこさない彼だった。
降谷零、登録名は安室透にしている彼は、硬い声音を発した。
『君の近くに、組対関係に詳しい記者はいるか。君から見て、信用できそうな人間が望ましい』
「組対……武藤管理官のことに少し詳しい記者さんならいます。信用…たぶん、大丈夫です」
ちらりと後方を見遣れば、鳩尾を押さえてソファにうずくまっている河村と目が合う。きょとんと呆けた顔をする彼ににこりと綺麗な微笑みを向け、背を向けると受話越しに降谷の指示を聞いた。
「………了解しました」
僅か三十秒ほどの会話を交わし、洸は再び河村に向き直った。びくりと子犬よろしく震えた彼に大股で近寄ると、隣へ腰掛ける。
「河村さん、聞きたいんですけど」
「は、はい」
「変なこと言わなかったら小突かないんで、そんなに怯えないで下さい」
ぐっと言葉を詰まらせた彼の瞳を見つめて、洸は降谷からの質問を投げかけた。
「……河村さん、以前話されてましたよね。武藤管理官に恨みを持ってそうな暴力団組織のこと」
思わぬ話に、河村の目が瞬く。へ、と口を開け、呆けた彼に構うことなく洸は続けた。
「確か…麻薬関係と」
「麻薬関係が佐古田組で、不動産やってるのが秋林組っスけど…それがどうかしたんすか?」
話の隠微さに眉根を寄せ始めた河村は、洸の瞳を見つめ返した。
焦茶混じりの瞳が真っ直ぐ己を見据えていることを確認し、洸は一呼吸置いて尋ねた。
「秋林組の傘下にいる、不動産を知っていますか」
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